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山陽道をゆく chapter1-4 倉敷・直島(4)
倉敷美観地区に着いた。
→chapter 1-3 倉敷・直島(3)
まずは腹ごしらえだ。pack tourの良いところは、全てがsetされているところだろう。特に観光地での昼時はどこも行列ができるほどにいっぱいなのだが、こちらは個室とは言わないまでも、用意された席でゆっくりgourmetが楽しめる。
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あえて贅沢を隠した
その昔、備前岡山の藩主池田光政候は「食膳は一汁一菜」という、
質素倹約を奨励しておりました。
贅沢を禁じられていた人々は、質素な物を食べざるを得なくなったそうです。
とはいうもののそう簡単に美味しいものを
食べたいという気持ちを抑えることも難しいものです。
そこでなんとか役人に見つかることなく、
美味しいものを食べる方法はないだろうか・・・と考え、
編み出したのがこの一見玉子だけがのった返し寿司なのです。
四季彩料理成一hmepageより
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女将?から料理の説明があった。
備中岡山藩の役人が来た時だけ質素すぎる食事で倹約している姿を見せ・・・・
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役人(黙認?)が去れば
容器を返して・・・
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うまいものを食べたいと思うのは古今東西同じ
この押し寿司を食べていくとその下にあの玉子だけの押し寿司が出てくる。magical !
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お腹が膨れたところでMさんが街並を説明しながら美観地区散歩、至る所に蔵がある。
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先の吉備津彦神社を早く切り上げたかったのがわかるでしょう。
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かつて倉敷は高梁川河口の干潟に面した港町であったが、江戸時代から周辺の新田開発により内陸の町になっていった。やがて新田開発により埋め立てられた干潟の僅かな残りの部分が入江となり、海の潮の干満にあわせて船が行き来する運河として機能し始めたのが倉敷川の始まりと云われている。
「汐入川」、「舟入川」または「前神川」とも呼ばれ、昭和30年代初めまで船による物資輸送が盛んに行われ、荷物を積み降ろす船溜りが美観地区より下流の入船橋付近にあった。しかし1959年(昭和34年)児島湾締切堤防が作られ、倉敷川は運河としての機能が失われ、一時期、市民の生活から離れた存在になった。また、川西町を通る倉敷用水と結んでいた新川が埋め立てられたことも追い討ちになり、源流を持たない汐入川であったため水質も悪化していった。
その後、高度成長期の観光ブームが転機になり、再び脚光を浴びることになる。1968年(昭和43年)、倉敷市による美観地区の整備に伴って一帯の川底の浚渫が行われるようになり、また地下水路を経て高梁川の水を導入する形で倉敷用水との通水を復活させる工事も行われ、近年になって中央1丁目から藤戸地区までの沿岸の公園化にも着手、船溜り跡に藤棚やベンチなどが置かれ、親水公園となった。
倉敷川 Wikipedia より抜粋
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倉敷を語るに大原孝四郎、その子、孫三郎の存在は欠かせない。倉敷紡績をcoreに一大concernコンツェルンを築き上げた実業家である。
その子、孫三郎が病弱だった妻壽恵子のために建てた別邸兼迎賓館
当初、孫三郎は病弱であった妻壽惠子(1883-1930)を気遣い、開放的な町家である大原家本邸に対して、家族だけでゆっくりと過ごせる空間をつくろうと、建設を計画しました。迎賓館としての役割も加わり、有隣荘は1928年に完成しましたが、残念ながらその2年後に壽惠子は他界。家族のための空間として機能した時間はわずかでした。しかし、家族を想う孫三郎の意思が、この建築を形づくったことは確かです。
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まるで映画のsetのような景観
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美観地区にはinbound(主にchinese系)や日本人観光客もたくさん来ているが、通勤rush並に人が行き交う京都の観光地と違い、ちょうど良いくらいの人数でのんびり散策ができた。
Mさんの案内で僕たちは倉敷川の辺りを歩き、UKIYO-E KURASHIKI 国芳館へと向かった。
chapter 1-5 倉敷・直島(5)→
追伸 postscript
僕は半世紀以上前に家族と共に倉敷を訪れている。父が中古のspecial cedricを購入し、宮島・秋吉台旅行に向かう途中に立ち寄った。当時山陽自動車道はなく、阪神高速を降りてからひたすらR2国道2号線を走った。小学生だった僕は大原美術館のmonetなどには全く感心がなく、倉敷天文台に興味を示した。
小学校の社会科?で京都大学の花山天文台(京都市)について習っていたからだ。そこで最近はネオンや街灯が増えすぎて星が見えづらくなっていると先生が話していた。
「どうしてこんな田舎に天文台があるのですか?」と小学生ならではの質問をぶつけた。
「それは瀬戸内海の空気が澄んでいるからです」とcurator学芸員が答えた。
岡山は晴れの国である。
今日、父の命日の次の日に墓参りをした。どれだけ仕事が忙しくても盆と正月には毎年家族旅行をした。子煩悩だった父には感謝している。2024.12.21
全国で最初の民間天文台
倉敷天文台は大正時代、原澄治氏により創設されました。
当時は官立の天文台しかなく、一般の人は望遠鏡を覗くことができませんでした。
そこで京都大学教授の山本一清博士が設立した天文同好会の岡山支部長、水野千里氏により
晴天日数の多い岡山で天文台設置運動が興り、大正15年(1926年)、
イギリスより購入した32cm反射望遠鏡(鏡はカルバー研磨)の設置により誕生したのが倉敷天文台です。
現在でも地域の人々に天文一般知識普及活動を無料で行い、月に一回の天体観望会を実施しています