みんな眠っているからね 第2回|カフェインが弱いくせに|小原晩
カフェインが弱いくせに
カフェインに弱いくせに、下北沢で夜ご飯を食べたあと、珈琲でものみたいな、と私がぽろっと言うと「わかる」と君は笑って返して、家までの乗り換え駅である新宿の喫茶店へ寄って、ケーキとアイスコーヒーを頼んで、だらだらしゃべって、アイスコーヒーのおかわりまでして、会計は5200円を超えるし、眠れなくなってしまうしで、君の馬鹿正直な体は一睡もせずに翌日の仕事へ出掛けたらしい。私もブレンドを二杯飲んだけれど、昼過ぎまでぐっすり眠ったというのにおかしなことである。
君はもっと遅くに帰ってくる予定だったのに、二十時には帰ってきて、少しおしゃべりをして、インターネットで動画を見て、シャワーを浴びて、上半身を裸のままで、ガリガリと噛み砕くタイプのアイスを食べながら「もう一生眠れないような気がするわ」なんていうから、そんなあなたに、と村上春樹の短編『眠り』をさしだす。ベッドで横になりながら「これ、なに、ミステリー? ファンタジー? 村上春樹ってはじめてやねんけど」と言っている君にえらそうにうなずいてみせる私だって村上春樹作品を読み漁って生きてきたわけじゃない。私もシャワーを浴びて、部屋へ戻ると「なんかお話のなかでお話がはじまって、これ、ずっとこれがつづくん?」「読みたい気持ちはあんねんけど、村上春樹の思い通りになってるようで悔しいねんけど、俺、ねむ、ねむなってきた。もう今日はあかんわ」そう言って、枕元に文庫をぽすと置いて、背中を向けて、二分もたてば立派な寝息が聞こえてきた。
君の隣に滑り込み、おこぼれのように眠ってみようとするけれど、私はまだまだ眠くない。漫画を読んでいる間に眠くなるかと思ったのだけれど、交感神経を刺激される類の漫画だったので、より眠れなくなり、ベッドからでて、散歩へ行くことにした。すっかり、午前二時である。読みかけの文庫を一冊ポケットに入れて、静かに部屋を出る。夜が明るい。東京の夜だ。コンビニってこんなにぽつんと煌々としているものだっけ。思いながら、ファミリーマートに入って、発泡酒を買い、ぷし、とすぐにあける。
複雑な交差点で夜勤の警官が自転車の横でぼんやり道路を眺めている。その仕事ってけっこう楽しいですか、どうですか。話しかけてみたいような気もするけれど、そういう勇気はないので、飲みながら素通りする。近くの大きな公園のほうに向かって歩こうかと思ったのだけれど、途中、寂れたバス停の寂れたパイプ椅子と目があって、やめようと思った。どうしてやめようと思ったのかはわからない。もう十月だというのに残暑が過ぎるからかもしれない。私はきた道を引き返し、左に曲がって、商店街をしばらく進むこととした。シャッターの下りたパン屋、本屋、文房具屋。まだ灯りのついているちいさな居酒屋から出てきた絡み合う恋人たち。風が思ったよりも涼しくないこと、握っている発泡酒がすぐにおいしくない温度になってしまったことが原因で、急にうんざりしてくる。
私はどうしてお酒なんて飲むのだろう。心を柔らかくしたいだけなのだけれど、ときどき、むきになってしまう。商店街の、奥へ奥へ進む。灯りをつけたまま準備中の札を下げているちいさな肉屋を覗くと、ガラスケースの中で等間隔にひき肉が並んでいる。どういうつもりだろう。帰ることにしよう。引き返し、星のない明るい夜を歩く。好きでもなんでもなかったこと、バレていたんだろうな。と何年も前の他人のことを急に思い出す。灯りの消えたオリジン弁当の横を通り過ぎる。あの衛生的な帽子を被ったまま、惣菜をせっせと動かしているおばさんを見る。私たちの人生はいま、すれ違いましたね。そういうことを思うのは、やっぱりお酒を飲んでいるからでしょうか。ああ帰ろう。家に帰ったらもう一杯だけ飲もう。発泡酒を買ったファミリーマートに行ったら、あいつまた来た、となるだろうから少し遠いほうのファミリーマートで買おう。
これも考えすぎなのだろうか。今日から発泡酒も増税だってね。レモンサワーのほうが安いね。レモンサワーを右手に家路につく。眠っている君のいる、真っ暗な部屋に帰る。君の寝息も遮断するノイズキャンセリングは素晴らしい仕事っぷりで、Charaの歌声だけを私に届ける。レモンサワーももう飲み終わる。上手に眠れないときは焦らないことが大切だと知っているくせに焦ってしまう私たちの夜は、誰のためでもない私だけの夜。