心の反応とその裏側

良い文章をみると、言語化に対するコンプレックスが疼く。

何が”良い”のかを純粋に理解する試みを妨げるように、自分が”良い”ものを出そうとして出せていないことや、良い文章の主である相手の存在から目を背けたくなる。

同業者、仕事のチームメイトであればでなおさら、私の中の心理的地位に段差がついていく。将来のキャリアが心配であるからこそ、自分の不安定と相手のさらなる安定を予想し、不安を助長する方向へ思考が流されていく。

優れた相手を呼び水にして、要は自分にアラートしているのだ。そのきっかけと証拠がほしかっただけだ。心の反応=嫉妬(=悪いもの)にみえていたけれど、自分の足りない部分を証拠付きで自分に突き付けて、不安を解消したかったのかな。書くという仕事である以上、足りない部分を補うしか生き残る道はないから。


いま、自分の心が何に反応しているのかを見つめるというのは、自分のみじめさや醜さを認めなければならないのでつらい。その時初めて、自分の中に隠れていたコンプレックスに気づいたり、忘れていた過去の記憶や恥、変われないもどかしさを噛み締めざるを得なくなるからだ。

心の反応の根源を探り当てたら、あとはそれを認めておくだけで今はいいのではないか。これ以上の忖度や正当化はきっとなにも産まない。

心が反応した対象へ寄せたあこがれや思いを、ただ純粋に感じていたい。たぶんそこから止まっていた時間が動き出す。

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