見出し画像

告発 預金は誰のもの?

死を選択された家族。口座が凍結される



「清照院恵安高順大姉」、妹の今の名前である。

気が弱くって、引っ込み思案で臆病で、それでも気の毒な人を見ると陰でこっそりとお世話している妹。人と真正面から話をすることが苦手。キャラキャラと楽しそうに話をするが、悩み事があっても本音で打ち明けることができない。
人に気を使い優柔不断で潔癖症。素直だが頑固、そして真面目で甘えっこ。融通は利かず、人にイヤな事を言われたりすると拗ねて自分の殻に閉じこもってしまう。落ち込み方が激しくて我慢に我慢を重ねてしまう。
ユニセフの広告に映し出される子供たちの映像に、「見たくない」と顔を曇らす、そんな妹だった。浮かんでくるのは妹の暗い顔ばかりだ。

序章  病室にて

ガンが分かって、それはわずか5カ月の出来事であった。

妹の最期の姿が脳裏からそして心から、一刻たりとも離れることはない。
一人ベッドに寝かされた妹は、真っ暗闇の中でうめきながらナースコールを押し続けていた。
「迷惑かかるから」、と痛みに耐えながらもコールなど鳴らしたことのない妹がひたすら、その時は押し続けていた。
下半身が全く動かず寝たきりの妹は、衰弱した体で懸命にベッドの柵をつかみ、何度も取りこぼしながらナースコールを探し続けていた。
「呼んでも来やしないし」とも言っていたのに、今は焦点の合わない眼を見開き恐怖の中でもがいていた。

妹はずっと親と一緒に暮らしていた。ただ真面目にコツコツと働き、質素な暮らしだ。
おしゃれは好きで片付けるのが好き。甘えん坊でさみしがり屋。

そのさみしがり屋の妹が、今ポツンと闇の中でベッドに横たわっている。

仮眠室で寝ていた姉は、胸騒ぎに突き動かされ病室に歩いてゆくときに部屋から出てくる看護師とすれ違った。看護師は目をくれることもなく歩き去った。
妹は病室に入ってくる姉の姿に気づき、
「来たの?」とかぼそい声で、それでもうれしそうに聞いてきた。
「ずっといたよ」。姉はそう答え、妹の横に置かれた椅子に腰かけた。
入院2日目の夜である。
目の前のモニター画面には数字がビービーと音を立てながら写し出されていた。

妹はうなり続けながらプラスチックのうがい受けを必死で口元に持って行く。闘病を始めてからこれは妹に欠かせないものになっていた。妹はまたナースコールを探す。姉はやめさせようとするが妹は必死に押す。

「どうしましたか?」とコールから響く看護師の声。
「間違えました」姉は、そう答える。
硬くなってゆく妹の冷たい足をさすりながら、少しでも血の巡りが良くなるようにと祈る。さすっていれば少しモニター上の数値が良くなるのだ、一時的にでも。

妹は家で闘病している間、ベッドの角度を30度以下にしか起こすことができなかった。
骨髄に転移しており圧迫骨折があったのだ。ベッドを起こすと痛みもひどいらしく、自分で慎重に角度調整をやっていた。妹の体には触ることもできなかった、痛みで。
家では痛み止めも「あまり効かない」と言い、我慢することも多かった。

家で起き上がれなかった妹がベッドを90度の角度に起こし、ガクンガクンと、何度も、何度も、まるで起き上がろうとしているかのようにベッドの柵をつかみ、ベッドの上でのたうつ。耐えきれない苦しみのためにどうしていいか分からない妹。目を見開き、「・・次はどうする」とつぶやいた。

ここまで起き上がってもまったく痛みを感じないということは、一体どれほどの量のモルヒネが投与されているというのだろうか。
苦しみを緩和させるという医療を願い、病院にゆだねるしかない家族、そして本人。
モルヒネの量は適正?

病室のドアの向こうをシーツ替えの担当者がカートを押しながら歩いている。
「‥‥可哀そうに、‥‥」
何の話かは分からないが、そんな言葉が聞こえている。

看護師がきて妹を抑える。
苦しみに耐えられずに酸素マスクを外そうと抵抗する妹の手を払いのけ、マスクのひもを妹の頬にテープで貼り付ける。
哀れな妹の姿。
そんな中でもうがい受けを必死に口元に手繰り寄せる妹に「どうせ出ないでしょう」、と小柄な若い看護師は言い放った。

寝返りが打てない患者のために定期的に体交に来てくれる看護師さんたちがいる。ドサッと体を投げ出され、妹はハッとしたように目を見開く。看護師さんたちは素早くクッションを体の下に敷き入れ、スッと部屋を出てゆく。
まるで物を扱うように、されるがままの妹の姿に、姉は言葉もなく見守るしかない。

暗闇の中に看護師さんが入ってくる。
うなり声をあげる妹の耳に、「苦しまないで死にたいよね」とささやきながら、クリクリと点滴をひねって出てゆく。
うがい受けを口にあてがっている妹に、「痛いの?」とささやきながら点滴に手を伸ばそうとする看護師さんに、姉は、「それは痛みなんですか?」と精一杯の抗議をこめて言葉を返す。
看護師さんは一瞬動きを止め、何も言わずに病室を後にする。
薄暗い中に映し出された看護師さんの小柄でふくよかな姿が、姉の胸には恐怖のシルエットとして焼き付いた。

下半身まひを発症していた妹は自力で排便することができなかった。
だが、病院に運び込まれてから最後まで、摘便の処理をしてもらえることもなかった。

用事があってエレベーターの前まで行く。
コロナ対策のために面会者を一時停止させるためのバリケードが設定されている場所だ。
そこに並んだ椅子の前で、看護師の制服を着た女性がスマホに向かって話しかけていた。
「‥‥看取り部屋が大変なことになっている、‥‥」「‥‥だから、‥‥」
看護師は必死に、周囲にも気づかず、興奮した様子であった。

姉は視界の片隅で眺めながら、フラーッと通り過ぎた。


12月21日、救急車で運び込まれた妹は、CT検査室に入りその後病室に送られた。発症を見てから二度目の入院である。
肺の機能が落ちていると看護師さんに言われた。
その日は病室で少し話をした。
「持ち直したら、また家に帰るんだよ」
「うん!」素直に答えていた。
その時一緒についてくれた看護師さんは妹とさりげない会話をし、励ましの言葉をかけてくれた。
「お帰りになる時は声をかけて下さい」
そう言って二人だけにしてくれた。
姉は妹のことが心配ではあったが、家の片付けもあり妹を残して帰った。

眠れない夜を過ごし、次の日の昼前に姉は病院へ向かった。
妹は朝方とくに痛みがひどく、歯磨きは10時ごろになっていたので、それが過ぎたころを見計らい、ゆっくりと出かけたのだ。

病室に入ってすぐ、姉は妹の異変を見て取った。
顔が昨日までとは打って違った。
前日と同じ看護師さんが妹のそばに立ち、
「昨日は普通にしゃべっていたんですがね」、と同情的な声をかけてくれた。

モルヒネ点滴の投与が、すでになされていた。

22日の午後、病室で二人過ごした。誰もいないとき、妹は苦しい息の下から必死に語りかけてきた。
ベッドの柵に細くなった指をかけながら妹は言った。
「どうやって、・・死ねれば、・・・いい」
姉はドキッとした。妹は死のうと考えているのか。いや、・・違う。
すぐに続けた。
「・・・ない」
妹はそれはない話だ、と言ったのだ。
そして、姉を指さし、「・・・に」、と姉の名前を口にした。
 
姉は一瞬戸惑った。どういう意味なのか。
そして、ハッと思い出した。

家で介護していた時、二人だけで話したことがある。

「もう、先生は病気を治す治療はしないんだから、自分で頑張るしかないんだから、姉が100パーセント守るから、先生たちが何を言ってきても、アンタはもう判断することも難しいんだから、姉に聞いてくれと言いなさい。姉が一番よくアンタの事を見てるんだから、絶対に闘うから」
そう言い聞かせた。

姉が必死で言い聞かせる言葉に、妹は素直に「ウン!」と答えていた。
寝たきりで下半身がマヒ、まったく動くこともできずに、姉だけが頼りだったのだ。

痛みが強いと訴えるとき、訪問医の先生はスマホを覗き込みながら薬の処方を変えてくれる。しかし、前よりも継続的な吐き気に襲われたり、尿の色が異常になったり、毎日看病している姉にとって妹の変化は見逃すことができなかった。
先生は自ら妹の身体を触診することは一度としてなかった。
これが今の標準医療。最も基本的な触診はもはや医療の世界からははじかれているのだ。

妹は訪問してくれる先生に調子を尋ねられると、
「いつもと同じ」、と二カッと笑って答えるのだった。
いや、いや、そんなはずない、ここのところ吐き気が異常に強くなってるじゃないか、と姉は代わりに医師に訴える。
妹は気遣いの言葉が嬉しくて、思い切り愛想よくふるまうのだ。迷惑かけたくないとの遠慮もあり。


妹はそれを覚えていたのだ。

姉はドキッとした。
妹は誰かに重要な話をされたのだ。そして、それを否定し、姉に聞いてくれと訴えたのだ。
あの、主張できない妹が。いつ? 昨日か、それとも今朝か?
妹の訴えは通じなかったのか。
そして、その経緯はまったく姉には伝えられていない。

担当医師たち、或いは医師一人は、妹が拒否したにもかかわらずに薬の投与を開始したのだ。

妹は口がきけない状態になっていた。それでも、苦しみの中で必死に姉に事実を訴えかけたのだ。
姉との約束を果たしたことを必死で伝えようとしたのだ。

妹は苦しみ続ける。

姉はためらった。
暗い廊下を歩きナースステーションに向かえばいいのか。
誰もいない中で呼び出しベルを鳴らすべきか。
泣き叫んで妹を助けてと言うか。うるさい家族だと思われまいか。
姉は動くことができなかった。
ただ、苦しむ妹の足を温めるしかできなかった。
絶対に守るからと約束していた姉が、何もできない。

姉は妹の細くてまっすぐな、動かない足を揉み、ひたすら画面の数値が好転、そして悪化するのを見つめ続けた。
疲れて妹の足に頬をあてているとき、年配の看護師が入ってきた。
「とめられないですか・・」と点滴をみつめながら姉は訴えた。
看護師は「先生のご意向です」と低い声で答え、そっと出て行った。

妹は翌日ももんどり打ちながら苦しんだ、恐怖に眼を見開き。

23日の夕方、妹は、うなり続ける中で絞り出すようにふたこと言った。
聞き取れた最期の一言が、絞り出すような「・・・早く・・・」だった。
その言葉を最後に、あとはうなるだけになってしまった。
無力な姉は何もできない。妹がこれだけ頑張っているのに、姉は助けることもできない。

妹は今、姉の目の前で薬に殺されている。
家に帰りたいと願う妹が、抵抗のできない体にポツリポツリと薬を流し込まれる。

もう少しで年末、そして正月になる。
外は白く、そして暗い。

  *   *   *

12月24日、25日、静かに雪が降りつむ窓を見ながら、言葉を発することもなくうなり続ける妹を、見つめる。
乾いた妹の喉に湿気を与えてあげようとコンビニで買ってきた加湿器を、看護師さんが報告したのだろう、師長さんがわざわざ来て、注意をしていった。だからタオルをお湯に浸し、妹の周りにかけて湿度を保つ。スポンジ歯ブラシで口を湿してあげる。

12月26日、昼頃、妹はうなり声も出せなくなっていた。
モニターがビービーと音を立て、年配の太った看護師さんがゆっくりと入ってきた。
「今、先生がいらっしゃいます」そう告げた。


姉は妹のベッドの左側に立ち、医師を迎えた。
若い色白の医師は病室に入りながら「お疲れさまでした」、と明かる気に声をかけてきた。

姉は黙った。

医師は、まっすぐになってしまった妹の右側に歩み寄り、妹の体に目をくれることもなく、「・・いや、一番大変だったのは本人でしょうけど・・・」と、姉が険しい顔で突っ立ったままでいるのを感じたのだろう、ちょっと戸惑いながら言葉をつないだ。
姉は「昏睡状態ですか」と尋ねた。「モルヒネ、止めてもらえませんか?」
そう言うと、医師は一瞬ひるんだ。
「・・、今やめても、苦しむだけですよ」
そして明るく、
「ずっと付きっ切りでいなくても大丈夫ですよ。ウチらが見てますから」
とおっしゃった。

――ウチらが見てるから。

しばらくこのままの状態が続くだろうと言う医師の言葉で、姉はいったん家に戻った、準備のために。
ほどなくして病院から呼び出しの電話が来た。
姉は車で駆け付け、妹のもとに走った。

妹は苦し気に歯をむき、すでに動くこともなかった。

看護師、そして医師が入ってこられ、妹の右側、モニターの前に立たれた。
医師は晴れやかな顔で、姉にスマホで時間を確認するよう告げた。姉が口にした時間は妹の最期の時間とされた。

姉は、近くで待機していた従妹に妹の最期を伝えた。

院内ではアナウンスが流れる。
「第二エレベーターのご利用はお控えください」

妹の体は整えられ、裏エレベーターでカラカラと運ばれた。
裏出口には黒い服を着た男性が待機しており、先ほどの医師と看護師が出てきて、妹の亡き骸を、二人で頭を下げて見送る。

姉は無言でお辞儀を返す。

「病院」、そこでは数多くの生命が救われる。
同時に多くの命が最期の時を迎える。
xx県立xx病院。地方の中核病院。
4階427号室。

死階、死にな、”看取り部屋”、そう呼ばれているらしい。


そんな部屋に妹を送り込んでしまった、大切な妹を。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?