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「樹木葬」とは何なのか?なぜ人気なのか?

2024年9月8日東京は市ヶ谷でシンポジウム「葬送の今と樹木葬」が開催。
会場は120名ほどが来場し、半数近くが新聞の告知を見た一般の方だったよう。

新たに墓を契約する人のうち、過半数以上が樹木葬を選択するデータもある中、生活者の「樹木葬」への関心の高さが伺われる。

一方で、弊社の相談窓口や私自身に相談いただく中で
「樹木葬がいいとおもって見学をしてみたら想像と全然ちがった。がっかりしてお墓探しが億劫になった。」
「樹木葬運営母体の会社が数回変わった。不安だ。」
「樹木葬を契約したら住職がいつのまにかいなくなって知らない僧侶が住職だがろくな説明もない。」
などの声が聞こえてくる。

樹木葬を運営する寺院からは「最初はよく売れてよかったが、今になって後悔している」といった相談もいただく。

「樹木葬」に何がおこっているのか。そもそも「樹木葬とは何なのか」。

今回のシンポジウムを受けて自分なりに整理したことを書き記しておきたい。


「樹木葬」への違和感

私がこの業界に入ったのは2010年のこと。

当時はまだ新規にお墓を設ける人のうち、3人に1人が継承有無を問わないお墓(永代供養墓、散骨、樹木葬、納骨堂など)を選択していた。

幸運なことに駆け出しだった21歳のころから葬送業界のパイオニアである方々とご縁があり、周囲の意識も感度も高く、恵まれた環境にいたと思う。

だから、業界にはいってすぐ「「樹木葬」は岩手県にある知勝院が日本初の樹木葬を1999年から運営している」ということを教えられていたし、「自然と共にあり、自然に還っていく。それが「樹木葬」だ」。そう認識していた。

そこからあっという間に「樹木葬」は増えていった。

でも、「樹木葬」を謳っている霊園やお寺に足を運ぶ度に違和感を抱くことになる。

「これって、石の墓標を樹木に変えて、しかも石の区画より小さな区画のカロートや筒に砕いた遺骨を効率的に納めているだけじゃないか。こんなの樹木葬じゃない。」

反射的にそう思った。

それもそのはず。霊園や境内墓地の一角に「樹木葬」と札や看板が立ったエリアがあり、数本の木を植えているが実際には石のプレートや墓石が建墓されている。

筒のような入れ物や石のカロートに細かく砕かれてすし詰めのように小さな区画がずらっと並ぶ。期間を満了したら合祀されるか、期間もなくずっとそのまま埋蔵される。

遺骨は自然に還っていかない。

私は今も、年間100件以上の寺院に出会いながら、一般の方の納骨相談を受けているけれど、これのどこか「自然に還る樹木葬なの?」と疑問を抱く樹木葬にしか残念ながらお目にかかったことがない。

違和感は生活者も感じていて、勘の良い人は「想像している樹木葬がない」と悩んでいる。

「樹木葬」と「樹木葬もどき」

「樹木葬」が流行するにつれ大きくなった違和感。

それは何なんだろうかと考えた結果、端的にいって、「樹木葬=自然に還る」イメージだけが利用された今の多くの「樹木葬」の有りように対して抱いたのだとおもう。

はじまりの樹木葬である知勝院の「樹木葬」の思想やどのようなお墓かを知るとそれがよく分かる。

知勝院の「樹木葬」はシンポジウムでも上映された以下の動画が詳しい。

里山の1部に遺骨がなることで自然に還っていくこと。それは自分の命が、人間の命が自然社会において1部でしかないということを教えてくれる。自然への畏れや敬い、そして謙虚な心を思い出させてくれる。

非常によく考えられた視座の高い世界観と仕組みだと思う。

里山を再生させた功績は日本だけではなく世界からも評価されている。

理念・宗教性・社会性・福祉性がどっしりと横たわった知勝院の「樹木葬」と、巷で流行っている「樹木葬」は呼び名が同じでもまったくの別物で、業界の人々の呼び方を借りれば「樹木葬もどき」がしっくりきてしまう。

しかし、一般の方はそんなことは知るよしもない。

「自然に還れる=樹木葬」のイメージに惹きつけられ、おそらく今までの家で継承することを義務づける象徴のような石のお墓に対する反発心のようなものもあいまって、その「樹木葬もどき」に遺骨が納められていく。

生活者は「樹木葬」という「自然風」の、これまでと違うお墓を選択したようでいて、その実、石が木に変わったかつ墓石区画より手狭で小さな区画に遺骨を砕かれて埋蔵される樹木に擬態した永代供養墓を選択していることになる。

「樹木葬」のイメージでその歪みは覆い隠されたまま。

求めているものと提供されているものが異なるのに、「イメージ」操作によって遺骨が納められ、契約後に実際に遺骨を納めるとなってから後悔をしたり、維持ができず霊園管理が破綻するような事態も徐々に出始めている。

「樹木葬」の流行に見る日本の葬送

シンポジウムに参加して一番感じたのは樹木葬を立ち上げ、20年かけて里山再生を実現し続けている人々の想いの信念と温かさ。

寺院が「樹木葬」を設けるのではあれば、理念・宗教性・社会性・福祉生、そして地域性に配慮した社会的意義があってしかるべき。それでこそ、寺院が必要とされ、維持されていくはず。

「坊主丸儲け」的な意味で葬式仏教と揶揄され、活路を見いだせない特に人口が減っていく地方の寺院を憂いて自分たちの苦労や想いを、自由に学び、活動に活かせるような慈愛でもって開いた知勝院の「樹木葬」。

その視座の高さと愛情の大きさを感じて胸がいっぱいになった。

それと同時に、結果的にその思想や愛は僧侶の怠慢や経済原理主義的な樹木葬コンサルを謳っている業者によって利用され、樹木葬もどきが台頭。

経済は動いているが知勝院の「樹木葬」に込められた想いは捨て置かれたような残酷さを感じて悲しくなった。

「樹木葬もどき」の多くは、寺院が自分で運営するならまだしも、業者に丸投げし、全自動的にお金を稼いでいる図式だ。

人に慈愛や慈悲を説く立場にあるお寺が悪意はないにせよ、他者からの愛情を無碍にしていることにもならないか。

ある種の濁りがある場が人の弔いという、祈りを受け止める器としてふさわしいのだろうかと疑問に思う。

しかも、「樹木葬」と謳っていても、実際は花壇や墓石がメインで添え物として樹木を植えているだけなら「花壇葬」など実際と乖離のない名称をせめて使用した方がいい。

騙し討のようなことならないように誠実な企画・設計が人として筋ではないかと思う。

「樹木葬」に求められているもの

家単位の継承を前提とし、メンテナンスの労力や費用がかかる石のお墓に代わるお墓の形として継承を前提としない永代供養を約束した樹木葬・永代供養墓・納骨堂が求められるのは必然。

その中で「自然に還る」謳い文句に惹かれる生活者。比較的建設費用が少なく済むかつ謳い文句だけで売れることを理由に安易に設ける寺院や霊園。
双方の相乗効果により、「樹木葬もどき」は増えていく。

そうして、形にばかり話題はさらわれていくが、その中身がどうなのか?永続性はあるのか?を今一度、私達は問う必要がある。

お墓をもとめる方
「大切な人をそこにおさめたいとおもえるのか。」
「後世からみて忌避されるようなものではないのか。」
「安心して手を合わせられる場所なのか。」

お墓を運営する方
「約束した永代供養を遵守できるのか」
「契約した時の環境を維持できるのか」
「次世代の寺院運営の負債・負担にならないのか」

問い直すべきことはたくさんあるがまずはそれぞれ3つづつは見直すことを私はおすすめする。

これまで8000件以上の葬儀・お墓相談を受けてきた立場で断言する。お墓には自分と故人にあった「弔いの器」としての精神性を墓に求める人がほとんどだ。

お墓を求める時、どれだけ見目が綺麗で、便利で安くても、結局は住職や寺族の人柄、供養内容が契約の決め手になる。

僧侶が出てこず、営業担当だけだとその決め手に欠くので、便利さや価格に目が言って弔いを預けると言うよりも、消費行動に近い縁ができてしまう。

弔いにおいては、多くの宗教者が思うよりもずっと、目に見えるものより、目に見えないもののほうが重要視される。

しかし、今の日本の弔い現場では、残念なことに、いくら問合せても見学してもしっくり来なければ「ここでお世話になりたい」ではなく、「ここが一番ましだった」または「いったん考えるのをやめよう」を選択している人がどれだけいるか。

自分や大切な人の弔いにおいて弔いを預かる側の怠慢や狡猾さでまともな選択肢が増えない。選択肢が多いようで丁寧に見ていけば本当に「弔いの器」として機能している霊園や境内墓地はそう多くない。

その結果、「これがいい」ではなく、「ここでいいや」で決まっていく。

そして、儀式ありきの弔いの価値は軽くなり、無宗教化による非常に短い期間で人的供養が進み、生死の価値は見失われ、悲嘆(グリーフ)は肥大していく危険性をはらむ。

宗教者まで加担して、弔いを産業化しすぎたツケがどんどんたまって、いつか大きな災厄となって日本の弔いをズタズタにする予感すらする。

たしかに何事にもお金は必要だ。でも目的を見失ってはいけないと思う。寺院および墓地の永続性、社会性、福祉性、そしてなにより宗教性を社会に提供するための原資としてのお金であって、ただやみくもに稼ぐのは違うのではないか。

人の死を丁寧に弔えない社会は怖い。生きることを軽んじることとそれは同義。

「あのように老いて、死んでいける」と後世が安心して暮らせる地域は自殺率が低いという研究データにもあるように、「死」は「生」と表裏一体。

弔いを丁寧に扱う「弔いの器」としてのかたちの1つが「樹木葬」であってほしい。

弔いの器としてのお寺

「あの寺は感じが悪い」
「自分の代で今のお寺を離れたい」
「由緒あるお寺らしいが僧侶や寺族の顔も見ないから思い入れはない」

そんな生活者の声は珍しくもない。

それでもそこに墓があるからお寺に通っている人は多い。でもそれも「墓じまい」を理由にすればそのお寺を離れることができると今の生活者は知っているのでいつまでも安心材料にはならない。

お寺も「選ばれる時代」。選ばれるために試行錯誤するお寺も増えた。だから「樹木葬もどき」も増えているのだろう。

でもその試行錯誤の方向がビジネスに偏ってしまい、宗教性・社会性・福祉性を欠いた結果、ずさんな管理による契約不履行、維持管理の破綻。

また、弔いを軽んじているかのようなありようが、目には見えないけれど着実に弔い手の儀式で弔う気持ちを削いでいる。

だから、「樹木葬もどき」を契約した方々が回忌供養も葬儀依頼もしないと嘆く僧侶を見ると不思議で仕方ない。そうなるのは、自然なこととしか言いようがないのに。

手を合わせる気持ちがある人たちがいる。でも、手を合わせる場を提供している側が祈りを阻害している事実がある。

そして、そんなことをしていたらお寺を存続できなくなるのは明白なのに、阻害している本人に周囲が指摘しない変な遠慮がこの業界にはある。

宗教は信じることから始まるのではないかと思う。信じてもらうには大きな建物や立派なデザインや肩書といった装飾物よりも、弔いを預かる側の「信心」や「人間性」がなければ信じようもない。

千坂さんがおっしゃった「「もてなし」の精神がない。」という指摘は正しいと思う。

みんな仏性を持つ尊い命であると言うなら、来山者をもてなすこと、そんな大したことをしなくても、来てくださった方にまず笑顔で挨拶をする。世間話やその人の最近の話を聞く。そしてその話を覚えておいて次会ったときにはこちらから話しかける。気にかける。

そうして心と心を通わせていく。それがもてなしではないのか。

そんな宗教者どころか人として当たり前のこともできずに、山門から墓参りまで顔も見せず、業者に任せっぱなしで、供養の依頼がある時だけ現れてお布施を承って帰る。その行動の一部始終のどこに「尊い命」への向き合いがあるというのか。

人口は減っていくのだから、作れよ増やせよで永代供養を付帯するお墓であっても売れる時代はそう長くは続かない。

ずさんな管理体制や永代供養の制度設計を見るにつけ、これから永代供養を維持することが課題になる時代がきっとやってくる予感がしている。

だからこそ、「弔いとは何なのか」を問い直し、「弔いの器」としての寺をひらき、そして誠実に維持して、人とのつながりを大切にするお寺こそが必要とされ、残っていくはず。

「弔いの器」としての寺になっているのか?を寺院を支援する身として強く意識していたい。

お寺に伝えたいこと

今まで感じてきた違和感と樹木葬シンポジウムの学びを経て、だいぶ言いたい放題書いた。

一つ書き添えておくなら、中には理念をもってお寺が主体となり、企画運用している樹木葬、納骨堂、永代供養墓はある。

お寺の規模によっては僧侶だけでは対応しきれないので職員や提携業者に協力を求めている場合もあるけれど、窓口に僧侶が立っていないことが悪いお墓ということではない。

肝心なのは体制よりも、理念と仕組みと管理計画。そして契約までに一度は僧侶と話して相互理解の時間が設けられてること。

そういったお寺は、使用者の満足度が高く、口コミで契約が増えている場合もある。

知勝院のような規模で樹木葬ができないにせよ、せめて、こういったお寺が増えてほしいと願って、私はお寺の永代供養支援をしている。

ひとしきり疑義を訴え、批判して、それでものごとが変わるならいいけど、変わらないのも知っている。

もしこれから新たな形のお墓を設けるお寺がいるとしたらを仮定して伝えたいことをまとめておきたい。

千坂住職のアドバイス

「僧侶は寺のことばかり考えていてはいけない。地域と共にあるのだから、寺の外に出て、地域をよく知ることからはじめるべき。」

講演中、千坂さんがおっしゃったこの言葉に共感し、質疑で以下のように質問をした。

「自分のお寺の周辺、一関の自然の生態系をどのようにして学び、理解を深めていったのかを教えてください。すでに樹木葬もどきをはじめてしまっている寺院が残念ながら多い。そして後悔しているお寺も。彼らにアドバイスがしたい。」

千坂さん:子どもの頃から育った地域だから、目で見て感じて、どんな生物がいてどんな自然があるかはだいたいはわかっていたが私だって自然事は全然詳しくなかった。妻のほうが植物に詳しかったくらい。樹木葬をはじめるにあたって改めて歩いて見て、学んだ。そしてなにより地域活動が大切。地域で活動をすることで、その地域について知り、学んでいったことが大きい。そうしていると林業の方や研究者に出会い、理解を深め、自分自身で本を本で勉強ももちろんした。
とにかく、何事も真似しようとしてはだめ。足元をみつめることがまずは大事。自分たちの土地を知ることが大事。

非常に明瞭かつ納得しかない回答を得られて大変ありがたかった。

私がお寺のご相談を受ける中で、珍しくないのは「墓というものがなにか?」を考えていないケース。

墓は石屋や業者に売らせればいい。そんなスタンスが見て取れる。

中には視察はしている僧侶もいる。

でもそれも、他の永代供養つき墓地の見学を他地域まで足を運んだり、セミナーに足繁く通ってもそこにはヒントしかなく、答えはない。

そうして大切なことが考えられていない、販売計画だけが立派な樹木葬もどきや永代供養墓に納骨堂が誕生する。

その結果、売れないことも多い。

売れたとしても、1年目2年目はよかったがだんだんメンテナンス費用や労力が負担になっていく。

維持・管理の大変さと大切さを考えておらず、業者には売り逃げされていて頼れない。管理費なしで設計したのに、法要や葬儀の依頼がない。あっても回忌は3回忌までしてくれたら御の字。

それなのに33年の遺骨預かりを約束していて、当の自分は引退した後で、次の世代には管理の義務という負担と負債だけが残るんだろうというのが象像に堅くない。

一体これは何をしているんだろう?と考えるとまさにすでにあるビジネスモデルを「真似ているだけ」で考えて自分のお寺にあった形を設けていないのだろうと思う。

人と地域を知ること

私は現在帳を設ける大切さをお寺に伝えている。ここ数年で200件以上の問合せがあり、この8月も10件以上の寺院との面談をした。

そのほとんどが現在帳を用意していない。檀信徒の家系図や現在帳にあたるこれまでの交流記録などの記録を管理しているお寺は10件に1件以下だ。

話を聞けば施主の名前や住所、どんな人かは大体わかっている。けれど、家族構成や次世代の施主の確認、過去帳と施主の結びつけができていないなどがあたりまえの状況。

つまり、肌感や数字でしか自分のお寺のことがわからず、正しく状況把握・分析できていないということ。

その中で、新規事業をするとなって安易に樹木葬もどきを選択するのはわかる気がする。だって、現状把握が正しくできていないのに、先々が不安という漠然とした課題感だけがあり、そこで「お寺はなにもしなくていいです。売れますから。」的な営業を受けてしまうとさくっと契約してしまうのだろうと悲しいかな想像できてしまう。

そうならないために、今から新しいことをするお寺にはぜひ現在帳を設けることをおすすめする。

現在帳の作り方にまよったら私が提唱している「檀信徒カルテ®」について知っていただくのがいいかもしれない。名簿ではなくカルテ式で檀信徒と縁者を理解すること。まずはそこから、50年100年と続くお寺の道筋が生まれるはず。

現状把握ができたら弊社の会員寺院に限り、分析していくお手伝いも行っているがかなり手応えがある。

お寺を支えてくれている檀信徒をまずは知ること。そして、地域をしること。そこからしか、必要とされるお寺にはなり得ない。

「樹木葬」とは何か

今回、シンポジウムに参加して自分なりにインプットしたものを咀嚼して「樹木葬とは何か」の解を自分なりに考えた。

知勝院がはじめた本来の「樹木葬」とは「種としての命のめぐりを象徴する墓」。

本当の樹木葬はわたしたちが自然の中にいかされている1種の生き物だと気付かさせてくれるところが価値なのだろう。

そう感じた結果、整理をして、この解にいたった。

お墓の変遷を私なりに整理した内容は以下。荒いところもあるけど一旦の整理として。

お墓の変容_せいざん株式会社
  • 家という単位で一族に価値を置かれていた時代の家墓。

  • 一族から開放された家族や個々人の人生を後押しした個別永代供養墓。

  • 家族から開放されたまたは離れた個の集まりのための共同永代供養墓。

  • 人の視点・理屈の枠を超えて、地球に生きる1つの種として自然に還る樹木葬。

こうやって整理すると、お墓の変容は人の人生観を表すのだなと思った。

  • 個々の意思や意見よりも一族や地域の習慣や体裁、意思決定を優先する。

  • 個々人の意思や価値観を優先する権利を主張する。

  • 自由選択の先に孤独や孤立と生きる人のつながりを求める。

  • 人の理屈から開放されて自然に同化・感謝する。

「樹木葬もどき」は、群を成すはずの樹木をシンボルとしてのデザインとして植林していること。「自然に還る」を謳っているが自然に帰らず、結局は人の理屈のお墓でしかない。

「自然との共生は地域性や自治体の許可の問題で実現できない部分があることも理解している。しかし、せめて埋蔵のたびに地元の間伐・植林寄付といった観点もいれていくべき」と碑文谷さんが会場でおっしゃっていたが、まさにだと思う。

墓地を一部の人の供養とお寺の利益のためだけでおわらせない視座の高さがあれば墓地は社会にとって必要なものとなり、価値が高まるはず。

また、碑文谷さんはこうもおっしゃっていた。「社会の変化に応じて1部の寺院の行いがお墓の歴史を変えてきた。これも事実」と。

とある地域を調査したら永代供養墓を運営していることを開示している寺院のうち8割が石材店や業者に丸投げしていることが分かって私は悲しくなった。

社会の主体は個々の生活者にある。だからこそ、個々人の人生観を「自分だけ」「自分とあなた」から、「みんな」へ、「自然」へと開いていくことで、墓地の価値も高まる。

その流れはやはり、お寺にしかできないのだろうと思う。

お墓のありようが混沌とする中、寺院がどうお墓を運営するかが問われる。

命のめぐりをどう伝えるのか。
地域や寺院活動の参加をどううながすのか。
「永代供養があるから供養をしなくて良い」と必要以上に荷物をもってお客様扱いせずに、ぎりぎりまで自力による供養を求め、継承できなくなったらお寺が助ける。

それを考え、伝え続けるにはお寺が主体のお墓の運営が最善だと思う。その中で足りないことがあれば、知勝院の千坂さんが20年かけてそうされたように、見識ある善良な人々に助けられながら、お墓を介してこつこつと社会的な寺院価値を高める。

そんなスタンスが当たり前になればいいと願っている。

*メモ*
シンポジウムのレポートは以下に記載した。


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