雨が降れば傘をさして、疲れたら雨宿りをして
雨。
じめじめするし、カビの心配が増えるし、洗濯物は外に干せなくなるし、自転車には乗れなくなるし、髪の毛は爆発するし、靴の中にまで水が染みる。道は混むし、電車やバスが混むこともある。
これから梅雨の季節だから、そういった日々が続くだろう。
でも、ぼくは雨の日が割と好きだ。
雨がアスファルトを叩く音。車が通るときに水を跳ねる音。傘を叩く音。
雨に濡れる花。地面に張り付いた落ち葉。電線から落ちる水滴。
傘をさして歩く人。水たまりにはしゃぐ子供たち。普段より静かな町。それから雨の匂い。
小雨であれば傘をささずに歩いてみるのもいいだろう。
顔をあげれば雨がぽつぽつと頬に落ちるだろう。
雨が降っているっていうだけで、なんだかでかけるのが億劫になるけれど、そのぶん外から聞こえてくる雨の日のあらゆる音は、ぼくをどこか癒してくれる。
そういえば良い天気、悪い天気、というけれど、悪い天気といわれる雨の日にも、探してみれば良いところはたくさんある。
逆に良い天気といわれる晴れた日にも、探してみれば悪いところはたくさんある。
そうなってくると、良い天気だけど悪い天気、あるいは、悪い天気だけど良い天気ということもできるだろう。
こうなると、もうわけがわからないが、これはきっと天気に限らずそういうものなんだと思う。
ぼくたちは良いものの中に悪いものを見つけることもできるし、悪いものの中に良いものをみつけることもできる。
どっちもできるのなら、ぼくは良いものをみつけたいなぁ、とそんなことを思ったりする。
雨の日の公園も好きだ。
雨の日の公園は普段とは違い主役が入れ替わっているような気がする。
晴れた日の公園の主役は人間だ。
そこかしこで賑やかな笑い声が聞こえ、たくさんの人がそれぞれの時間を過ごしている。
大きめの公園であれば出店がでていたり、イベントをやっていることもあるだろう。
暖かい日差しの中、元気にはしゃぐ子供たち、それをみつめる大人たち、ランニングをする人、木陰で寝っ転がっている人、ベンチで本を読んでいる人、楽器の練習をしている人。
公園全体に陽気な空気感が漂い、明るく暖かい印象を受ける。
一方で雨の日の公園の主役は自然だ。
静まり返った公園に人はまばらで、雨の音が響く。
雨は木々を濡らし、地面を濡らし、動物は身を潜め、どこか寂しげな空気感が漂う。
それはきっと普段人が多いからこそ感じる寂しさであり、実はそれこそが本来の姿なのかもしれない。
雨の日に公園に行くと、どこか「お邪魔させてもらう」というような意識が生まれる。
静かな自然の中にお邪魔して、その空気感を壊さないように、ぼくはそろりそろりと歩き、あるいはじっと立ち止まり、木の下のあまり濡れていない場所に座ってみたりする。
晴れた日の公園が暖かい元気なパワーをくれる場所だとするのならば、雨の日の公園は穏やかで小さな癒しをくれる場所ではないだろうか。
雨の日の空は木々は花は鳥は虫は、なんだかぼくに安心感をくれる。
ぼくは雨の日が割と好きだ。
ぼくが公園を歩いていると、向いから相合傘をした若い男女が歩いてきた。
男性が傘を持ち、ふたりで笑いながら何かを話している。
ぼくは微笑ましい気持ちになる。
ぼくも傘をさしているのだけれど、なんだか持っている右手が疲れてきたので、傘を持つ手を左手に切り替える。
傘なんてそんなにたいした重さではないけれど、そんなものでも、しばらく持っていると疲れてくるものである。
相合傘をしていた、あの男性もきっとそのうち腕が疲れてくるのだろう。
でもきっとその疲れはある意味で喜びであろう。
ぼくは疲れたら簡単に傘を持つ手を切り替えられるけれど、彼の場合はそうもいくまい。
疲れていても頑張って同じ手で持ち続けるのだろうか、立ち位置を変わるのだろうか、女性に代わりに持ってもらうことだってできる、屋根のある場所でしばらく雨宿りしてみるのもいいだろう。
そんなことを考えていると、ひとり口元が緩んでしまう。
今も、ここではないどこかでも雨が降っていて、そうして、そこでも誰かが傘をさして、あるいは雨宿りしていればいいな、とそんなことを思う。
ぼくは雨の日が好きだ。
そんなことを思う。