「死んでいない者」滝口 悠生 ~死んで居なくなった人は誰なのか? 未だ死んでいなくて生きている人は誰なのか?
芥川賞受賞作。アマゾンのレビューを見ると小学生の作文か、などと批判している人もいたり厳しいコメントが並んでいますが、そんなことはありません。これは傑作だと断言します。
私など文学初心者ですが、これが文学かとうならせてくれるような素晴らしい読書体験でした。
以下ネタバレありです。
服部さんが亡くなりました。85歳の大往生です。
5人の子供もそれぞれに家族がいて30名近い人たちが葬儀に集まってきます。
葬儀に集まった人たちにはそれぞれ人生があり、それぞれ大変です、とわりとよくある話なのですが、
視点がとにかくコロコロ変わります。神視点はダメだと小説の書きかたの教科書では口を酸っぱくして言われていますがそんなの無視です。蒸発して行方不明になっている男の視点まで出てきます。
(新人賞では真っ先に落とされるぞ、といわれるやつです)
たくさんの人々が登場し、わけがわかんねえよと批判する人も多いですが、横の関係性は気にせず
いま描かれている人が誰なのかを押えておけば十分だと思います。
私はこの通夜に集まった一族の中には何人か死者(幽霊)が混じっているのではないか、と解釈しました。
生きている者たちも死者と自由に会話ができる人たちのようです。
単行本35ページからの描写の視点は、個人の幼なじみである「はっちゃん」なのか、はっちゃんと一緒にいる故人なのかどちらとも取れますが、距離のある場所を自由に行き来し、空を飛び、最後は川を流されていきます。この視点の主は明らかに死者でしょう。
勝行は温泉に行く車の一台目にも二台目のどちらにも乗っていたように知花の目に映ります。 不思議な記述です。
そして勝行は湯船の中でなぜか意識が女湯から外に出て空を飛びます。
彼もこの世の人ではないのでしょう。
ダニエルが湯あたりを起こしたとき、勝行は女湯にいるダニエルの息子に向かって助けを呼びます。
そのとき湯船には春寿、憲司、勝行も一緒にいましたが、なぜ3人は直接助けなかったのでしょう。3人は幽霊なので触れられなかった? それとも単に幼子をからかっただけでしょうか?
温泉行きに置いていかれた保雄ははっちゃんと会話をしますがはっちゃんは、35から41ページから死者であると思われます。
また「見おぼえのないおばさん」から声をかけられますが、「保雄ちゃん」と親し気に呼ぶことから彼らのことをよく知っている人のようです。香典泥棒ではなさそうです。なぜこんな遅い時間に他人がいるのでしょう。一族は弔問客もいなくなったのでお風呂に出かけたはずです。彼女の存在も不自然です。
ただのちに故人である祖父が、子どもたちはみんな健康に育った、ということを言っているので間違った解釈かもしれません。
いずれにせよなんか変、という記述があちこちに見られます。
作者がわざわざ書いているからには、そこには必ず理由があるはずです。
これはどういうことだろうとミステリーを読む謎解き感覚で挑めばきっと楽しめるはずです。