とんでもない場所に行く、当たり前の方法
いつもありがとうございます、田端ですさて静心静坐などの指導を行っていると、よく遭遇することがあります。
それは、「多くの人が短期間で結果を求めすぎている」ということです。
静坐も、厳密にいえば違うのですが、瞑想や座禅と似ているところがあります。
なので究極的には「無」になることが目標とされてる部分もあるかと思います。
何をもって「無」か?ということはさておき、この境地までたどり着くにはどのくらいの年月がかかるのでしょうか?
個人差がかなりあるとは思いますが、お釈迦様は無になって悟りを開くまで6年かかったそうです(諸説あります)
後世、これだけ影響力をもった方でさえ、数年はかかっているわけです。これを考えれば、凡人である私たちはもっと多くの年月がかかっても全くおかしくなないですよね。
このように聞くと多くの人は「そうだよね」と考えます。
でも自分がいざやり始めるとすぐに大きな結果が出ると思ってしまいます。
前に私が、静心静坐の指導をしていた時のことです。その方は50台の女性。
座禅や瞑想の経験は全くなく、でも神様の加護をうけることには興味があったようでした。
手順を教え、廿字真言を体内に取り込んだ後も、もぞもぞしていました。
静坐を15年やっている人からみると、もう少し落ち着いたらいいのに、と思いましたが、なにも言わず見守っていました。
私からすると、初回から無理してもしょうがないので、予定の時間より早めに切り上げました。
静心静坐終了後、その女性は「無になれなかった」と吐き捨てるように言って帰っていきました。
もちろん全員がこういった人ではないでしょう。
でも当てはまる人は多いかなと思います。
要は、教わればすぐにできてしまう、と考えてしまう人がおおい、ということです
教わった後、自分で何度も繰り返して実践するからできるようになる、ということがわかっていないのです。
筋トレのやり方を教わっても、実際に自分でバーベルを上げなかったら筋肉はつかないですよね?それと同じです。
私だって静坐を初めて最初の半年はきちんとできていなかった。わからないなりに毎日毎日繰り返し行って、数年後にやっと一人前にできるようになったのです。
今では毎日、いわゆる無の境地に至っています。この小さな積み重ね、継続の大事さをわかっていない人がほんと多い。
プロ野球のイチロー選手も「小さいことを重ねることがとんでもないところに行くただ一つの道だ」と言っています。
廿字真言を毎日唱える、静心静坐を毎日やる、小さなことかもしれませんが、結局、小さなことを継続した人間だけしかわからない境地があるのです。
では、本日はここまで
静坐のやり方と廿字真言は以下からご覧ください