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誰がための弔いなのか?
思わず手を合わせて人が人を想う。
感謝、敬意、懺悔、報告。
さまざまな感情を抱きながら、いなくなってしまった人に想いを寄せる。
そして、いなくなってしまった人と己の関係性を起点に、自分自身の感情や思考と向き合って、生きていく。
「あなたがいたから私がいる」
それを確認して、自分という存在と向き合うことで、言葉にできない「なにか」を自分の生きる力に変えていく。
それが弔いだと私は思っている。
文化としての弔いが産業化され、価値が失われがちになりつつある中、2023年10月20日(金)に大阪は大蓮寺で葬送文化界のレジェンド碑文谷創さんをお迎えしてお話を聞く会を開催する。
碑文谷 創さんのお話を聞く葬送次世代の会in関西
~次世代に心ある弔いを繋げるためには?~
会に際して自分の考えを少し整理。
「誰が悪いのか」は意味がない
葬儀の簡略化は弔う時間の縮小を招き、日本文化としての弔いの習慣が失われていく、という点においてこれからの葬送をどうしていくのか?は弔いに関わる人間であれば考えるべき課題だと思う。
日本全国の寺院支援と生活者の供養支援を行っている仕事柄、僧侶の方や葬祭関係者の方向けに講演をしたり、ディスカッションしたり、食事をする機会が多い。
その際に、さまざまな残念な弔いの現場のお話を聞く。
「どうすればいいのか」という議論に必ず私は持ち込もうとするが、葬祭業者からは「生活者の意識が低下しているのが悪い、僧侶も悪い、特に菩提寺が酷い」僧侶からは「葬儀社が、檀信徒が悪い」という話になりがちだ。
弔いに現場で向き合った時にままならない事実があるのは私も体験しているのでもちろん分かる部分もある。
ただ、その原因を探ると誰かの意識や行動が要因だという話になってしまうのがもったいない。
ものごとにおいて誰かが100%悪くて自分がまったく悪くない。なんていうことはないはず。
なにか少しでも自分たちの立場でできることを模索する必要があるし、そもそもどうあるべきなのか?がないと模索すらできない。
宗教者と葬儀社がお互いの当たり前や型に合わせた葬儀や供養にこだわるのではなく、喪主や遺族にとってよりより弔いにするにはどうするのか?を話し合い、構築できていると喪主や遺族が大変喜んでいる場合が多いだけに、「どちらかが悪い」を言い合って、建設的な意見発展に及びにくいのは残念でならない。
原点を見つめる
冒頭の碑文谷さんの会の本番は10月20日だが、事前に碑文谷さんが残された書物をみんなで読んで学びを深める場所として勉強会を9月27日、10月13日と開催した。(欠席者にはレポートを送付するフォローを行いつつ)
勉強会には、僧侶と葬儀社があつまってくださり、それぞれの立場から碑文谷さんの史実と想いに溢れた葬送文化雑誌『SOGI』の最終号を輪読することで学びを深めた。
感想の共通点は
「自分たちがまさにぶちあたっている課題についてここまできれいに整理されているものがもう随分昔にあったことに驚く」
という点だった。
「予言の書か?」
とまでおっしゃっている方もいた。
原点を知る。ということはこの行き先不透明で対策が困難な時代において重要だと個人的に感じて今回の会を企画しただけにまさにの感想が聞こえてきた。
現場にいると
・喪主に通夜はやらないといわれた
・本人が希望していたことを喪主にひっくり返された
・僧侶の必要性を感じないと言われる
・紹介料がどんどんあがっている
・火葬後までいさせてもらえない
・49日以降は接触させてもらえない
・遺骨は不要と言われる
など遺族との関わりから業界のしがらみまでさまざまな課題に面する。
その時に、戻れる原点がある。ということを知ってもらいたい。
碑文谷さんの書籍から「原点」を読み取ることはできるが、この度ご本人に質問をして肉声でお話を聞かせていただける貴重な機会がもてたことに感謝するばかり。
誰のための弔いなのか?
なんのために弔うのか?
そこを見失わずに、建設的な意見交換や実行できる弔いの場が増えるだけでも日本の弔いの風景はずいぶん変わるはず。
その一助になるような機会を設けたいと企画した会。
当日まであと5日。
最後までしっかり準備を進めていきたい。