あのね、
昼の1時半。6月とは思えないほどの暑さだった。
今年は梅雨入りが遅く、雨の気配はまるで感じられなかった。
日課の散歩にでかけようと、外に出てみたはいいものの、5分も歩けばじっとりと首筋に汗が滲んだ。
いつもなら、ゆっくりと近所を練り歩き、大きめの公園を一周するところだが、今日は断念した。まるで夏本番のやる気をみせる太陽から逃げるように家に逃げ帰った。
夜。日が長くなってきたとはいえ、さすがに19時半にもなると夜の気配がしてくる。ぼくは昼にできなかったぶんを取り戻すために、散歩に出かけた。
狭い道を歩いていたら、後ろからワンボックスカーが近づいてきた。道は狭く、到底歩いているぼくの横をすり抜けられそうもなかったので、ぼくは電柱の影に隠れるようにして、後ろからやってきた車をやり過ごした。車はプッと軽くパッシングをすると走り去っていった。
またしばらくすると後ろからガリガリと独特の音をたてる年季の入った原付がやってきた。ぼくは後ろをちらりと振り向いて、道の端によけて、その原付に道を譲った。ブイーンと僕の横をすり抜けていったその原付には、ひらひらとしたレースがあしらわれた服をきた女性が乗っていた。原付はすぐ先の路地を左に曲がり、すぐに見えなくなった。
コンビニの駐車場に車が3台とまっていた。いつもガラガラのそのコンビニにしては珍しいことだ。車のそばには若い男性が5人集まって笑いながら話をしていた。
またしばらく歩いていると、何かを訴えるような、大きめの猫の鳴き声が聞こえてきた。その方向に歩いていくと、男性と女性が話す声も聞こえてきた。「なんか鳴いてるね」「そうだね、どうしたんだろ」すぐ近くに住んでいる人だろうか。ふたりともTシャツに短パンという出立ちで、猫の鳴き声が聞こえたので気になって出てきた、という様子だった。鳴き声の主であるはずの猫の姿は見えなかった。
そうしてぼくは近所を軽く一周して自分の家に帰ってきた。「ただーいま」誰に向けるでもなく声にしたが、当然返事はない。ぼくは一人暮らしだ。ふぅーっと軽く息をついて、ぼくの定位置である椅子に座った。聞こえてくるのは外からかすかに聞こえる虫の鳴き声と換気扇の回る音だけだ。
「どうしたの?」そんな声が聞こえた気がして、ぼくは話し出した。
あのね、道を譲ったワンボックスカーが僕の横を抜けたあと、軽くパッシングをしたんだ。プッてね。最近の人ってパッシングなんかしないからなんか妙にいいなぁって思ってさ。
あのね、原付に乗ってた女性の服装があまりにもその原付に似つかわしくなくてさ。あ、いい意味なんだけど。なんていうのかな。肩のあたりなんてヒラヒラした装飾がついてて、それが風になびいててさ。なんかいいなぁって思ってね。ロックだなぁって。ロックってどんなの? って聞かれてもどう答えていいのかわかんないんだけどさ。
あのね、コンビニに集まってた若い兄ちゃんたちがね、みんな背が高くて、イケイケでね。ははっ。イケイケとかってまだ言うのかな? みんなで海にドライブでもしてきたのかな。海が似合う男って感じだったよ。いっつもみんなで遊んでるのかな。仲が良さそうでいいなぁって思って。
あのね、猫の声が聞こえてね。それが割と大きな声でさ。あと近所の人なのかな? 「どうしたのかなぁ?」って話してる人がいてさ。そのふたりの格好が、くつろいでテレビをみてたんだけど、猫の鳴き声があまりにも大きいから気になって出てきましたって感じの格好でね。まぁこれはぼくの想像でしかないんだけどさ。なんか微笑ましくて、笑えてきてさ。あ、肝心の猫はどこにいるのかわからなかったんだけどね。暗かったのもあったんだけどさ。
あのね。あのね。あのね。
気づけばぼくは饒舌に話していた。さっき何があったのかを、さっき何を思ったのかを。聞こえてくるのは相変わらず、外から聞こえる虫の声と換気扇の回る音だけ。
でも、そのとき声がした。
「そっか、そんなことを思ったんだ」
「そうそう、そうなんだよ。あ、そうだこの前こんなこともあったんだよ。あのね……」
ぼくはぼくの中から聞こえた声に嬉しくなって、さらに話し続けた。
ぼくの話を一番に聞いて、ぼくの考えに一番に気づいて、ぼくの気持ちに一番に寄り添ってくれるのは誰でもないぼく自身だ。
ぼくは朝から晩までぼくと共に過ごす。そんな当たり前のことをぼくたちは、流れていく日常の中で忘れてしまう。
ぼくは話す。今日あったこと。好きなもの。悲しかったこと。
ぼくは聞く。嬉しかったこと。辛かったこと。笑ったこと。
外から虫の鳴き声が聞こえる。換気扇の回る音が聞こえる。
ぼくはなんだか嬉しくなって話し続けた。あのね。
まだ夜は始まったばかりだ。
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