新科目「歴史総合」入門(6)1つ目のしくみ:近代化
■「近代化」の時代の大前提
では、ここからは各論です。
まずは、1つ目のしくみである「近代化」について見ていきましょう。
これまでの日本史の教科書では、近代という時代のはじまりは「開国」に設定されていました。
ところが、世界史の教科書では、産業革命が近代のはじまりとなっています。
歴史総合では、「近代」という時代がいつ始まったのか明示されているわけではありませんが、産業革命が大きな意味を担っていることはたしかです。
ではどうして産業革命が、そんなに重要なできごとだと言えるのでしょうか?
産業革命以前の世界では、エネルギー源は、基本的に家畜や木炭といった生物に由来するものでした。ですから、あんまりたくさんのモノをつくったり運んだりすることができませんでした。
でも、地下資源(化石燃料)である石炭が、イギリスでは早くからエネルギー源として使われ、そこから莫大なエネルギーをとりだす蒸気機関が1760年代に実用化されるようになりました。
すると、より少ない人数でたくさんのモノをつくることができるようになり、より速く、より多くのモノや人を運ぶことができるようになるわけです。後者は特に交通革命と呼ばれ、世界がひとつの商業圏にまとまっていくきっかけとなりました。
■歴史総合は、産業革命のはじまる前の時代(18世紀)からスタートする
この変化がなぜイギリスで起きたのか?
ほかの地域はイギリスよりも遅れていたというのか?
こういった問いを解き明かすため、産業革命のはじまる以前の18世紀(近世と呼ばれる時代) から、学習がはじまります。
産業革命後の時代が、それ以前の時代とどのような点で異なっていたのか、5つの観点別に比較しながら見ていくことにしますね。
■観点1.自由・制限
前近代
前近代におけるエネルギー源は、人力、畜力、風力、水力が基本でしたから、あんまりモノをつくることができません。
共倒れしないように組合が発達し、なあなあで商売をするのが基本でした。つまりビジネスをするにも制限がたくさん。
じゃあ、当時の世界で商売や貿易がさかんだった地域ってどこだったんでしょうか?
ヨーロッパ?
いえ、実はアジアのほうがGDPが高かったんです。
ヨーロッパがやって来る前の東アジアの日本・中国・朝鮮では、出入国に制限をもうけながら制限貿易をやっていました。日本も、のちに「鎖国」と呼ばれることになる体制をとっていたわけで、あんまり商業はさかんだったイメージはないかもしれません。
でも、東アジア各地は、中国人が重要な担い手となり、貿易がとってもさかんな状況が生まれています。
琉球王国や東南アジア各地に移住した中国人のことを華僑といい、彼らがインド洋・太平洋につながる自由な貿易の架け橋となっていたのです。
で、大量の商品が中国で生産されている。
人口が多いので、前近代においては、人手=GDPなんですね。
Made in Chinaの商品が大量に出回る18世紀の東アジアには、貧しいヨーロッパがわざわざモノを求めてやって来るほど、とっても豊かだったんです。
日本にとってもアジア各地の物産はあこがれの的で、江戸時代には各地で国産化もすすめられました。
オランダ人や華僑の寄港を長崎に制限し、朝鮮との窓口は対馬、アイヌは現・青森県、琉球との貿易は現・鹿児島に限定し出入国管理を徹底。海外との交流をまったく閉ざしていたわけではありません。日本からは金・銀・銅などの金属、さらには中華の食材が輸出されていました。
ただ、貿易が自由にできない分、国内の限られた資源をいかに効率良く活用していくかが大切なこととなりました。そこで、北前船や樽廻船などが日本海と太平洋を結ぶ全国的な商業ネットワークが発達していったわけです。
また西ヨーロッパにおいても、18世紀に中国ブーム(シノワズリ)が起きています。
近代
このように18世紀のアジアには、ヨーロッパ人も憧れる国際的な商業圏が広がっていたということを、しっかり理解するところから、歴史総合の学習ははじまります。
しかし、産業革命がおきると、その状況が変わっていくんですね。
産業革命を達成した国では、モノをたくさんつくれるようになります。
産業資本家は「規制をとっぱらって、もっとたくさん自由につくりたい!」と考えるようになる。
そんな彼らにとって邪魔者となったのは、
・既得権益を持っている地主や手工業者の組合
・植民地で奴隷をはたらかせて非効率な生産方式を守ろうとしている大金持ち
・代々良い家柄の血筋を代々受け継ぐ貴族たち
いずれも「身分制度」に関わる人たちですね。
そこで18世紀後半〜19世紀を通して、産業資本家たちは、社会のしくみを変えようとしていったわけです。
着々と社会のしくみを「自由」な形に変えていったイギリス、フランス、アメリカ合衆国に対し、産業革命の遅れた国(日本やドイツなど)では、輸入品が入ってこないように、貿易に制限をかけるべきだ!という主張が大きくなりました。
いきなり自由な貿易がはじまったら、先進国であるイギリス、フランスなどにはかないませんからね。これを保護貿易といいます。
また、ラテンアメリカ諸国では、先住民や黒人といったさまざまな人種を少数のスペイン出身者が支配する体制が残存し、アメリカ合衆国とは異質な道をすすむことになりました。
さて、工業化が進んでいくにつれて、政府は産業資本家に対して程度の自由を認めていくようになりました。
しかし、工業化が進めば、同時に労働者の数も多くなっていきます。そうなると、今度は労働者の運動(社会主義)の自由に制限がかけられていくことになります。
■観点2.平等・格差
前近代
先ほどみたように、前近代においては、モノの生産量には限界があります。そこで共倒れしないように、身分制度や宗教の掟によって、欲望に制限をかけていたわけです。
つまり、社会の仕組みは不平等だった。
あなたは身分が低いのだから、我慢しなければならない。
神様がみているのだから、我慢ですよ。
そういった掟や宗教の教義、身分制度には、乱開発に歯止めをかける側面もあったわけです。
もちろんかなり多くの人々が、貧困線ギリギリの生活をしていたことはたしかですが、人口のほとんどは農民でしたから、社会集団全体としての格差は近代化の後よりも小さかった(みんなが平等に貧しいという状況は、しかたがないことだと了解されていた)ということはできるかもしれません。
むしろ、特定の人が、掟をやぶり、抜けがけしてお金もうけすることは良くないことだという価値観が、ひろくみられました。
近代
しかし、産業革命を達成した国では、モノをたくさんつくれるようになると、産業資本家がそれ以前の身分制度や宗教にもとづく社会に不満をもつようになります。
身分によってではなく、能力や財産によって評価される新しい社会の仕組みを考えるようになったわけです。
そこで、貴族など一部の支配層だけが持っていた特権を、自分たち産業資本家にも広げようとした。これを市民革命といいます。
市民革命においては、「人は平等だ!」ということが宣言されました。けれども、その中をみてみると、女性や貧しい民衆とのあいだには格差があったことがわかります。彼ら女性や貧しい民衆(労働者)は、平等な社会を求めて運動を起こすようになっていきます(女性参政権運動と社会主義)。
なお、日本のように近代化を後追いしていった国では、国民としての一体感を創出するほうが重んじられます。平等な社会づくりも二の次となりがちです。
また、20世紀中頃までは「白人が人類で一番偉いのだ!」という人種主義の影響が強く、人種間の平等(つまり欧米諸国と植民地の人々、ヨーロッパ人とアジア人、白人と黒人など…)も課題としてのこされました。
黒人奴隷制は19世紀末までに世界中で廃止されたが、今度はアイルランドからの移民や、苦力(クーリー)という中国人の契約労働者がこき使われました。
■観点3.開発・保全
前近代
前近代においては、外から資源をたくさん運ぶこともできないので、共倒れしないように、「山の木を切ると祟りがおきる」とか「ここは先祖代々の土地で…」など、身の回りの環境を開発しすぎないような道徳や制度が、世界各地にありました。
もちろん、乱開発がなかったというわけではありませんが、開発の様子が身近にわかる形だったという点で、地球の反対側の乱開発を進めるようになる近現代の世界とは異なります。
近代
しかし、産業革命によって、たくさんのモノがつくれるようになり、それがお金もうけ(資本主義=もっとたくさん利益を増やしたい!という欲望にもとづくシステム)とむすびつくと、それまで大事にされていた環境も「お金もうけの道具」になってしまい、開発がすすんでいくことになります。
もちろん、開発にも良い面はあります。
近代化が実現すると、世界各地で乳児死亡率が減って平均寿命が高まり、生活水準も上がっていきました。
開発は「近代化」の開いたパンドラの箱でした。
問題は、それを持続不可能なものとするか、持続可能なものとするかです。
19世紀後半の時点で、すでに開発に限界があると見抜いていた経済学者もいましたが、そのインパクトに思いをいたすことのできる人は、まだまだ少数は。
や
がて、20世紀半ば以降に「グローバル化」のしくみが進み、世界各地の開発に歯止めがかからなくなると、やがて地球環境問題が深刻化するようになります。その危機が、世界的に認識されるようになるのは、ようやく1970年代になってからのことです。
■ 観点4.統合・分化
前近代
前近代には、1つの国に1つの国民がいて、みんなでガッチリまとまっている(という設定の)国(国民国家)なんてありませんでした。
18世紀に空前の繁栄をとげていたアジア各地の帝国、すなわちオスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国、清は、いずれもいろんな宗教の信者、いろんな民族、いろんな言語、いろんな生活スタイル(遊牧や農耕…)が入り混じる帝国でした。
そこでは民族ごとに税の取り方も違いますし、自治が認められていた宗教の信者たちもいました。多様性が保障されていたからこそ、人の出入りが盛んとなり、商業のみならず学問や芸術も栄えたのです。
一方、日本も、たしかに江戸時代は将軍を含む大名が、各領国を支配する分権的な複合国家でしたが、国内市場の面でも、宗教や文化の面でも、アジアの帝国に比べると一体性の水準は高い状態にありました(むしろ同時代の西ヨーロッパの社会状況に似ている)。
江戸時代にすでにある程度統合が進んでいたからこそ、スムーズに国民国家をつくることができたのだともいえます。
近代
18世紀の西ヨーロッパ諸国も、国内の統合はわりと進んでいました。特にイギリスでは、憲法によって君主の権力を制限し、国内市場を統合し、敵であるフランスと戦いながら国民としての意識(ナショナリズム)を強めていきました。
産業革命で遅れをとっていたフランスでも、フランス革命の混乱をナポレオンという軍人が収拾し、強い権力によって国民統合を進め、イギリスに対抗しようとしました。
日本では、ヨーロッパ諸国のなかでも遅れて建国されたドイツ帝国を見習って、憲法により強い権限を与えられた政府が国民統合を進める方式が採用されました。
このように、近代化を進めようとするいずれの国においても、国語、国歌、国旗、国史が制定され、小学校を設置し、国民統合が進められていったわけです。
統合を進めようとすれば、もちろん隅っこに追いやられ、差別される人々、排除される人々も出てきます(→観点2の格差)。
歴史総合は、そういった点への視点を大切にしています。
特に、国民国家の中で少数派になった人々を、マイノリティ民族(マイノリティ)といいます。
東アジアにはかつて国際的な商業圏がひろがっていたといいましたね。
国境線に対する考え方は、西ヨーロッパで発達した主権国家の考え方とは異なり、グレーゾーンを含むあいまいな領域を多分に含んでいました。
たとえば琉球王国は中国の清と日本の薩摩藩の両方に服属しているという、二重の状況に置かれていました。いまでは考えられないことですが、曖昧なままにすることで、ケンカを避けていたわけです。
しかし、近代になり、国民国家が建設されていくと、そういうわけにはいかなくなります。主権がおよんでいない地域は、欧米諸国の植民地化の対象になってしまいますからね。
で
すから、国境線をしっかり引いて、かつては自由な活動をしていた特色ある民族、アイヌや琉球王国、台湾、東南アジアの島々、中国やラオスの山深いところで暮らしていた人々が、特定の国民国家の内側にとりこまれていくことになったわけです。
その結果生まれたのが、少数民族(マイノリティ)というカテゴリーです。少数というのは、とりこむ側である大多数の国民に対しての「少数」ということですね。
彼らは、多数派の国民とは異なる「遅れた」民族ということで、しばしば方言(標準語に対する地方語)を禁止されたり、見世物にされたりしました。
19世紀になると、国内でのけ者にされた人々は、蒸気船・蒸気機関車の発達により、遠く離れたアメリカ大陸や熱帯の植民地などに移民として移動するようになります。
人間の移動にはプッシュ要因(出ていけ!といわれる移動)とプル要因(自分から行きたい!と思っての移動)の2種類がありますが、移民を実行した人々の生活はたいてい苦しく、2つの要因がからみあった思惑がはたらいていました。
交通革命を背景として、人の移動が活発になったために、19世紀を通してコレラのパンデミックが起きました。これもまた「近代化」の作用のうみだした結果のひとつです。
彼らの多くは移住先で差別され(→観点2の格差)、多くがその地の国に同化する選択をしましたが、独自のコミュニティをつくりアイデンティティを保ち続けました(例:日系ブラジル人)。
また、資本主義が発達すればするほど、国民のなかに資本家と、彼らにこき使われる労働者という対立も生まれるようになります。これをなんとか統合するために、政府はしばしば植民地を獲得するために、外国を“敵”とみなし、戦争をするようになっていきました。これが1870年代頃から激化する帝国主義の動きです。
急ピッチで近代化を進めた日本も、1894~95年の日清戦争で、かつては強国とされていた中国(清)、さらに1904~05年にロシアを日露戦争で破り、ナショナリズムが一気に高まっていきます。いずれも、同時代の世界に共通する動きです。
■観点5.対立・協調
たとえば、「本国(宗主国)と植民地の対立」を観点5.対立・協調によってとらえてみましょう。
みんながみんな本国の支配下にあるわけではなくて、もしかするとさまざまな事情があって、本国と協力している植民地の人々もいるかもしれません。
インド映画「RRR」でいうと、警察官として植民地政庁につかえたインド人のラームがそれにあたるでしょうか(それなりの事情はあるわけですけど)。
むしろ本国にとってみれば、そうやって植民地の人々を分裂させたほうが、支配に都合がよいわけです。
ようするに、主語をあまり大きくとりすぎず、対象をなるべく細かく分けてとらえましょう、という話。
A対Bという形でものごとをとらえるのではなく、もしかするとAにもBにも、中には異なる要素の対立関係があるのかもしれない。そんなふうに物事を分析していく際に必要となる視角です。
学習指導要領は、観点はこの5つに限らないといっていますので、資料を読み解いていくにあたっては、ほかにもいろんな観点を導入することができるはずです。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊