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歴史の扉② 吹奏楽の世界史

◆少しずつ、新科目「歴史総合」の素材集めをしていこうと思います。

歴史総合歴史の扉 (1)歴史と私たち
諸資料を活用し,課題を追究したり解決したりする活動を通して,次の事項を身に付けることができるよう指導する。
ア 次のような知識を身に付けること。
(ア)私たちの生活や身近な地域などに見られる諸事象を基に,それらが日本や日本周辺の地域及び 世界の歴史とつながっていることを理解すること。
イ 次のような思考力,判断力,表現力等を身に付けること。 (ア)近代化,国際秩序の変化や大衆化,グローバル化などの歴史の変化と関わらせて,アで取り上げる諸事象と日本や日本周辺の地域及び世界の歴史との関連性について考察し,表現すること。



 ほとんどの学校に設けられている吹奏楽部。その系譜を、世界史にクロスオーバーさせてみよう。


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オスマン帝国の軍楽隊


 吹奏楽の起源は、一般にオスマン帝国の軍楽隊メフテル)にもとめられる。兵隊とともに移動し、攻撃のタイミングを知らせて味方を鼓舞したり、相手を威嚇したりするために用いられた。

 演奏に用いられた楽器は、古来北アフリカから西南アジアにかけて普及していた管楽器や打楽器だ。オスマン帝国の軍楽隊も、それ以前からあった軍楽隊の様式を完成させたものとみたほうがよいだろう。




ヨーロッパにおける楽器や奏法の発達


 17世紀以降、ヨーロッパでは軍楽隊が君主国によって整備されるようになっていく。
 たとえばイギリスのコールドストリーム軍楽隊は、イギリス革命中にクロムウェルが指揮したニューモデル軍の歩兵連隊ルーツを持つ(王政復古後に近衛歩兵連隊として存続)。


 一方、管楽器の合奏は、18世紀に貴族や教会がパトロンとなり、ハイドンやモーツァルトら宮廷学士によって室内楽(ディヴェルティメント)や野外演奏用(セレナード)の楽曲が多数つくられ、フルート奏者としても知られるプロイセンのフリードリヒ2世は八重奏を軍楽隊に採用した。また、18世紀末にかけて、楽器の改良がすすみ、大編成化も進んでいった。

 19世紀には革命によって職を失った宮廷学士が、新たに建設された国民国家における軍楽隊の担い手となっていった。



英国式ブラスバンド

 イギリスにおける吹奏楽の発達には、ドイツやフランスなどの大陸とは別の文脈もからんでいる。
 18世紀後半にいちはやく産業革命を開始したイギリスでは、都市における労働者人口が急増し、都市における貧困や犯罪が社会問題となっていた。そこで、上流階級の人々のなかに、労働者のモラルを正そうという動きが生まれた。その一つが禁酒運動である。
 ゴロツキどもになにか適当に「お行儀の良い」趣味をあたえておけば、悪に手を染めることなどなくなるだろうというわけだ。

 こうして、職場や地域単位のブラスバンドが結成され、コンテストも催されるようになる。産業革命による大量印刷技術の普及により、安価な楽譜が流通可能になったことも追い風となった。「ブラス」のバンドなので、木管楽器はない。



米国で発達した軍事色の薄い吹奏楽

 ヨーロッパと異なり、アメリカでは軍楽隊の活動の場は限定的で、その代わり学校や私設の吹奏楽団が設けられるようになった。『星条旗よ永遠なれ』(1896)で知られるスーザ(1854〜1932)の楽団が有名だ。
 アメリカにおける吹奏楽は、その規模に応じ「シンフォニック・バンド」「コンサート・バンド」「ウィンド・オーケストラ」などど呼ばれ、教育の場や大衆向けに広く楽しまれた点がポイントだ(クラリネットを中心とする編成も特徴の一つである)。また、NYのイーストマン音楽学校のフレデリック・フェネルの下、より緻密な合奏をめざす「ウィンド・アンサンブル」(1952年にイーストマン・ウィンド・アンサンブル設立)が発達し、吹奏楽の地位向上に貢献した。



日本への紹介と独自の発展


 日本に吹奏楽が本格的に紹介されたのは、開国後まもなくのことである。長崎海軍伝習所の御雇い外国人カッティンディーケ(1816〜1866)により、行進曲が紹介された。やはり、富国強兵政策の一環としての、軍楽隊の編成が目的だった。
 そもそも手足のリズムを揃え、集団で規律正しく行進することは、当時の諸藩や幕府軍にとっては至難の業であった。映画『たそがれ清兵衛』では、下級藩士たちが苦慮するシーンが見える。
 1871年(明治4年)には、政府が陸軍省、海軍省に、それぞれ軍楽隊を置いた。こののち、日清・日露戦争期ごろまで、日本の軍楽隊はドイツ、イギリス、フランスに学んでいくこととなる。このうち海軍軍楽隊の教師となった人物こそが、『君が代』(1870年)の作曲者である、イギリス人の御雇外国人フェントンであった。


 日露戦争後には、民間でも八幡製鉄所、古河鉱業といった企業の職場や旧制中学校にも吹奏楽団・スクールバンドが設けられるようになった。最初期のスクールバンドとしては、京都府立第二中学校(1909年)や逗子開成中学校(1928年)が挙げられる。


 特に、第一次世界大戦後に教育の大衆化が進むと、職場や学校における吹奏楽の活動がさかんとなり、各地のアマチュア団体が叢生する。1939年には大日本吹奏樂聯盟(1939年)が結成され、これが現在の全日本吹奏楽連盟となっていく。

 なお、全日本吹奏楽コンクールは紀元2600年奉祝の催しとして1940年に大阪で初めて開催された。


 太平洋戦争後、陸海軍の軍楽隊は解散したが、1940年代末〜1950年代初めにかけて警察や自衛隊の音楽隊が次々に結成されていった。

 なお、日本の大衆音楽がアメリカ音楽の影響を受けるようになったのは、なにも戦後のことからではない。高護さんの著書『歌謡曲』における、次の箇所を見てみよう。

 三一年には大日本雄辯會講談社(現・講談社)の音楽部門としてキング・レコードが発足した。ビクター、コロムビアに歌謡曲では遅れをとっていたポリドールも三四年に東海林太郎の「赤城の子守唄」が爆発的なヒットを記録。同年にはテイチク(帝国蓄音機)が設立された。テイチクはディック・ミネ「ダイナ」のヒットで幸先のよいスタートを切るとともに、ヒット・メーカーとなっていた古賀政男を専属作家に招きいれて、翌三五年の「二人は若い」や三六年の「東京ラプソディー」といったヒットを創出した。
  三六~三八年は中山晋平の四七抜き音階や新民謡と、追随する古賀政男の多彩な作風に服部良一のジャズ、ブルース基調の作品が加わり、股旅ものや民謡を取り入れた日本調、ジャズ・ソングと呼ばれる洋楽の翻訳曲もあり、戦前の歌謡曲は多様で華やかな時代を迎えていた。日中戦争の激化とともに軍国歌謡が増加したのもほぼ同時期である。

(出典:高護『歌謡曲—時代を彩った歌たち』岩波新書、2011年より)


 戦時中には、敵性音楽としてジャズやブルースを、アメリカ仕込みのものとして大っぴらには売り出せなくなったわけだが、洋楽翻訳・翻案の流れは戦中で断絶せず、戦後には米軍のお膝元の「クラブ」や、ジャズやブルースを取り込み、さらなる発展をみせた歌謡曲文化へと受け継がれていった。解散した軍楽隊の指導者、演奏家たちも、こうしたところに、新天地を求めて移動していったのだ。

 なお、進駐軍の影響からアメリカのウィンド・アンサンブルやマーチング・バンドの形式を取り入れる民間の吹奏楽団やスクールバンドも現れ、1956年には全日本吹奏楽連盟の主催する吹奏楽コンクールが再開されるようになった。1970年代頃からは、オリジナル曲が演奏されるようになるとともに、競争の過熱化がすすんでいくこととなる。


参考



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