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山陽道をゆく chapter1-8 倉敷 直島(8)


→chapter 1-7 倉敷・直島(7)

「児島虎次郎が初めて西洋から持ち帰った絵画はこの中のどれだと思いますか?」

「それは【睡蓮】では?」

「残念ながら【睡蓮】ではありません」
ならばどれだ?

「実はアマン ジャンの【髪】です」

Cさんが指差したのは僕の知らない絵画だった。


「[睡蓮]は2回目の訪欧の時に確保しました」
とCさんは付け加えた。続けて

「この絵画の二人👭はどのような関係性だと思われますか?」とCさんが問いかけて来た。

「姉妹👭だと思います」 tour参加者の一人が答えた。

「いや、母娘でしょう。娘の髪を整えているところです」と別な人が言った。

「召使いが浴場上がりの令嬢の髪をcomb(thinning)すかし(梳く)ているところ」と僕は言い放った。三者三様である。

「いずれも正解です」とCさんは答えた。続けて

「観る人によってあるいは見方によって変わるのです」これが絵画の面白さでもあるという。

なるほど、真相は画家のみぞ知るということなのか


はじまり、美の饗宴
素晴らしき大原美術館コレクションよりp-92
京都市図書館所蔵


児島虎次郎は絵描きとしての功績も然ることながら、大原孫三郎の依頼を受け、その絵画の知識とconectionコネを活かして買付屋でも才能を発揮する。それでも巨匠のアトリエで一介の東洋人の男がよく譲り受けることが出来たと今更ながら関心する。

Cさんはこの頃、19世紀の西欧画壇ではjaponismeジャポニスム、とりわけ浮世絵が当時、西洋で高く評価されていたことが大きかったという。

空港貨物がまだなかった時代である。当時、蒸気船で5ヶ月は要したであろう。欧州は遠い。

画質に劣るモノクロ写真しかない時代、西洋絵画に生で触れることは日本の若き芸術家にとって多大なる影響をもたらしたに違いない。

大原は、自分と1歳違いの洋画家・児島虎次郎にことのほか目をかけ、パトロンとして生涯援助していた。児島は1908年から足掛け5年間、大原の援助でヨーロッパへ留学していた。彼はその後もさらに1919年5月–1921年1月と1922年5月–1923年3月の2回に亙って、大原の援助で渡欧している。その主たる目的は画業の研鑚であったが、児島は、ヨーロッパへ行く機会のない、多くの日本の画家たちのために、西洋名画の実物を日本へもたらすことの必要性を大原に説いた。大原は児島の考えに賛同し、何を購入するかについては児島に一任した。こうして児島はヨーロッパで多くの西洋絵画を購入したのである。[6]。
大原(児島)コレクションの最初の作品となったのは、児島と同世代のフランスの画家エドモン=フランソワ・アマン=ジャン(1860年 - 1936年)の『髪』という作品であった。これは児島が1度目の滞欧中の1912年、アマン=ジャン本人から購入した。翌1913年に東京上野の竹之台陳列館で開催された光風会展覧会に出品された。当時、日本国内では西洋絵画の実物に接する機会はほとんどなく、この作品の公開は反響を呼んだ[6][7]。美術館所蔵品の中核をなす作品の多くは、1920年から1923年の間に児島虎次郎によって、フランスの首都パリにおいて主に収集された[8]。モネ『睡蓮』は晩年のモネ本人から児島が直接購入したものであり[9]、マティス『画家の娘―マティス嬢の肖像』もマティス本人が気に入って長らく手元に置いていた作品を無理に譲ってもらったものだという[10]。大原美術館の代名詞のようになっているエル・グレコ『受胎告知』は、1922年、3回目の渡欧中だった児島が、パリの画廊で売りに出ているものを偶然見出した[11]。児島は「こんな機会は二度とない」と思ったが、非常に高価で手持ちの金もなかったため、この時ばかりは大原に写真を送り購入を相談した。現在ではこの名画が日本にあることは奇蹟だといわれている。その他、トゥールーズ=ロートレック『マルトX夫人の肖像―ボルドー』、ゴーギャン『かぐわしき大地』などの名品は児島の収集品である[12]。これらの西洋美術の他に、エジプト美術、ペルシャ陶器、中国美術なども児島は収集した。これらの収集品は、美術館開館以前にも何度か公開され、評判を得ていた[6]。
1929年、児島が他界し、これを大いに悲しんだ大原は、児島の功績を記念する意味をもって、その翌年に大原美術館を開館した。 大原美術館には、児島虎次郎以外のルートから入手した作品もある。ルノワール『泉による女』は、大原孫三郎が援助していた画家の一人である満谷国四郎が入手した作品で[13]、ピカソ『鳥籠』、ドラン『イタリアの女』、スーティン『鴨』などは画商・福島繁太郎(1895年–1960年)のコレクションに入っていたものを第二次世界大戦後、大原美術館が入手した[14]。大原孫三郎の嗣子・大原總一郎(1909年–1968年)も文化人として知られ、フォーヴィスム以降の現代絵画、近代日本洋画、民藝美術など、新たな収集品を付け加えた。

Wikipedia 大原美術館、collectionの形成より


大原美術館 展示品LIST  2024.11〜2025.3

https://www.ohara.or.jp/pdf/List_of_Works_jp.pdf

Cさんは本館1Fの3面に飾られた教科書📕にも出てくるような有名の絵画を順次説明して行った。

エルグレコ 受胎告知
モネ    睡蓮
ゴーギャン 芳しき大地
児島虎次郎 和服を着たベルギーの少女
ピカソ・マティス モディアーニなど

クロード モネ [睡蓮]
 はじまり、美の饗宴よりp-93


そして本館の外へ出るとatriumアトリウムと呼ばれるガラスの屋根がある中庭に出た。

Cさんはこの本館を設計した薬師寺主計(かずえ)についても話し始めた。

画像は[倉敷とことこ]より
女性が見上げる鉄骨は1930年本館建築当初の物

「みなさま、この裸の鉄骨にご注目ください」とCさんは告げた。出入口の真ん中にある柱である。

1991年増築工事の際、柱を解体しようとしたところ鉄骨が出て来た。詳しく調査したところ当時最新技術が使われていたことが判明した。当時を偲ぶ貴重な構築物として保存に至る。

大原美術館 本館の建築設計は岡山県総社市出身の建築家「薬師寺主計(やくしじ かずえ)」が行いました。

有隣荘、第一合同銀行倉敷支店(中国銀行倉敷本町出張所、現在の「新児島館(仮称)」)も、薬師寺主計の設計です。

1909年東京帝国大学工科大学建築科を卒業後、陸軍省の技師として活躍し、後に天皇から任じられた技師となっていましたが、大原孫三郎の要請に従う形で依願退職し、倉敷絹織(現在の株式会社クラレ)の取締役に就任します。

取締役になっていることから、薬師寺主計が建築の知識だけでなく、経理・施設管理など総合的な経営感覚を有し、今でいうマネージメント力も認められていたことがうかがえるでしょう。

その能力は、実は大原美術館 本館の建設にも活かされています。

工期はわずか「6か月」程度。

今では考えられないような短期間で竣工しており、設計・見積・工程管理・予算管理などの実行力と能力の高さを感じさせます。
(中略)

実は、大原美術館 本館は「鉄骨の入った鉄筋コンクリート造(SRC造)」でした。現代においては高層のビルなどではよく計画されますが、1930年当時としては最新鋭の建築方式です。

薬師寺主計は陸軍省時代に関東大震災を経験し、陸軍施設の復興に尽力したことから知識と経験を有しており、美術品を保管する場所としてより強固な建築方式を採用したと思われます。

また石のように見える壁は、モルタル(セメントに砂を混ぜたもの)で叩き仕上げになっています。

石が使われているのは、正面の階段がある基壇(きだん)部分のみで、ここには金光産(現在の浅口市金光町)の花崗岩(かこうがん)が使われているそうです。

倉敷とことこ 建築家として大原美術館本館より


atrium
[倉敷とことこ]からimege 画像
側面に塞がれたような壁がある

さらに本館の外壁の窓に向かって

「ここにはもともと何がはまっていたと思いますか?」とCさんが問題を出した。

「それはStained glassステンドグラスですか?」と僕は間髪を入れず答えた。

南側の面しており、明かり取り窓だろうと推測した。

Cさんは窓であると言ったがstained glassとは言わなかった。どのような窓なのかが問題ではなく、窓を割って泥棒が侵入したことを強調した。

1970年に本館に展示されていたルオー『道化師』、ゴッホ『アルビーユへの道』(贋作の疑いがあり現在は公開されていない[18])、モロー『雅歌』、ギヨマン『自画像』、ヴュイヤール『薯をむくヴュイヤール夫人』の絵画5点が盗難される事件が発生。被害総額は1億8000万円とされ、倉敷警察署に捜査本部が置かれたほか、警察庁は海外流出の恐れがあるとして国際刑事警察機構を通じて手配を行った[19]。
この犯人グループは1972年に逮捕され、無事美術館に戻された[要出典]が、事件発生後は、本館一階側面にある窓全ては塞がれ、警備体制が強化されている。

Wikipedia 大原美術館、盗難より


それからAtriumアトリウムには外階段があり、僕たちはCさんに案内されて2階への階段をゆっくりと上がった。

目に飛び込んで来たのは、grand pianoであった。時々演奏会が催されるという。

chapter 1-9 倉敷 直島→

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