見出し画像

趣味・特技ですか?そうですね、迷子(人生)、ですかね

 いやぁ、まいった。いや、まいった。
 これはあれだ。うん、完全にあれだ。
 そうだ、あれだ。迷子だ。迷子。
 うん、そうだ迷子だよこれ。いやはや、まいったね、こりゃ。

 ぼくは6月特有の湿気で肌がべたつく感覚に顔をしかめて、むぎゅ、むぎゅ、と間抜けな音をたてる自転車を押しながら歩いていた。

 うわぁ、どこだここ。

 周囲に広がるのは、どこにでもあるような住宅街の風景。しかし、どこにでもあるような風景だからこそ、ぼくは方向感覚を失い、自分がいまどこにいるのかさえ見失ってしまったのである。

 

 ぼくはその日、午前中家で仕事をして、そのあと近所のスーパーに買い物にでかけようとしていたのだけど、天気予報とは裏腹に晴れ間がのぞいていたので、自転車にのって2駅ほど離れた場所にある、定食屋さんに行くことにした。
 生姜焼き定食をぺろりとたいらげ、満足して店をでる。そのまま真っ直ぐ帰ってもよかったのだが、せっかく天気ももっているし、腹ごなしも兼ねて近くを自転車でぷらぷらすることにしたのだ。
 なんだか気になる方、というあいまいな理由のみを頼りに、次は右、次は左、という具合に軽快に自転車を走らせていた。
 少しじめじめする日だったが、自転車で風をきっていると気持ちがよかった。

 ああ、このまま、どこまででも行ける気がする。
 
 そんなふうに心地よい風を体全身で感じていた、そのとき。
 パンっという大きな音がして、突然、砂利道に乗りいれたかのように自転車がががたがたと揺れ始めた。
 ぼくは慌てて自転車をおりて、スタンドをたてる。そしてしゃがみこんでタイヤを確認した。

 ああ、やってんなこれは。
 
 やはりというべきだろうか、後輪のタイヤはすっかりやる気をなくして指で押すとベコリとへこんだ。
 
 ああ、やれやれ。パンクだったらいいけどタイヤ交換になったら痛い出費だぞ、これは。昨日、調子にのって空気をパンパンに入れすぎたのがいけなかったかなぁ。でも、パンパンに詰めたあと走ると爽快感がすごいんだよなぁ。うお、こんなにスイスイ走るのかってさ。

 そして、ぼくはそんなことを思いながら、よっこらしょと腰をあげ、周囲をあらためて見渡したときに思った。

 あれ、ここ、どこ?(カタコト)

『速報です。都内在住の成人男性が自宅から2駅ほど離れた場所を自転車で走行中に迷子になった模様です。調べによりますと、本人は自転車のタイヤがパンクして途方にくれていた、と供述しているということです』

 ぼくは脳内に流れたナレーションを慌てて首を振ってかき消した。
 んな、アホな。まだ旅行先で迷子になった、とかならカッコもつくが、近所をふらふらしてて迷子になるなんて、そんな馬鹿な。はじめてのおつかいじゃあるまいし。
 ぼくは頭の中で誤魔化してみようとしたが、やはり周りの景色はどれだけじっくり見ても、まるで見覚えがないのだった。

 こころなしか先ほどよりも日が強く照り付けているような気がする。まだ暑いだけならいいが、湿気も相まって不快感が高まる。体が火照っているのは暑さのせいか、それとも心の乱れのせいか。こめかみを汗がひとすじ流れた。
 しかし、ぼくは思い出した。ぼくが令和に生きる人間であるということを。
 慌ててスマホをポケットからとりだし、グーグルマップをひらく。
 
 ふぅ、あぶない、あぶない。
 
 危うくお店にたどりつくまえに泣き出してしまい、スタジオの人たちに微笑ましい表情で見守られる男の子になるところだった。
 少し冷静さを取り戻し、地図が画面に表示されるのを待つ。さて、ここはどの辺りだろうか。しかし、こんなときに限って通信制限がかかっていて、なかなか表示されない。画面にはぼくの今いる位置を示す青い丸が真ん中に表示されているが、肝心の周囲は白一色で何も表示されない。

 なんだこれは! グーグルですらぼくが迷子になったことを笑っているとでもいうのか。青い丸の周囲の白はお前の今の頭の中を表してます、ってか。やかましいわ! 
 ああ、これはwifiで見ればいいのに、ちょっと通信状況が悪いときに切って、それでそのまま放置してネットフリックスを永遠と見ていたツケだ。くそう。ちくしょう!

 ぼくは暑さのせいか、なんだかイライラしてきて、スマホを空に掲げてぶんぶんと振った。現代科学の結晶であるスマートフォンをなんの科学的根拠もない原始的な方法でなんとかしようとする愚行である。当然、そんなことをしても通信速度が改善されるはずもない。

 いや、まて。振っても早くはならん。ふぅ。落ち着け、落ち着け。

 人間とは学ぶ生き物である。ぼくはひとつ賢くなって、じっと表示されるのを待った。そして、15秒ほどかけて周囲の地図が表示される。
 その地図によると、そこから少し進んだところの角にスーパーがあり、そのスーパーを右。そのあと、しばらく真っ直ぐいって、その先をまた右に少し入ると、駅のすぐ近く、ぼくもよく知っている馴染みのある道につながるようだった。
 
 よかった。たすかった。
 
 せいぜい自転車の移動範囲である。そこまで途方に暮れるような距離ではないようだったので、ぼくはひとまず安心した。
 そして、すっかりただのお荷物になってしまった、さきほどまでぼくを快適に運んでくれていた自転車を押しながら、ぼくはのっそりと歩きだしたのである。




 道すがら、ぼくは考えた。
 たまたま、というか、今の時代はスマホをみんな当たり前のように持っていて、それで地図を確認することができるけど、もし持ってなかったときに迷子になってしまったらどうするんだろうって。

 まだ小さい子どもだったら、その場から動かないのが鉄則だというのは聞いたことがある。その場でとどまっていてくれたら、親御さんが探すときに見当がつきやすいし、もし泣いていたら周りで気づいた人が手を差し伸べてくれるだろう。
 昨今は泣いてる子どもがいても助けてはいけない、とかいう世知辛い風潮は一旦置いといて、例えばデパート内だったら迷子センターとか、そうでなくても交番に連れていってあげる、とか。

 でも、ぼくは大人だ。それもいい大人。

 大人が道端で泣きながら「わーん、迷子だよお、わーん」と喚いていても、変な目で遠巻きに見てくる人はいれど、なかなか「大丈夫、ぼく?」と手を差し伸べてくれる人はいないだろう。

 では、どうするのか。それはきっととにかく歩いてみることにかぎるだろう。
 怖くて不安だからといって、その場で永遠に泣き続けていても、行きたい場所にワープできるわけでもない。

 例えば、もし迷子になったその場からいくつも道が分かれているのだとすれば、1本ずつ歩いてみればいいのだ。端から順番に、あるいは直感で選んでもいい。ここが違うなら次、また違うなら次、という具合に。
 ゲームや漫画の世界ではないのだ。その道の先にトラップが仕掛けられていて命の危険に晒されるわけでもあるまい。せいぜい、歩いてはみたが、行き止まりだった、とか坂道が急で疲れた、程度のものだろう。進んでみて違う道だと分かれば戻って来ればいいのだ。戻ることは失敗ではない。むしろ間違っていると、うすうす気づいているのに、そのまま進み続ける方が問題といえるだろう。そのうち、道を選んで歩いていれば知っている道にふいにつながることもあるだろうし、経路案内の道路標識を見つけることもあるだろう。もしかしたら、気づいたら目的地についていた、なんてこともあるかもしれない。
 
 怖くて不安になるのは当然だ。知らないんだから。泣きたくなるのも当然だ。どうしたらいいのかわからないんだから。
 泣きそうになるのを堪えて、「ぼく平気だもん!」って強がるのがすごいわけではない。むしろ、うずくまって泣いて、でもしばらくして立ち上がって、半分ベソをかきながらでも歩き出すのが本当にすごいことなんだろうな。ぼくはそう思った。


 やれやれ、それにしても暑い。
 むぎゅ、むぎゅ、と音をたてる塊を押していることもあり、背中にTシャツがすっかり張り付いている。
 しかし、もうすぐだ。スーパーのところを曲がり、しばらく歩いた。あとはどこかでもう一度右に曲がるだけだ。
 このあたりだっけか?
 スマホを出してもう一度地図を確認しようにも、両手で自転車を押しているので、それも煩わしい。
 そんなときに、道路沿いのカフェから看板を持ったお店の人が出てきた。ぼくは額の汗を軽く拭って尋ねた。
「あの、すみません。〇〇駅ってどこですかね?」
「ああ、それなら次の角を右で、そこから真っ直ぐですね」
 なんてことはない。お店の人はあっさりと道を教えてくれて、すぐに店の中に戻っていった。
 ぼくは「ありがとうございます」と頭をさげて、再び歩き始める。

 そうだよなぁ。わからなければ聞けばいいんだよなぁ。 

 そんな当たり前のことをぼくは思った。
 世紀末でもあるまいし、道を尋ねたらだいたいの人が教えてくれるだろう。もしかしたら世の中にはいろんな人がいるから、道を尋ねても、「知るか!」って怒鳴られたり、「教えな〜い」と意地悪する人がいたり、「迷子なの? ダサっw」って笑う人がいたり、そもそも無視する人もいるかもしれない。
 でももし自分が道を尋ねられたら、と考えたら、ほとんどの人は教えてあげると思う。もしその道を知らなくても、一緒に「どっちだろうね」と考えることはできる。
 めちゃくちゃ急いでて、「ほんとにすみません! 次の電車に間に合わないとダメなんです! 死んじゃうんです!」みたいなときは断るかもしれないけど、でもそんな場合だったら、尋ねた側も「あ、全然いいですいいです! なんかむしろ話しかけてすみません!」ってなるだろう。

 自分で歩いてみて、それでもわからなければ誰かに尋ねてみるのもいいのかもしれない。子どもみたいに周りの人から手を差し伸べてくれる可能性は少ないのかもしれないけど、自分から働きかければ、助けてくれる人はきっといる。
 ニュースとか、SNSとかをみていると、考え方が偏ってしまうこともあるかもしれないけど、きっと世の中は思っているよりもずっと優しい。
「どの道がいいんだろうねぇ?」と一緒に悩んでくれる人もいるだろうし、よし! この道をいってみることにするか! って決めたら、「おお、応援するよ!」って背中を押してくれる人もきっといる。
 少なくとも、ぼくは優しくあろう。いますぐにトイレに駆け込まないと間に合わない、という状況でもない限り、優しくあろう。ぼくはそう思った。



 教えてもらったところで曲がり、しばらく歩いていると、見覚えのある道にとうとうたどり着いた。
 その安心感たるや。
 いつもの知ってる道が色鮮やかにみえる。道ゆく人が「おめでとう」と微笑んでいるような気がする。
 「ありがとう」
 ぼくがひとりでいるのに、まぁまぁのボリュームでそう呟いたものだから、すぐそばを歩いていたお姉さんがぼくを不審そうな目でみて足早に去っていった。

 やっぱり知っている場所というのは安心感があるものだ。
 それは、逆にいえば、知らない場所は怖くて不安になるのは当たり前ってことだ。
 それは大人、子ども関係なく。
 知らない場所、知らないこと。それらに対して恐怖の心をもつように人間の根源の部分に組み込まれているのだろう。
 でも、一度歩いてみさえすれば、そこはもう未知ではなくなる。
 そうすれば、知らない場所は知っている場所になり、そしてそこで新しい発見があるだろう。怖がる必要はないのだ。勇気をだせば、そこはすぐに知っている場所になる。
 
 そうか、ぼくはもうさっきの場所に行っても迷子にはならないんだ。
 真っ直ぐいって、スーパーを曲がって、そしてカフェの先を曲がる。もうばっちりだ。なーんだ、簡単じゃないか。
 ふふん、そう考えると、迷子になるのも悪くないかもね。新しい体験ができるってことだし。どんとこい、迷子ってね。 
 あ、そうだ。これからは履歴書とかで趣味、特技の欄には“迷子”って書くことにしようかしら。
「この、迷子、とはなんですか?」
「はい、これはですね、つまり人生の話なんです」
 こんな感じで、面接官の人に迷子について語るのだ。ふっふっふ。

 むぎゅっ! むぎゅーっ!

 そのとき自転車の後輪がひときわ高い音をたてた。
 なんだか「いいじゃん、それ。ウケるね」と、ぼくのくだらない妄想に反応してくれたような気がして、嬉しくなって、ぼくは自転車のサドルをポンっと軽く叩いてやった。
 
 よし、帰るか!
 むぎゅっ!

 ぼくは意気揚々と歩きだした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?