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【ニッポンの世界史】第12回:梅棹忠夫の『文明の生態史観』

トインビーの来日


 1954年に大著『歴史の研究』の一応の完成をみたA.J.トインビーが日本を訪れたのは、1956(昭和31)年のことでした。

 一度目の来日は、国際問題の第一人者として1929年にひらかれた「太平洋問題調査会」に出席するためでしたが、今度は文明を大きく論じる歴史家としての来日です。


 滞在中には各所で日本の知識人と交流したり、一般向けに講演したりする機会がもたれました。訪日が知識人に与えた影響は、翌年発刊された『トインビー・人と史観』からうかがい知ることができます。

 トインビーが訪日を思い立ったのは、『歴史の研究』における日本文明の記載の不備をおぎなうためであったといわれます。
 そこで日本側では考古学を含む日本史部会、東洋史・考古学部会、そして西洋史をふくむ文明論部会をつくり、トインビーの質問に答える機会がもたれました。また、日本歴史学協会主催の講演会では「歴史における法則と自由」という歴史理論が述べられたとのことです。


 蠟山政道(1895〜1980)によれば、トインビーとの議論は、東洋史家に対しては「文明の生成から解体にいたる歴史過程という大きな、しかも各文明圏の歴史の比較を可能ならしめる並行的同時代的理論」の示唆を与えました。

 しかしマルクス主義歴史学者にとってのトインビーは両義的なものでした。
 特に彼の「巨視的な長期的な見方」は、今まさにアジア・アフリカでおこされている民族解放の動きを後づけるものではなく、「プラグマティックであり、あまりになまぬるく、創造力を欠いている」ととらえられました(蠟山政道による解説。『トインビー』世界の名著シリーズ、中央公論社、61頁以下、1967年)。このあたりは『人と史観』におさめられている江口朴郎の論考からも確認できます。

歴史家アーノルド・トインビー博士と評論家長谷川如是閑氏(1956年)、国際文化会館、https://www.i-house.or.jp/programs/photoalbum_people/?occur=1&lang=ja&cover=0&album=8&photo=61



鈴木成高:トインビーに「近代の超克」をみる


 ところでこのとき、トインビーの諸説に大きく反応したのは、前回・前々回とみてきた京都学派四天王の一人、鈴木成高でした。

 全世界の歴史をたった一人で叙述しようとするトインビーに対して、当然ながら当時から伝統的なアカデミズムによる批判はありました。

 これに対して鈴木はいいます「...トインビーを歴史家ではないというだけでは事柄は、少しも片づかない。アマチュアが専門家より多くの存在理由を持つかも知れないような大きな転換期のなかにわれわれは立っているのである。私は先ずこの意味においてトインビー史学の正確を偉大なるアマチュア史学として規定しておきたい。ちょうど先に文明批評家としての彼を偉大なる傍観者と呼んだと同じように。」(『トインビー・人と史観』18頁)

 トインビーの書く歴史のここが間違っているとか、ここが抜けているということは容易い。「専門家の立場からの反発えが起ってくるのは当然すぎるほど当然なことに違いないが、しかしただ反発するだけでは、なぜトインビー史学のようなものが現れてこなければならなかったかという必然性についてすこしも触れたことにはならない」(同上)。

 たったの10数年前まで「文明」について大胆に描いていた鈴木のことです。トインビーに共感するのも当然でしょう。鈴木の根幹には、「伝統的な職業的歴史家だけが歴史家」ではないという強い意識がありました。

 鈴木のいう「なぜトインビー史学のようなものが現れてこなければならなかったかという必然性」とは、「西欧の没落という危機的歴史体験」です。鈴木にとってトインビーの世界史は、「西欧の没落という危機的歴史体験を通して、はじめて到達せられた新しい世界史」にほかならず、まさに自身が戦中に描いていた「新しい世界史」像にあい通ずる点があったのでしょう。

鈴木はこうも力説します。

ヨーロッパはもはや世界の主人でない。ヨーロッパならざるアメリカと、ヨーロッパならざるソ連によってになわれた「二つの世界」がわれわれの前に存在する。そしてヨーロッパそのものは、いまやこの「二つの世界」によって二つにひき裂かれてしまっているのである。すなわちヨーロッパは世界の主人でないのみならず、ヨーロッパそのものすら、もはや存在しなくなっている。こうした現実にもかかわらず、ヨーロッパ人は、いまなおヨーロッパ的な視野から超脱しておらない。ヨーロッパ的視角を通してしか歴史をみることができない。今日の世界において、それはひとつの錯覚である。このヨーロッパ的な錯覚を、トインビーはパロキアリズム(地方人根性)と呼んでいる。そしてこのパロキアリズムの超克のために「視野の革命」としての世界史が登場しなければならない。

 もちろん当のトインビーには、20世紀後半のアジアの自己解放の動きを過小評価するところがあった点はいなめません。

 しかし鈴木のいうようにトインビーは「たまたま西欧人に生まれた、そのために私が悩まされている近視眼」を克服するために『歴史の研究』を書いたとも述べています。

 そのなかで、まるで西欧の騎士と同じようにみえる「武士」という階級を日本の歴史のなかに発見します。『歴史の研究』においても、なぜ中国と日本は異なる道筋をたどっていったのかが検討されています。ただし、東洋の文明の評価は高いとはいえません。世界に普遍的にひろがった西欧文明に対する信頼を、捨て切っているわけではないのです。




梅棹忠夫:「中洋」の発見


 そんな中、中国と日本の歴史的条件に注目したトインビーの世界史に対して、独自の議論を提出した人に、人類学者・梅棹忠夫がいます。


トインビーという人がやってきた。歴史家として、たいへんえらい人だということだ。……わたしもわたしなりに、一つのかんがえをもっていたが、それがトインビー氏の説で、すっかりうちこわされはしなかった。わたしは、トインビー説に関心はしたけれど、改宗はしなかった。


 このような書き出しからはじまる「文明の生態史観序説」は『中央公論』1957年2月号に掲載されるや、センセーショナルを起こしました。

 その後、梅棹は岩波新書のベストセラー『知的生産の技術』(1969年)も広く読まれ、教養を求める一般大衆と大学アカデミズムをつなぐ役割を果たした知識人となっていきます。その系譜は京都学派の流れを汲み、周辺にはおなじく京大人文研を拠点として活躍した桑原武夫、今西錦司、上山春平らがいます。最近では「新・京都学派」とくくって議論する向きもあるようです。

梅棹忠夫(1920〜2010) 1949〜65大阪市立大学助教授。1957年「文明の生態史観序説」『中央公論』(1967年に単行本『文明の生態史観』として刊行)国立民族学博物館名誉教授、京都大学名誉教授、理学博士。


 梅棹が「生態史観」という切り口によって世界史を描こうとするに至った経緯としては、1955年5月から11月まで京都大学が組織したカラコルム・ヒンズークシ学術探検隊への参加が重要です。記録映画「カラコルム」が上映されたりと一般からの注目度も高かったこの探検踏査を通して、梅棹はアフガニスタン、パキスタンおよびインドにいたる生態系の多様性を体感しますが、当時は「文化だとか、芸術だとか、宗教だとか、歴史だとか、そういうものについて、かんがえたりかいたりするようになろうとは、夢にもおもっていなかった」と振り返ります。

 自然科学ばたけであった梅棹にとっての「一つの転機」となったこの経験は、エッセイ「東と西のあいだ」における次の一言に集約されましょう。


日本が北の国だなんて、いままであんまりかんがえたこともなかった。旅行にでるまえは、景観的にも文化的にも、むしろ南の国々との親近性のほうがつよいよいに感じていたくらいである。ところが、その南の国々を旅行してみて、わたしははじめて、日本がたいへんな北国であることをしったのである。

『文明の生態史観』10頁、以下は断りのない限りは中央公論社1967年版


 「東洋」ということばはしばしばひとくくりにされ、理解されてきた。しかし、実体験をくぐりぬけた梅棹は、次のように再考します。

要するに、インドは東洋ではない。中国を中心に発展してきたわれら東洋諸国とは、本質的に文化的伝統を異にする世界である。インドはむしろ、もっと西の方のイスラム的世界とこそ、歴史を共有するものである。

 しかし、インドが東洋ではないとすれば、それはいったい何か。もちろん、西洋ではありえない。…この、東洋でもなく、西洋でもないインドをさして、わたしがデリーでしりあった一人の日本人の留学生は、うまいことをいった。

「ここは、中洋ですよ」

 わたしは感心して、このことばをつかうことにした。

同、51-52頁


 ここから先、梅棹は「中洋」という第三項をもちだし、東西の文明批評を脱構築してみようと考えるようになるわけですが、重要なのは、彼が同時に「東洋」から中国の辺境文明である「日本」を独立させ、これを「西洋」に並列させようとしたことです。
 もちろんこれは旅の随想を交えたエッセイですから、緻密な議論ではありません。単に「眼前におけるインドの存在が、西ヨーロッパの学者と日本の学者とを接近させている」のを感じとったにすぎないものです(54頁)。

 しかしこの、「日本と、西ヨーロッパは、基本的な点で一致する」「日本は別ものである」(53、58頁)との直観が、のちに「文明の生態史観序説」に結実することとなります。

 日本と西欧の歴史発展の類似性はトインビーが『歴史の研究』で指摘したところとほぼ同じです。しかし梅棹によれば自説はあくまで前年の旅行にかんがえたことを論理的に整理したものであって、「トインビー学説とは、別に関係はない」といいます。トインビーの来日に刺激され、これを文明論における西欧側からの挑戦とうけとり、筆におこそうと思っただけとのことです(75頁)。
 ただ二人の着想の根には、先のトインビーを評した鈴木成高の言葉を借りれば「近視眼」、梅棹の場合でいえば、「東洋は一つ」というような素朴な東洋観を克服したいとの願いが共通してあったのではないかとも思えます。


文明の生態史観とは何か



 さて、この「文明生態史観」の論旨は、おおむね次のようなものです。彼がのちに提示した図をもとにたどってみましょう。


 楕円はユーラシア大陸を表し、乾燥地帯(ステップと呼ばれる短草草原や砂漠)を、左下から右上の方向に向けて斜めに走らせます。この領域が「縦の斜線」として表されます。

 最後に、楕円に×印を書き入れ、Ⅰ~Ⅳの4ブロックに分割すれば完成です。

 ユーラシア大陸には乾燥エリアの騎馬遊牧民と直接向き合うことのない「第一地域」と、乾燥エリアの騎馬遊牧民と接する「第二地域」があり、第二地域はⅠ~Ⅳまでの4つの文明に分かれます。
 地図中の「Ⅰ」は東アジア、「Ⅱ」は南アジア、「Ⅲ」は北アジア(ロシア)、「Ⅳ」は西アジアの各文明に対応し、いずれも乾燥地帯に接するエリアでは水(雨)が少なく、短草草原(ステップ)や砂漠が広がっている点で共通しています。

 梅棹によれば、「第一地域」では、乾燥エリアの騎馬遊牧民の侵入にさらされ続けたため、それに立ち向かうために強大な権力をもつ専制帝国ができては滅んでいく運命にあります。
 反対に、東西両端の「第二地域」に位置する西ヨーロッパと日本は、騎馬遊牧民の影響をこうむることが少なかったため、比較的安定した社会が続きます。すなわち、外部からの影響を極力受けることなく、内側から内生的に変革が生じ、まるで自然の植物群落のように封建制→絶対主義→資本主義と移り変わってきました。先進工業国へと発展できたのも、その延長にある、ということになります。
東西の端っこの「第二地域」に位置する西ヨーロッパと日本は、騎馬遊牧民の影響をこうむることがなく、比較的安定した社会が続いた。したがって外からの影響を極力受けずに文明の内側から変革が起き、革命によって封建制→絶対主義→資本主義のようにステップアップし、工業化していったのだというわけです。
 反対に「第一地域」では、乾燥エリアの騎馬遊牧民の侵入にさらされたため、強大な権力を持つ専制帝国が生まれた。そこでは日本や西欧のように「封建制」を経ることがなく、したがって近代化に向かう契機に欠けていた。
 要約すれば、このような主張です。



 梅棹はこんなふうにも言っています。

現代の日本文化を要素に分解して、そのおのおのの系譜をあきらかにして、分類しても、あまりかいのないことだ。それでは日本文化の特徴は、はっきりつかめない。(80頁)

 つまり文化は「系譜論」的に理解するのではなく、具体的に「それぞれの文化要素が、どのようにくみあわさり、どのようにはたらいているか、ということ」を問題にするということ(80 頁)、具体的にそのような道のりを歩んで行った条件とは何かを問題にするということです。ですから、注目する対象は必然的に各共同体の「生活様式」「社会の一般的構造」となります。

 その上で梅棹の独特なところは、それらがどのように動態的に遷移(サクセッション)していったかという点にこだわったところです。そのために、生態学の「遷移」の理論、そして今西錦司(1902〜1992)の「棲み分け」による文明論をさしはさむのです。ユーラシア大陸各地には特有の生態的な「くくり」があって、そのなかで人々は別々の生活様式を発達させ、共存しようとしてきたという見方です。
 生態環境への注目は、もちろん戦前の和辻哲郎の「風土」にも見られます。しかし、和辻は実際にユーラシア各地を踏査したわけではありません。



梅棹説の受容


 梅棹説の反響は大きく、加藤周一と堀田善衛との座談会が催されたり、日本文化フォーラムのシンポジウムが開かれたり、そしてマルクス主義史観の側からも論説が発表されました。

 彼の議論は、発表当時の冷戦下の国際情勢とも無縁ではありません。
 たとえば、農耕民の文明に侵入する騎馬遊牧民の活動する場が「悪魔の巣」とされ、かなり否定的な評価が与えられているのは、これらの地域が当時の中国やソ連と重ね合わされていることと無関係ではないでしょう。

 また、なぜ彼の議論がひろく受け入れられたかといえば、戦後復興の最中だった日本が、西欧とおなじポジションにあるとの図式ゆえでしょう。
彼のアイデアは、占領期を終え、「大国」化に向け発進しようとしている当時の日本の雰囲気にもマッチしたものであったのです(梅棹説の受容については菅原潤『京都学派』講談社、2018、206-213頁や、佐藤仁 「『くくり』と『出入り』の脱国家論―京都学派とゾミア論の越境対話」、山本信人監修、井上真編著『東南アジア地域研究入門 1環境』、慶應義塾大学出版会、155-175頁、2017を参照)。

 そんななか、中国と日本の遠さを強調することなく、また人類史を一望するような大局的な眺めでもない、「今、ここから」の視点で世界史と向き合おうとした歴史家がいます。以前とり上げた上原専禄です。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊