「なぜ自分がこんな目に」に正面から答えられるか
2024年の元旦。能登半島地震が起こった。
日本における元旦というのは、多くの意味がある。親戚が集まる日でもあり、気持ちを新たに一年の始まりを迎える日でもあり、そして受験生にとっては数ヶ月後の受験に向けて気持ちを引き締め直すタイミングでもある。
私も受験生だった頃は、それなりにピリピリしていた。と言っても、もしかしたらピリピリしていた部類には入っていなかったかもしれない。受験に落ちる心配をしていなかったから。結果的には落ちたので、それはただの油断でしかなかったわけだが。ちなみにそのことについては記事を書いている。
さて、今回はその記事の紹介がメインではない。能登半島地震で被災した受験生には、安心して(?)受験勉強に専念できるよう、親元から離れて金沢に二次避難する学生さんたちがいるらしい。
そこで思った。もし我が家が被災したとして、子供が受験のため親から離れて二次避難したとして、私は子供になんと言葉をかけられるだろうか。
あるいは、こう言い換えた方がいいだろうか。そんな境遇の我が子に「なんで俺たちだけがこんな目に遭わなければいけないの?」と問われて、なんと答えられるだろうか、と。
一度、自分たちがそういう境遇に遭ったとして、自分の子供にそう問われたとして、自分ならどう答えるか考えてみてほしい。
よくある答えとしては、例えば「この経験はいつかあなたの力になる」「乗り越えられる者にしか困難は降りかからない」などの答えがあるだろう。
だが考えてほしい。自分が思春期真っ只中の、それも受験期でピリついている中高生だった時に、地震で家もろとも壊され、街全体が津波で流され火災で燃やされ、なんなら家族すら失って、心身ともに不安定になり、その状態で受験する身になって考えてほしい。これらの言葉が響くだろうか。
僕なら、きっとそんな上っ面の言葉は響かないと思う。地震なぞなくて平穏に受験を迎えられた人の方が有利だ。単語一つ覚えるのに必死になっていた努力は、地震で全て無駄になった。
無駄になってなどいない、という大人もいるが、自分は単語一つ覚えるのに必死になっていたのだ。地震がなければ単語を1つや2つ多く覚えられたことは間違いない。被災し、避難し、これまで使っていた単語帳やノートを流され、焼失し、無くした受験生より、受験日まで自宅で平穏に勉強できた受験生の方が有利であることは間違いない。
努力でその差は埋められない。少なくとも、地震はなくせないのだから、言葉尻の表現で誤魔化さずに、「地震に遭わなかった人に比べて、被災した自分は損だ」という感覚に反論出来るだろうか。
ぼくはできない。それは正常な感覚だと思うし、反論のしようがない正論だとも思うし。
大人なら、社会とはそういうものだ、と諦めがつく場合もあるだろう。「この理不尽に耐えた経験が糧となることもある」と長期的な目で見ることもできるかもしれない。
しかし、相手は中高生だ。こういう疑問にどう答えたらいいだろうか。
このnoteでは自分なりの解は出せなかった。また後日、考えてみて、自分なりにどう答えるべきか見えてきたら、また書こうと思う。
もし「こう答えたらどうだろう」のようなアイディアや考え方をお持ちの方は、ぜひコメント欄にて教えていただければ幸いである。これは正解のない類の問題である。悩み続けることこそが最善手なのかもしれない。
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