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【短編小説】壊れた傘で雨宿りをして

 ぼくは水溜りを避けながら家路を急いでいた。
 ちらちらと視界に入るビニール傘の骨がわずらわしい。しとしと降る雨を遮っているそのビニール傘の骨は一本折れていて、不恰好に一部がへしゃげている。
 ついてないな。
 ぼくはどんよりと広がる雨空をちらりと見上げて足を早めた。

 しばらくして、押しボタン式の信号機が設置された横断歩道にさしかかった。この横断歩道は近所でも有数のイライラスポットだ。とにかく信号が変わるまでが長い。朝の通勤ラッシュ時なんかは、永遠に信号待ちする通行人の前を何台もの車がまぁまぁのスピードで走り抜けていく。なんというか、車の運転手に嘲笑われているような気分にさえさせられる。そして、いよいよ限界。「ああ、くそ!」と大声をあげそうになるちょうどその前に、ピッポーピッポーと間抜けな音とともに信号が青になるのだ。ぼくは時々、この信号は誰かが遠隔で操作してるんじゃないか、と思うことがある。きっとイライラするぼくの様子をみてどこかで腹を抱えているのだ。

 そして、やはりというかなんというか、信号は赤だった。押しボタンのそばには女性がひとり先に信号待ちしていた。ぼくは女性の少し斜め後ろに立ち、そして思わずその女性の姿を訝しんで見た。女性は傘をさしていなかったのだ。確かに土砂降りというほどの雨ではないけれど、傘をささずにいるには少し不自然な勢いの雨足だ。雨は昨日の夕方くらいから止むことなく降り続いているし、家をでるときに忘れてきた、ということもないだろうに。どこかに傘を忘れてきてしまったのだろうか。……まぁ、どうでもいいか。ぼくは考えるのをやめて信号が変わるのを待った。

 長い。やはりこの信号は長い。
 時間帯のせいか、車通りは少なく、思い出したように数台通るのみ。見渡しても他の通行人はおらず、その場にいるのは、ぼくと女性だけだ。住宅街の近くということもあり、周りも静かなもので、雨の音がやけに鮮明に響いていた。

 あまりにも信号が変わらないので、思わず首をそらして押しボタンの表示を確認する。すると、なんとボタン自体が押されていなかった。ちょうど女性の影に隠れて見えなかったのだ。

「ちょっと」
 
 ぼくは思わず声にだした。それでも女性は微動だにしないので、ぼくは少しイライラして「すみません」と語気を強めた。すると女性はちらとぼくを見て、そして「ああ」とつぶやくと緩慢な動きでボタンを押した。
 ぼくは面食らってしまった。女性のマイペースぶりにではない。一瞬しか見えなかったが、女性が泣いていたからだ。いや、もしかしたら雨のせいでそう見えただけかもしれない。しかし確認しようにも女性は先ほどまでと同じように渡ることのできない横断歩道を向いてじっとしていた。
 なぜか先ほどまでとは違った、変な緊張感が走る。なにかあったのだろうか。声をかけた方がいいのだろうか。ぼくは明らかに狼狽えていた。なぜかはわからないけれど。

「あ、えっと。風邪ひきますよ」

 いろいろ考えた結果、口をついて出た言葉はこれだった。まぬけすぎる。ぼくはすぐに後悔した。雨の音がする。女性は何も言わない。当たりまえだ、くそっ。ぼくは自分の機転の利かなさ具合にうんざりした。

「そうかもね」
 
 一瞬、声がどこから聞こえたのかわからなかった。だが、その声は確かに斜め前に立つ、この女性が発したものだった。

「え、ええ。大丈夫ですか」

 ぼくはとりあえず会話を成り立たせようと声を発したが、やはりその言葉も、ちぐはぐなものだということはわかっていた。
 信号はまだ変わる気配をみせない。長いとはいえ、ここまでだったか? 冷静な疑問がぼくの頭を一瞬よぎった。

「昔、私がまだちっちゃいときにママと雨の日にお出かけしたことがあって」
 突然、女性が前を向いたまま話し始めた。
「……は、はぁ」
 何の脈絡もない始まりに驚いて、相槌をうつのが一瞬遅れてしまった。しかし、女性はそんなことお構いなし、という様子でそのまま淡々と続けた。
「その日、私はお気に入りの傘をさしていたの。うすいブルーの傘。雨の日でも青空の下にいるような、傘の内側までブルーの傘。畳む紐のところにはね、ふわふわの雲がついてて、その雲のボタンで傘をとじるの」
 ぼくが聞いていようがいまいが、関係ないのかもしれない。表情のよめない彼女の声は雨の中だというのに、やけにはっきりと聞こえた。
「でも、その日、私は雨をこの目で見たくなって、傘をママに押し付けるように渡して、それで走りだしたの。きゃーってはしゃいで」
「はい」
「そしたら水溜りがあってね。私は上を見上げてたから、踏んづけちゃったの。思いっきり。そしたら泥が跳ねて服を汚しちゃって」
 雨の音が響く。車は通らない。信号は相変わらず赤のままだ。女性の声ははっきりと聞こえる。
「ものすごく怒られたの、ママに。なにしてるの。こんなに汚してって。私すっごく泣いてた。そのあとどうなったかは忘れちゃったけど、なんだかすごく泣いたのは覚えてるの」
「そうですか」
「でもね、そのあとしばらくしてママが長靴を買ってくれたの。やっぱりうすいブルーのやつ。その長靴は私のお気に入りだった」
「はい」
「私、そんなことすっかり忘れてたんだけど、この前、靴箱の奥の方からその長靴が出てきて、それで私はいてみようと思ったんだけど、当たり前だけど入んなかった」
「そうですか」

 雨足が強まったような気がした。女性は前を向いているので表情はわからない。ぼくの相槌は正しかっただろうか。女性の背中は雨のせいですっかり濡れていた。

 ピッポーピッポー。

 間抜けな音がして、ようやく信号が青になった。
 ぼくはちらりと女性をみる。しかし、女性は歩き出すそぶりを見せなかった。ぼくはどうしたものかと逡巡したが、軽く会釈をして女性の横を抜け、横断歩道を渡り始めた。
 横断歩道の真ん中。後ろを振り向くと、やはりそこには女性がいて、先ほどの場所と寸分も違わぬ位置に佇んでいた。
 ぼくは一度前を向いて、やっぱり思い直して振り返り、そして横断歩道を引き返し、女性の目の前に立った。
 女性が目の前に現れたぼくに気づいて視線をあげる。ぼくは彼女が濡れないように傘をさして、そして押し付けるように渡した。

「これ」
「これ」

 ぼくの言葉を彼女はぼんやりと繰り返した。そして、やはりぼんやりと視線を頭上のビニール傘に向けると、その視線は折れている傘の骨のところでとまった。

「壊れてる」

 彼女はそう小さくつぶやいた。

「ああ、これはちょっと昨日折れてしまって。いやね、ちょっと会社でムカつくことがあって。会社の人事か知らないけど、部長が変わったんですよ、最近。で、その部長が業務のことなんにも知らないくせに偉そうに指示だけするもんだから頭にきて。それで昨日帰りに傘を地面に叩きつけたんです。あ、でもそれで折れたわけじゃないんです。すぐ拾おうとしたんですよ。物にあたるのは良くないって冷静になって。でもそのときに体勢を崩してしまって、あやまって踏んづけちゃって。それで。はは。馬鹿みたいですよね」

 ぼくはなぜかペラペラと話していた。聞かれてもいないのに言い訳をして。彼女は頷くでも相槌をうつでもなく、でも黙ってぼくの話を聞いていた。
「でね、今日もその部長がわけわかんないこと言い出して。チームで進めてた企画案を取りやめるとか言いだして。あいつがくる前から時間をかけて進めてたんですよ? それをいきなり——」
「いいの?」
 女性が突然つぶやいた。
「え? ああ、傘ですか? いいですよ別に。壊れてますけど」
 ぼくがそう言うと、彼女はぼくの後ろを指差した。
「そうじゃなくて、いいの?」
 ぼくが振り向いて、彼女の指の先に視線を向けると、青色がちかちかと点滅していた。
「ああっ」
 このタイミングを逃したら次どれだけ待たされるかわかったものではない。ぼくは慌てて横断歩道を渡った。渡り切って振り向くと、信号はちょうど赤に変わった。
 女性はやっぱり先ほどと同じ場所にいて、ぼくと目が合うと傘を軽く掲げて見せた。傘の折れた骨の先から水滴が連なって落ちる。
 女性は少しだけ微笑んだ。少なくともぼくにはそう見えた。

 ぼくは顔についた水滴をはらい、横断歩道とは反対を向いて走りだした。気になったけど、もう振り向かないことにした。
 背中で車が側溝の水を跳ね上げるバシャッという音が聞こえた。徐々に雨が強くなっている気がする。ぼくはそれでも走った。バシャバシャと躊躇なく水溜りに突っ込むぼくの靴の中は水でぐちゃぐちゃになり、ズボンの裾は跳ねた泥水で汚れた。
 でもぼくは、次第に強まる雨の中を真っ直ぐに走った。息があがる。口の中に雨が入ってくる。
 彼女はまだあそこにいて、でも、今は傘をさしていて。それで、傘の中から、空を雨を、見上げていればいいな。ぼくはそう思った。
 

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