
食べることが好きな人がひとりいると…
「食べることが好きな人、料理が好きな人」
最近読んだ本に、
「食べることが好きな人、料理が好きな人がひとりいると集団はうまくいくとよくいう」という文章があった。
「ああ、たしかに」と思う。
居心地がいいと感じるコミニュティについて思い返してみると、いく人かの顔が浮かぶ。
義理の母(妻のお母さん)もまさにそんな人だ。よく食べ、よく笑う人。
わたしは婿養子で普段妻の家族と生活をしているのだが、お義母さんの偉大さを実感する日々である。お義母さんがいなければ家族は回っていかないんじゃないかと思う。
家族みんなが頼りにしていて、家族みんなが大好きな存在なのだ。
そんなお義母さんに冒頭の文章を紹介してみた。
まさにお義母さんのことを言ってるみたいですよね。
えー、でも、わたしみたいな人ばっかりだと食べ物のとりあいで争いが起きるんじゃない?
考えたこと
食べることが好きな人がいると集団がうまくいくというのはなぜなんだろうか。
料理研究家の福田里香さんは著書『ゴロツキはいつも食卓を襲う』でフィクションにおける、食べ物や食事という行為が持つ役割を分析している。
そのなかで、フード三原則なるものが紹介されている。曰く、
「善人はフードを美味しそうに食べる」
「悪人はフードを粗末に扱う」
「正体不明者はフードを食べない」
これをそのまま現実に当てはめるのは安直かもしれないけれど、誰かがご飯を美味しそうに食べる姿は、それだけでなんだかまわりの人を嬉しくさせたり、安心させたりするということはあると思う。
わたし自身、誰かが美味しそうにご飯を食べてる姿を見るのはとても好きだ。
もうひとつ。
『ゴロツキはいつも食卓を襲う』でも触れられていたが、「同じ釜の飯を食う」という言葉があるように、食事をともにすることは親密さを醸成する行為である。
食べることが好きな人がいることで、その集団が一緒に食事をする機会が増えるということもあるかと思う。
話は逸れるが、反対に、同じものが食べられないということは関係性を構築するにあたって大きな障害となりうる。
文学紹介者の頭木弘樹さんが著書の『食べることと出すこと』で描いているのはまさにそんな状況だ。
頭木さんは潰瘍性大腸炎という難病を患っており、食べられるものや食べられる量が限られる。誰かと食事をする場面でも同じものを食べられなかったり、すすめられたものを断ったりしないといけないことが多い。
特に後者が厄介で、すすめる方もあくまで善意で言っているので、それを断るのはとても心苦しく、そして場の雰囲気も非常に悪くなる。文章からは著者の苦悩がひしひしと伝わってくる。
気前の良さについて
ここまで、主に「食べることが好きな人」について書いてきたけど、食べることが好きな人には料理が好きな人が多いような気がする。
というより、なにかを分けあたえることが好きな人といったほうがいいかもしれない。
義母もよく会社でもらってきたお菓子などを気前よく分けてくれる。そこには、自分だけで食べよう、独占しようなんていう気持ちは毛頭ないように思える。(しかし、こちらが人から何かをもらったときには、同じようにお義母さんに分けないと怒られる)
その人がもつ「気前のよさ」みたいなものも、きっと集団がうまくいく要因になっているんじゃないだろうか。
その人のまわりではきっと、食べ物の取り合いは起こらず、分け与えるという行為が自然発生的に生じるのだと思う。
お義母さんからもらったお菓子をかじりながら、そんなことを考えている。ぽりぽり。
今回紹介した本。
めちゃくちゃ面白いです。物語と食を愛するすべての人へ。
切実な闘病の記録なのに、どこかユーモラス。名シリーズ「ケアをひらく」から。