【ニッポンの世界史】#27 忘れられた世界史家・謝世輝(しゃせいき)とは何者か?—万博・ヘドロ・ポストモダン
3つの不信
アジア初の国際博覧会であった大阪万博は、1970年3月15日から9月13日までの183日間開催され、国内外から116のパビリオンが参加しました。総入場者数約6421万人は、当時として史上最高の記録でした。
グランドテーマは「人類の進歩と調和」。共存が難しい「進歩」と「調和」を掲げ、人類の高い理想を追求するものでしたが、戦後日本の歴史は、1970年を境にとして、大きな転換点を迎えることとなります。
図式的に書けば、次のようになるかもしれません。
① 西洋文明に対する不信
② 進歩に対する不信
③ 「大きな物語」への不信
西洋文明に対する不信
まず①西洋文明に対する不信について。
20世紀後半、世界の人々をとりついていたのは「豊かさ」への渇望です。「資本主義」と「社会主義」は、ともに合理的な思想や科学技術を通して「豊かさ」を実現しようとした点では大同小異、両者の違いはともにその実現手法をめぐる違いであったともいえます。そしていずれの思想もルーツをたどれば、いずれも近代西欧の産み落とした価値に行きつくものでした。
しかし、イデオロギーにしろ、それを支える科学技術にしろ、本当に人類社会に良い影響をもたらすものなのか。
これまでの冷戦の経緯をみれば、それらに不信を抱くのも無理はありません。
そうした反動から、1970年代には西欧から見て「辺境」「周縁」とされていた地域に対する注目が集まります。
とくに注目をあつめたのはアフリカです。
1950〜1960年代にはアジア・アフリカは「第三世界」としてくくられ、その独立が世界史の転換期として称揚された。そのことは以前もとりあげましたね。
しかし、蓋をあけてみれば独立後のアフリカのたどったのは苦難の道。そもそも「ニッポンの世界史」も「第三世界」のなかにアジアを位置付けることは熱心でありましたが、アフリカの位置付けは、文字資料の少なさゆえ、どうしても紋切り型で浅いものにとどまっていました。
これに対し文化人類学者の川田順造(1934〜)は『無文字社会の歴史』(1976)で文字のないアフリカにも口伝えによる歴史があったことを示し、アフリカの多様性や奥行きに関する人々の認識をあらためます。
人類学者・山口昌男も脚光を浴びた一人。もともと日本中世史を研究していた山口は、それだけでは天皇制の問題をとらえきれないとみて、人類学に転向します。王権をキーワードに天皇制を読み解こうとしました。1971年には『アフリカの神話的世界』(岩波新書)を上梓しています。1976年には山川出版社から「世界現代史」シリーズの刊行がはじまり、『アフリカ現代史』全3巻(1978・79)も編まれました。アフリカ史へのアクセスが、ようやく始まったのです。
進歩に対する不信
②の進歩に対する不信は、いいかえれば「バラ色の未来」に対する不信ですね。
冷戦の進行や石油危機、悲劇的な公害、西洋近代の合理的な思想や技術は、「科学は未来永劫無限の進歩をもたらす」という信頼を揺るがせていました。歴史学者(イギリス近代史)の浜林正夫(1925〜2018)さんが「ヘドロの海としての近代」と呼んだところのものです。
のちにふれるように、「ノストラダムスの大予言」や『日本沈没』のような「終末論」がブームになるのもこの時代のことです。アトランティス伝説や核戦争後の地球をモチーフにした作品が増えるのも、当時共有されていた不安のあらわれともいえます(庄子大亮『アトランティス=ムーの系譜学—〈失われた大陸〉が映す近代日本』講談社、2022)。
「大きな物語」に対する不信
これら①・②に付随する形で、③「大きな物語」そのものへの不信も世界を覆います。
これまで社会全体で共有され、価値観のよりどころとされていた知の正当性が崩れ、何が正しい知であるか判断する絶対的な根拠がない状況が生みだされる。いわゆるポストモダニズムの時代のはじまりです。
もちろん、時代の成り行きは、一朝一夕で変わるものではありません。「近代」という大きな物語は強固なものです。国際政治が多極化をみせるなか、ソ連とアメリカのイデオロギー対立も依然として続いていました。
また、石油危機後の日本はといえば、新技術の開発と海外進出の強化によって「安定成長」を謳歌して着実に経済成長を果たし、海外旅行ブームのもとで多くの日本人が西洋に憧れを抱きました。1970年代の少女漫画が漠然と「西洋っぽい、どこか」を舞台とする作品を多く輩出したのも、そのあらわれでしょう。
欧米への憧れは維持しつつ、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とうたわれる1980年代へと向かう。
1970年代とは、そのような時代でした。
忘れられた世界史家・謝世輝(しゃせいき)とは?
さて、こうした時代の雰囲気のなか、世界史のとらえなおしを掲げ、多くの一般書を上梓し、注目を集めた書き手がいます。
謝世輝(しゃせいき)という人です。
彼の来歴はおおむね3つに区分することができます。
台湾生まれで理論物理学をこころざし、みずから日本の大学教授に手紙を送り、苦学して日本留学にこぎつける。ここから東京大学素粒子研究所に勤務し、理論物理学の研究に邁進するのが第1期。
しかし、その後総合的な科学史を描く構想に軸足をうつし、そのまま世界史の刷新を試みるようになっていくのが第2期。その著作には、増田義郎(1928〜2016)をはじめとする歴史学者からも書評が寄せられ、世界史教育界にも少なからぬ反響がありました(ここで東海大学文明研究所教授となっています)。
そして新しい世界史構想づくりと並行する形で、1980〜1990年代にかけては「引き寄せの法則」や「マーフィーの法則」など、アメリカにおける自己啓発(ニューソート)の紹介書の執筆が増えていくのが第3期です。
謝は、これまで紹介してきた「ニッポンの世界史」の書き手の多くと同様、歴史学の専門家ではありません。
ということもあり、今となっては聞き慣れない人も多いはずで、ある意味 ”忘れられた” 世界史家となっています。
しかし、同時代的な注目の大きさや、旺盛な出版活動を通した「ニッポンの世界史」への影響力をかんがみれば、けっして無視することのできない重要人物だと、私はみています。
いいかえれば、謝の描いた世界史には、それ以前の「ニッポンの世界史」の陥りがちな罠と、それ以降の「ニッポンの世界史」に受け継がれる基本フォーマットの両者が含まれている。
そのような仮説を立て、次回は詳しく謝の世界史の特徴をさぐっていくことにしましょう。
(続く)