王城をゆく chapter1 錦市場
「時代には勝てまへん」
120年続いた錦市場の豆腐屋の店主が閉店に至った理由をNHK京都放送局のinterviewにぽつんと答えた。この言葉がこころに刺さった。店主の高齢化・後継者不足と全国の商店街が抱える共通の問題を閉店の理由として口にしなかった。
2024年10月16日(水)京いちにちの番組で[錦市場豆腐屋最後の一日]をdocumentary仕立てで放映したのを偶然観た。
昔からの馴染みの客が閉店と聞いて次々訪れる。
『〇〇料亭ではこの豆腐を長年使ってきた』
『子供の頃からずっと食べてきた』
『もうここの油揚げが食べられへんのは残念や、寂しゅうなりますわ』
京の台所、錦市場。狭い通りは観光客(ざっと見て外国人90%)で埋め尽くされ、店舗はその客目当てに地元以外からも進出するようになり、Take out風に立飲み食いできる店が繁盛するようになった。すると地元民はしだいに敬遠するようになり、錦市場は観光市場化してしまった。錦市場の繁盛とは裏腹に昔ながらのこの豆腐屋の売り上げが半減したという。
変わり行く錦市場。このまま観光化が進めば地元民はさらに離れ、「かって京の台所と呼ばれた錦市場」と過去の産物であるかののように言われてしまう日が来るのではないだろうか。
京都市街ではさまざまな国の言葉が飛び交い、歩道を歩く人の半分は外国人観光客というこのご時世に・・・、そう、ご時世・・・。
京都市民の生活の場所と観光化、世界有数の国際観光都市京都が宿命的に抱える問題の中で本当の京の台所は守られるのか?。「時代には勝てまへん」の言葉はとても重いと思う。
その映像は地元民に愛され120年、惜しまれるもついについにshutterが下ろされたところで終わった。
閉店には苦渋の決断があったに違いない!!
報道の2日後、四条通りのクリニックの帰りに閉店したばかりの店に立ち寄った。ベニア板で囲い、前はシートで覆われていた。
そういえばずいぶん長い間、錦市場で食材を買っていないなあ。本物の京都のおばんざいが全部揃うのが錦市場である。外国人観光客の雑踏の中の錦市場の敷居がますます高くなり、錦市場の前は素通りするだけでデパ地下(大丸)で食材を買って帰ることが多い。
従来からある多くの錦市場の店は外国人観光客向けに柔軟にも商品構成や売り方を変え、力強く繁盛している光景を見た。閉店した店も何か手立てはあったはずだが、本当の閉店の理由はわからない。すでに次に入居する店も決まっているのだろう。
120年の歴史、『時代には勝てまへん』
錦天満神社は錦小路通の東のどんつき新京極通りに鎮座する。新京極通りは京都一の繁華街でこの界隈に1960年代までは映画館がたくさんあった。今はGourmet・Fashionや外国人観光客向土産物店が建ち並ぶ。
錦天満神社の鳥居の一部が店の中にめり込んでいる(突き出てている)。唯一無二と言って良い。鳥居を設置した時は周囲に平屋の建物しかなかった。鳥居は結界なので勝手に動かせへん。店を建て替える際に鳥居をそのままに2階を造った。けったいな(変わった)店や、京風の洒落てる店や、と賛否はあるものの、いかにも京都らしい妥協という産物から生まれた。
錦天満宮は菅原道真の生家『菅原院』が『天満宮』となり、六条河原院に移った後、豊臣秀吉の京都市街地大改造により現在の地に鎮座するようになった。
伊藤若冲は江戸時代、京都で活躍した天才絵師で世界的にもその評価は高い。若冲展(美術館)は人気が高く、その生涯はドラマになった。
伊藤若冲は錦市場、青物問屋『枡屋』の長男に生まれる。40歳で商売を弟に譲り、絵の製作に没頭する。
京都奉行所から錦市場の閉鎖を話が持ち上がった際、若冲は町の若年寄として京都奉行所と交渉をし、存続が認められたと伝わっている。
2024.10.25
by seiyuuudoku
追伸 postscript
今日25日は菅原道真の誕生日6月25日と命日2月25日である。天神さんの愛称で親しまれている北野天満宮では毎月25日(縁日)で多くの露天店が出店し多くの人で賑わう。