氷川きよし『ありのままの自分を取り戻しKiinaとして歌い続ける』(前編)人生を変えるJ-POP[第17回]
たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。
今年最後に取り上げるアーティストは、年内で無期限の活動休止を宣言した氷川きよしさんです。
氷川さんの演歌歌手としての歩みから、この数年の変貌までを音楽的観点や彼の発言などから紐解き、活動休止後の期待値までを書いていきたいと思います。なお、氷川さんは最近、ご自分のことを「氷川きよしではなくkiinaだと思っている」と発言されていますが、記事では今までのご活躍から便宜上、彼という3人称の呼称を使わせて頂きます。
演歌歌手「氷川きよし」が誕生するまで
氷川きよしは、1977年生まれの45歳です。福岡市の出身で高校を卒業後、本格的に歌手を目指して上京し、2000年2月、22歳のときに『箱根八里の半次郎』で演歌歌手としてデビューしました。
この曲は新人歌手としては異例の170万枚を売り上げ、同年、紅白歌合戦に初出場しています。(その後、今年度出場まで連続23回出場)
2002年に発売した3枚目のシングル『きよしのズンドコ節』の大ヒットを経て、広く多くの人に演歌歌手の若き担い手として知られるようになりました。
2006年3月に発売された『一剣』で第48回日本レコード大賞を受賞。この受賞の他に『きよしのソーラン節』などで9回の有線大賞や、ゴールドディスク大賞(ベスト・演歌/歌謡曲・アーティスト)を多数受賞し、「演歌界のプリンス」と呼ばれる存在になりました。
彼が演歌に出会ったのは、高校生のときです。それまでの彼は、多くの同年代の若者と同じように、ポップスやロックを好んで聴き、自分でも歌う少年でした。
ですが、高校生になり、芸能クラブに入部。顧問の先生がおじいちゃん先生で「演歌を歌ってくれんかね?」と言われたことがきっかけになり、演歌を歌うようになったと言います。(https://news.line.me/detail/oa-shujoprime/e91858f762ea)
その後、彼は本格的に歌手を目指し、高校3年生の時にNHKの『BS歌謡塾 あなたが一番』にて準優勝。審査員だった作曲家の水森英夫氏から名刺を渡され、歌手になることを決意、上京しました。
アルバイトなどをしながら、演歌歌手としての修行を水森氏のもとで積み、4年後の22歳のときにデビューを果たしました。
このようにデビューまで4年という歳月を費やした彼の道のりは決して順風満帆とはいかなかったのです。それは、当時、演歌というジャンルには若手男性歌手がおらず、「若手男性演歌歌手は売れない」というジンクスが業界内にあったからと言われています。
当時、彼を引き受けた長良プロダクションの会長長良じゅん氏は、彼がデビューするまでの1年間、地方のCDショップなどで彼のキャンペーンを行い、名前と顔を覚えてもらい、デビューと同時に一挙に売り出す、という戦略を立てました。
その甲斐あって、彼はデビュー曲『箱根八里の半次郎』で大ヒットを飛ばすことになったのです。また、当時、珍しかった若手男性演歌歌手としての彼の成功が、その後に続く多くの若手男性演歌歌手を生むことになりました。
このように「氷川きよし」といえば、誰もが知っている「演歌界の貴公子(プリンス)」と呼ばれ、演歌界を牽引する存在になっていったのです。
演歌の定義をくつがえし、独特の世界を築く
しかし、彼には、もう一つの側面がありました。
それがポップス曲を歌うということです。元々、彼はロックやポップスを好んで歌っていました。
演歌歌手としてデビューするにあたり、演歌界のさまざまなしきたりに自分が適応するのか不安だったと言います。そんなとき、長良会長の「自分らしくやったら良いんだよ」のことばに勇気を得て、彼は演歌歌手として纏わない自分を出していきます。
デビュー当初は、茶髪に洋装のスーツを着たり、リボンタイを結んだり、ピアスなどの装飾品もつけるようになりました。このスタイルは、「短髪黒髪に和装姿」という演歌歌手の定義を覆し、新しい演歌歌手のイメージを作り上げたと感じます。
楽曲の傾向も、いわゆる「ど演歌」だけではなく、『ときめきのルンバ』『虹色のバイヨン』『情熱のマリアッチ』など、軽快な楽曲に振りをつけて歌う「ポップス演歌」と呼ばれるジャンルを確立していったと感じます。この「ポップス演歌」は彼の一つの持ち味となって独特の世界を築いていったのです。
このように、彼は、『白雲の城』や『一剣』のような王道の演歌曲から軽いタッチの演歌まで、幅広い音楽性を持つ演歌を歌いこなす歌手となっていったのです。そのため、コンサートなどでも演歌だけでなくポップス曲をカバーして歌うことは珍しいことではなかったようです。
2017年7月には配信限定でGReeeeNから提供された『碧し』という楽曲をリリース。この楽曲は、NHKラジオ『深夜便の歌』として、NHK制作スタッフの「氷川きよしで音楽ジャンルの枠を超え、幅広いリスナーが共感できるような楽曲を制作したい」という提案からGReeeeNに楽曲を依頼し、作詞・作曲・編曲までの全てをGReeeeNが担当しました。
当時、演歌しか歌ってこなかった彼が、ポップス曲というのを知って、「僕で大丈夫なのかなと思った」と話しています。(http://greeeen.co.jp/news/7009.html)
「2月2日〜」で始まる冒頭の歌詞が、ちょうど彼のデビュー日と重なり、この楽曲との出会いが、彼を新しい出会いと始まりに導いて行くという意味合いで作ったとGReeeeNが話しています。
この言葉通り、彼は翌年には、アニメ『ドラゴンボール超』の主題歌である『限界突破✖️サバイバー』との出会いによって、大きく新境地を開いていくことになるのです。
「サバイバー」で、自身が突破したものは…
2018年は氷川きよしという歌手にとって大きな転換点になった年と言えるでしょう。
アニメ『ドラゴンボール超』新章“宇宙サバイバル編”の新主題歌として選出された『限界突破✖️サバイバー』は、人々が持つ「氷川きよし」という歌手のイメージを大きく変えました。
この楽曲の正式なMVは作られておらず、アニメが放送され始めた時には音声だけ。その後、2018年の12月に開催された「氷川きよしスペシャルコンサート2018〜きよしこの夜Vol.18〜」で歌った映像が日本コロムビアの公式YouTubeに公開されたのでした。
この映像がアニメファンの大きな関心と反響を呼び、公開後10日で再生回数100万回を突破。Twitterのトレンドワードで日本1位、世界4位を記録したのです。
茶髪にメイク、スパンコールが全体にあしらわれたボディスーツで歌い踊る彼の姿は、まさしくビジュアル系ロック歌手そのものでした。この楽曲との出会いが、まさに氷川きよしの限界を突破したものだったと言えるでしょう。
その後、2019年デビュー20周年のツアーを開催。9月の誕生日に開催されたライブにて、彼は「今日から演歌歌手のカテゴリーを外します」と宣言。
さらに11月には、Instagramにて初投稿を始め、日頃、ステージでは見せないようなオフショットを多数掲載し、中性的な雰囲気の画像など、それまでの演歌歌手のイメージからは大きくかけ離れた姿を見せるようになりました。
また同年12月には自身のコンサートにおいて、Queenの『ボヘミアン・ラプソディ』を湯川れい子氏の日本語歌詞によって歌い、翌2020年2月にNHKの歌番組で初オンエアしました。
この2020年という年は、3月になかにし礼氏の作詞による『母』を、6月には自身初のポップスアルバム『パピヨン-ボヘミアン・ラプソディ-』をリリース。
「演歌を20年歌ってきて、色々な経験をさせていただけて、そこからまた次のステップに行くため、自分の中でのスタートを切るアルバムになりました」(https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000911.000019470.html)と話し、自身の作詞による楽曲など、新しい彼の音楽の世界を提示する作品になったと言えるでしょう。
このように彼は、演歌というカテゴリーを自ら外し、ポップス曲やロック曲などに果敢に挑戦し始めました。それまで演歌歌手が多く出演しなかった年末の大型音楽番組などでも、『サバイバー』の楽曲と共に、ポップス曲のカバーを積極的に歌うようになったのです。
2020年の紅白歌合戦では、大型の舞台装置と共に、彼のビジュアルロックの世界が披露され、大きな反響を呼びました。
これらの彼の変化は、多くの人に驚きを与え、称賛される反面、かつてのイメージに固執する人達からの反発を生む結果にもなっていることは否定できません。
走り続けてきた22年間。そして、活動休止
演歌というジャンルから誕生した氷川きよしという歌手は、長年、多くの演歌ファン期待の星であったと感じます。
彼の出現は、1990年代から衰退し始めた演歌の世界に新風を巻き起こし、演歌というものをもう一度見直す機会を多くのリスナーに与えました。爽やかでビジュアル的にもルックスもよく、物腰も柔らかい彼の姿は、演歌歌手の新しいイメージを作り上げていったのです。
多くの演歌ファンや高齢者にとって、氷川きよしという存在はなくてはならないものだったと思います。若い世代の彼が演歌を歌うことで、多くの人達に元気を与えてきました。
J-POPという新しいジャンルの音楽が盛んな中で演歌を歌い、次々と新曲をリリースしていく姿は、多くの人に演歌の良さを再認識させ、彼に続く若い世代の演歌歌手を生む結果となっています。
彼のコンサート会場には、杖をついた高齢者の手を引っ張って、10代、20代の若い世代の姿もチラホラ見受けられます。多くが祖父母に付き添って参加しているように感じられますが、そういう世代が演歌に親しむことで、演歌の良さが伝わり、また次の世代へと演歌を橋渡ししていく、というような情景があったかもしれません。
このように、世代を超えて、同じ歌手、同じ音楽のジャンルを楽しめる存在になっているのが、氷川きよしが演歌歌手として存在してきた理由だったと言えるでしょう。
ですが、2022年1月、彼は、「年内いっぱいで歌手としての活動を無期限で休止する」ということを発表しました。その理由として、22年間、休みなく走り続けてきたことの疲労の蓄積や、精神的なリフレッシュをあげています。
彼がよく口にする「ありのままの自分」というキーワードと共にこの数年の変化によって歌手としての方向性そのものが変化してきたことで、もう一度、自分を見つめ直す時間を持ちたい、という気持ちが表れたのかもしれません。
後編では、彼の演歌を歌うときの歌声とそれ以外のロックやポップスを歌うときの歌声の違いや、演歌以外のジャンルを歌うようになって彼の表現力がどのように変わってきたか、など、歌声の魅力に迫りたいと思います。