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日本の男尊女卑についての考察㊸(天皇家についての考察④第十一代③)

こんばんは、いつもお世話に
なっております。

今回もさっそく参りましょう。

前回までは
第十一代:垂仁天皇すいにんてんのう
まつわる物語を
①と②で話しました。

今回はそれぞれの話の考察を
して参りたいと思います。

まず①で登場しました。
沙穂比売サホヒメですが
かなり心身的にも
追い詰められて苦渋の選択を
迫られていましたね。

問題はサホヒメの兄:佐穂毘古サホビコ
存在に尽きると思います。

この兄妹が冠している佐穂さほとは
単純に地名を表している
と思います。

現在の奈良市にある佐保と
言う場所が兄妹が支配していた
地域であると言われています。

おそらくは、この兄妹
実在していたかどうか
とても怪しい。

古事記や日本書紀の特性として
もっと時代が下った時に
起こったエピソードを
垂仁天皇がいた時代に
合わせた登場人物で
描いているのではないか?
と言う説がとても有力で

第二十一代:雄略天皇ゆうりゃくてんのう
頃に実際に起こったクーデターを
(のちに詳しく
お話ししたいと思います。)
モデルに創作したと思われる
類似点がかなり多いと
言われています。

いわゆる二次創作に
近い物語を雄略天皇以前の
はるか、いにしえの大王に
起こった事として
古事記・日本書紀に
掲載されていると
言えますね。

愛する夫であり天皇と
同じく、愛する兄との
確執で板挟みになったヒメ

結局ヒメは兄と共に
自害をして果ててしまいますが

その燃え盛る宮の中で
産み落としたと言われる
本牟智和気ホムチワケですが
ここも、古事記 上つ巻に
似たようなエピソードが
ありました。

天孫ニニギに疑いを抱かれた
コノハナノサクヤヒメは
産屋に篭り中から火を放ち
燃え盛る産屋から三人の男子を
見事産んだ。 と言う
無茶苦茶な話が元になっていると
思われます。

あくまでもニニギとサクヤヒメは
人ではなく神ですから
ある意味
何でもありなんですけども
いっときに三人の子を産んだとか
三つ子だったのか とか
そういう部分の描写は一切
古事記には含まれません。

いわば伝承でしかないので
そうして産んだ子らに
長男次男三男がちゃんと設定
されています。
長男は火が燃え盛る頃に
生まれたのでホデリ(海幸彦)
次男は火が安定してきた頃に
生まれたのでホスセリ
三男は火が消えかかる頃に
生まれたのでホヲリ(山幸彦)

これらのエピソードを
サホヒメに当てはめている
と言う説が強いです。

そうして生まれた子は
成人になる歳になっても
言葉を発することはなかった。
と記されていました。

ちなみに、垂仁天皇には
ホムチワケの他にも
後の景行天皇となる
大帯日子淤斯呂和氣オオタラシヒコノオシロワケ
筆頭に13人の皇子と
3人の皇女を儲けています。

このホムチワケが言葉を
発せないのはオオクニヌシの
祟りであると言う物語に
なっていますが

この話も崇神天皇の頃に
似たようなエピソードが
出てきましたね。

オオモノヌシの宮殿を
たてろと夢のお告げが
あった。 そのようにすると
疫病が消え去った。

今回はオオモノヌシの本体
オオクニヌシが現れてますね。

おそらくは、古事記や
日本書紀を編纂した当時には
大神神社(奈良県桜井市)や
出雲大社(島根県出雲市)といった
かつての敗戦者も
この頃になると絶大な
権力を保持していたのでは
ないでしょうか?

下手に扱えばいつ暴発しても
おかしくない休火山のような
存在で、それは日本書紀にも
そう取れるエピソードが
垂仁天皇の時代にあったと
記されていることからも
推察できます。

垂仁天皇の時代としては
出雲国の扱いは非常に難しく
中央(この場合ヤマト朝廷)での
活躍は決して望めないと
言われていた時代です。

その出雲出身の力自慢の
野見宿禰のみのすくね
対して、大和出身の力自慢
当麻蹴速たいまのけはや
垂仁天皇の命で対決をします。

壮絶を極める戦いは幾日幾晩と
続き、野見宿禰が勝利を収めた
と言うお話しなんですが
これを相撲の発祥と
して伝わっています。
実際には蹴る殴る投げるの
応酬ですから柔道やその他の
格闘技のルーツという説もあります。

さらに申せば、神話の時代に
遡れば
タケミカヅチとタケミナカタの
取っ組み合いも同じような
格闘技のルーツと出来なくもない
でしょうね。

話を戻しますと、この出雲出身の
勝者である野見宿禰は当麻蹴速の
領地を全て相続し、名を土師はじ
改めました。 この土師氏の功績が
埴輪の発明であると日本書紀には
記されています。

ということは、土師氏の専売特許
のようなものとしてすでに
流通していたと推測でき、
殉死を廃した功労者でもあるのが
この土師氏のルーツ野見宿禰であると
言えますね。

土師氏の力は
とても絶大で、一説には箸墓古墳
は、土師氏の古墳であるという
説が有力で、最強の墓守と
でもいうような
様相を併せ持っています。

最強であっても出雲出身ですから
要職には就かせられないという事情も
あり、歴代の天皇の
陵墓を護衛かつ運営するという
役職を新たに創設して
就かせたと考える
のがより自然ではないでしょうか?

ちなみに、この土師氏の子孫として
秋篠あきしのと名を変えたり、
菅原すがわらと名を変えたり
する子孫が現れます。 
おそらく土師という名を
背負っていては出世が望めないと
いう思いから名を新たかにしたと
言えます。

平安時代の稀代の天才
そして不遇の大臣にして
天満宮の主祭神
そして日本最大の
祟り神としても有名な
菅原道真すがわらのみちざね
ルーツは土師氏で 出雲とも
とてもゆかりの深い人物です。

ここにまとめると
垂仁天皇の功績として
・出雲大社を造営
・相撲の発祥の立役者
・埴輪を推奨し量産
・殉死廃止

このほかにも
垂仁天皇は晩年
不老不死に拘ったために
常世国にあるとされる
トキジクノカクの木に
実る果実を求め、
タジマモリに命じ
採りに向かわせました。

ようやく苦労し手に入れ
天皇の元に
戻ったタジマモリの前には
すでに崩御された天皇が
横たわっていたという
エピソードですが

このエピソード
秦国の始皇帝の
晩年ととても似ていると
思いませんか?

始皇帝は焚書坑儒で
儒教を遠ざけ、必要のないと
判断した書物は燃やしたという
豪傑なのですが

晩年はやはり不老不死に拘り
徐福に命じて不老不死の
方法を探らせていました。

その徐福も多くの伝説が残る
人物で日本にも来日していた
という伝承も残っています。

これらの話の根幹は
神仙信仰が元になっている。
と思われる描写であるという点です。

始皇帝が徐福に命じたのは
蓬莱ほうらいと言われる桃源郷とうげんきょう
住む仙人を連れてくるか
仙薬を譲って貰ってきてくれ
ということ。

タジマモリが
垂仁天皇に命じられたのは
常世国にあるとされる
トキジクノカクという木の実を
採ってきて欲しいということ
(一説には柑橘系で
ヤマトタチバナ説が有力)

つまり、古事記や日本書紀
編纂時期にも隋や唐の
文化の中にある
神仙思想がとても大きい影響を
与えているとしか思えない
と思っています。
邪推でしょうか?

史実に近くなると
どうしてもこういう部分で
弊害が出てくるということの
現れでもあるのですが

半ば強引にでも
古事記や日本書紀を
編纂し終えなければならない
理由があったということは
ほぼ間違いないと思います。

垂仁天皇のお話は
以上となります。

次回は、とても有名な子を持つ
天皇が登場するでしょう。
天皇家についての考察⑤
でお会いしましょう。

ここまで読んでいただける
ことをとても感謝しております。

では次回をお楽しみに!

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