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山陽道をゆく chapter1-7 倉敷・直島(7)


大原美術館は一旦閉じられた。それでも中庭にはまだ十数人の客がいて記念撮影をしていた。


→chapter 1-6 倉敷・直島(6)



museum staffは直ちに追い出さない。彼らが撮った写真のいくつかがSNSで発信され、それがmuseumの宣伝にもなることを知っている。


工芸東洋館のある中庭
工芸館・東洋館の入り口
今回は入場せず
工芸・東洋館
工芸東洋館の中庭側から撮影
閉館時間お構いなしで紅葉を楽しむ観光客

さて、最後に残っていた客も撮り終えると出て行き、閉門となった。
ここからが貸切状態になる。それを待っていたかのように

「この前(本館入口🚪)でお撮りしましょうか?」とMさんが申し出てくれた。

この場所こそが大原美術館に来た記念になるspotである。せっかくだからと僕ら以外の3人はMさんにスマホを渡した。Kさんは若くない自分の姿を残したくないらしく、単独での記念撮影を好まないことを知っている。僕らはMさんの申し出を断った。

大原美術館 本館 
Greece Roma風の建物


その時、本日僕たちを案内してくれるcurator学芸員(以下Cさん)が出てきた。一見、女優さんかと思える気品に満ちたAURAオーラを感じた。黒を基調としたchicな出で立ちである。Cさんは記念撮影が終わってないことを見てすぐに案内を始めようとはせず、待った。代わりに

「3時閉館は少し早いような気がしますが、3時を過ぎるとお客さまが極端に減ってしまうのですよ」と僕に話しかけて来た。他の入館者から早過ぎると言われているのだろう。

「最近は働き方改革で早く閉門するところが増えています」と応答した。

数人来るか来ないかわからない時間帯に空けておく必要があるのか?である。いくら防犯cameraがあるとはいえ、美術館は各所それぞれに監視員を配置しておく必要がある。

大原美術館 本館 正面
前庭が狭く全体がうまく写せない


「本日みなさまをご案内させていただきます〇〇と申します」

「大原美術館evening tourへ、ようこそお越しくださいましてありがとうございます」

「すでに監視員は退出しております。これから入館して頂きますが、みなさま方と後ろに控えております〇〇(Dさん)とわたくしのみの入館となります」

後ろを振り向くといつの間にか 、もうひとりのcurator (Dさん)がいた。お互い軽く会釈した。ここでも男性は僕ひとり👤である。

「みなさまには身軽にご鑑賞頂きたく、受付で手荷物をお授かりしております。尚貴重品はご自身で保管くださいませ。尚、館内は撮影禁止となっております」と言われれば預けない手はない。皆一斉に手荷物🧳を預けた。さらに

「案内させていただきます道中にはお手洗いが一箇所ございます。もしご気分が悪くなられました場合、また何かご質問がありましたら遠慮なく〇〇(Dさん)にお申し付けくださいませ」

完璧な案内である。僕たちの前後に2人が着くという。今回Mさん含め6名と小人数であるのでまずは問題はないが、大人数の場合、監視の目が届かない場合がある。

前階段を上がりCさんは大きな扉を開けた。僕たちは外気と共に中に入った。そこは有名絵画が三面に広がり、別世界であった。

「通常、美術館では他の入館者に迷惑が掛からないよう私語はご遠慮いただいておりますが、
今回、貸切ということで自由におしゃべりや気軽に質問をしていただいてもかまいません」
とCさんはannounceした。その一言で解放された気分になった。

1点ずつ解説してくれるものと期待していたが・・・・、

「まずはご自由にご覧になってください」
とCさんは言い放った。

今日ここにいる客(tour参加者5名)は美術品に高い関心を持つ者ばかりである。勝手な想像だが、どの作品に関心を寄せるのかを見定めようとしたのではないかと思った。

僕は正面に展示されている[睡蓮]Claude Monetに関心を寄せ、絵画の近くまで進んだ。逆に言えばこれを見るために来たと入っても過言ではない。各自興味があるものが違うのは当然のことである。また、僕は興味のあるものは何でもgoogledググる癖があるが、あえて大原美術館をググっていない。事前知識(先入観)を持たず、新鮮な感性で作品と対面したいと常々思っている。

それから僕は入口付近の絵画に戻った。いつもならheadphoneを着け,首にはremoteリモコンをぶら下げて(voice guidance音声ガイド)順番に観て周るところだが、ここではreal explanation生解説が付くので不要である。

数分が経ち、Cさんは大原美術館の成り立ちについて説明し始めた。

「大原美術館は・・・・・・・・・・・・・・・」

長〜いセリフを全て暗記している。ここはROMAの劇場で大勢の観客に向かってひとり、語らい、僕はそれに惹き込まれ、随所に出てくる大原孫三郎と児島虎次郎のやり取りがさっと頭に映し出された。実に上手い語りである!! まさに女優であった。

「ところでみなさま、児島虎次郎が西洋より最初に持ち込んだ絵画はこの中のどれだと思いますか?」と質問をぶつけて来た。僕は咄嗟に

「それは【睡蓮】では?」と答えた。

By Pamphlet of OHARA MUSEUM OF ART


児島虎次郎との出会いがその後の運命を変えた❣️


大原美術館には教科書にも出てくるような名画が並ぶ。しかしそれだけではない。


chapter 1-8 倉敷・直島(8)→


大原孫三郎と児島虎次郎
大原美術館の成り立ちは、二人の人物の出会いと友情に端を発しています。二人の人物とは、大原孫三郎、そして児島虎次郎です。
大原孫三郎は、1880(明治13)年、倉敷に生まれます。大原家はこの地でも屈指の地主であり、孫三郎の父孝四郎は、1887(明治20)年にクラボウ“Kurabo Industries Ltd.”を立ち上げた実業家でした。
若き孫三郎は東京専門学校(現在の早稲田大学)に学びますが、学業よりも遊興に身を投じた生活を送っていたため、倉敷に連れ戻されました。 しかし、自らの行いを悔い改め、後に孝四郎のあとを継ぎ、実業のさらなる発展に尽くしました。
また、石井十次との交わりから、石井が経営する岡山孤児院の支援をはじめ、「広く社会に意義あることを」と、 企業経営者として得た利益を還元すべく、様々な社会事業にも取り組みました。
一方、児島虎次郎は、1881(明治14)年、現在の岡山県高梁市成羽に生まれました。1902(明治35)年、東京美術学校(Tokyo Fine Arts School)西洋画科へ入学することとなった虎次郎は、 大原家を訪ねます。孫三郎が孝四郎に進言し立ち上げた大原奨学会からの支援を得るためでした。孫三郎は、虎次郎の誠実な人柄に惚れ込み、奨学生となることを許します。 以来一歳違いの二人は、画家とパトロンという間柄を越え、生涯の親友としてともに歩むこととなります。
奨学金を得た虎次郎は、熱心に学びます。山本鼎[やまもとかなえ]、青木繁[あおきしげる]、熊谷守一[くまがいもりかず]ら多くの秀才が在籍する中、 虎次郎は二度の飛び級を経て、わずか二年で美術学校を卒業しました。更に研究科(現在の大学院)に学んでいた1907(明治40)年、東京府勧業博覧会の美術展に応募し、 《なさけの庭》が一等賞になり、宮内省(当時)買い上げという快挙を果たしました。
これを喜んだ孫三郎は、虎次郎にヨーロッパへの留学を勧めます。 1908(明治41)年、虎次郎は、フランスのパリへ渡り、その後ベルギーのゲントへ移り、同地の美術アカデミーに学びます。そこで、校長ジャン・デルヴァン[Jean・Delvin]やエミール・クラウス[Emile Claus]など、良き師に恵まれた虎次郎は首席で卒業後、帰国しました。
倉敷へ戻った虎次郎は、孫三郎らの勧めにより石井十次の長女・友と結婚。 現在の倉敷市酒津に新居とアトリエを構えます。風土や画材の違いに悩みながらも、ベルギーでの学びを活かし、酒津周辺の景観などをモチーフに、数々の優れた作品を描きました。

大原美術館 homepageより







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