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毛沢東は日本軍に感謝していた    中国「反日の闇」 遠藤誉 まとめ1

中国「反日の闇」  遠藤誉  2024.11.14 ビジネス社
遠藤氏は、2024年に発生した靖国神社落書き事件、日本人学校10歳児殺害事件などの背後にあるのは、中国で行われている「愛国主義教育」すなわち「反日教育(中国では「仇日教育」)」であると断言しています。
まとめ1は、先の大戦で日本と戦ったのは共産党軍ではなく、共産党を率いた毛沢東は日本軍に感謝しており、南京事件にも触れることなかったこと。改革開放で「日本大好き人類」が急増したあと、中国共産党が南京事件をとりあげるようになり、天安門事件後、江沢民が「反日教育」を開始、「愛国主義教育」を強化していく経緯をたどっています。
2001年の調査では、教員たちでさえ慰安婦問題を知らなかったのです。


1937年 毛沢東のプロパガンダ「日本軍と戦っているのは共産党軍」


毛沢東の文学性は非常に高く、人民の心をつかむのに成功し、多くの人民が「中国のために日本軍と戦っているのは共産党軍だ」と深く心に刻み込んだ。p58

1937年12月13日 南京大虐殺

(南京大虐殺についての著者の姿勢:「南京大虐殺」があったかなかったか、残虐性、人数などの話はしない。そこに深入りするには何冊もの本を書かねばならないだろうから、そこには立ち入らない)

中共中央文献研究室が編纂した「毛沢東年譜」には、1937年12月13日「南京失陥」とあるのみだが、同時期の1937年12月9日~14日に開催された「中京中央政治局拡大会議」については詳細に記されている。6000ページにわたる年譜だが、「南京失陥」が1回でてくるだけである p60。中国では、毛沢東が逝去するまで、「南京大虐殺」を口にした者は、密かに消された。それに触れると、国民党軍の奮闘と犠牲が強調されるからである。

毛沢東が「南京大虐殺」を無視し続けた理由
2015年10月10日、ユネスコが「南京大虐殺」を世界記録遺産に登録すると発表し、習近平政権になってから登録運動が大きくなると、中国のネットでは、「なぜ毛沢東は南京大虐殺を隠したのか?」という情報が多くなり、当時は「毛沢東 南京大虐殺」で200万項目がヒットとした。現在はほぼ削除されてしまったが、西陸網(中国軍事第一ポータルサイト)には、陳中禹によるブログ「毛沢東時代はなぜ南京大虐殺に触れなかったのか -恐るべき真相-」がある。P63 これによると、1958年版の『中学歴史教師指導要綱』の「中学歴史大事年表」の1937年には「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」とのみあり、この状況は1975年版の教科書『新編中国史』の「歴史年表」まで続く。中学の歴史教科書に「南京大虐殺」の文字が登場するのは、1976年の毛沢東の死後の1979年である。別の情報は、1957年版の中学教科書にはあり、1960年版では削除されたと付けくわえている。(この理由は1950年の朝鮮戦争の項目参照)

p63

「七二一方針」とは、 国民党軍に協調するふりをする「国共合作」
1936年12月、毛沢東は周恩来やその弟子・藩漢年を使って蒋介石側近の張学良を凋落させ西安事件を起こし、1937年から「第二次国共合作」を行い、この年「七二一方針」を指示した。「七割は共産党軍の発展のため、二割は国民党軍に妥協して協調しているふりをし、一割だけ抗日戦争に力を注ぐ」戦略で、これに従わず本気で日本軍と戦った共産党軍はのちに粛清された。p48

p48

日本外務省と連携していた中共スパイ
藩漢年は毛沢東が日本外務省に送り込んだ中共スパイ。潜入先は、上海の日本外務省の出先機関「岩井公館」で、早くから公館に潜入していた五面相スパイとして有名な袁殊の手引きで、当時の上海副領事岩井英一と懇意になり、国民党軍の軍事情報を日本側に提供し続けた(半月に1回、岩井が支払った情報提供料は、当時の金額にして警官の5年間分の年収(2000香港元))。当時、中共の特務機関の事務所(地下組織)の一つが香港にあり、毛沢東の指示を受けて、藩漢年、廖リョウ承志らが、駐香港日本領事館勤務の小泉清一(特務工作)と協力し、「中共・日本軍協力諜報組織」のようなものができていた。p52~55に記載されている人物名:「梅機関」陸軍参謀の影佐禎昭大佐、都甲大佐、中共中央軍事委員会華中分会常務委員の饒ジョウ漱石、南京国民党政府の汪兆銘主席・周仏海・李士群・関露、重慶国民政府の蒋介石(p55に中共スパイと日本側のスパイ相関図)

p52

1945年8月15日 日本は無条件降伏

当時中国は中華民国であり、「中共軍が日本軍を倒したのではない」。
しかし、日本軍が中国大陸から撤退すると、共産党軍は、「実際に日本軍と戦った国民党軍」を打倒するために「国共内戦」を始めた。

日本に植え付けられた贖罪意識
日本の贖罪意識日本は戦後、GHQによって徹底して「精神構造を破壊された」。日本に対する戦争犯罪(2回の原爆投下、無辜の民の無差別爆撃)を責められることがないよう、日本人に徹底して「贖罪意識」を植え付けた。「悪いのは戦争を起した日本人」よって、「原爆を投下したアメリカは悪くない」と思いこませた。その結果、日本人は中国に対しても大きな贖罪意識をもつようになり、日本防衛研究所の日中戦争史は、中国共産党がプロパガンダのために書いた「八路軍(中国人民解放軍の前称)がいかに勇敢であったか」を基本的に踏襲している。日本の大手メディアはこれを基本情報として日本人を再洗脳して、今に至る。

p59

1949年10月1日 毛沢東 中華人民共和国を建国

1950年6月25日 朝鮮戦争後の「反対武装日本」

1950年の朝鮮戦争は、アメリカの都合による日本の武器弾薬庫化、警察予備隊設置(憲法で日本の再軍備を禁じながら1952年には保安隊に改組)をもたらした。また、1951年にサンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約の調印が行われると、中国全土に「反対武装日本」の声が広がった。しかし、朝鮮戦争が終わると、毛沢東は「反対武装日本」をやめた。毛沢東の生涯において「反日」を叫んだのは、この朝鮮戦争と日米安保条約締結のときだけである。

蒋介石と日本軍支那派遣軍総司令官の友情
台湾に逃れた蒋介石は、日本軍支那派遣軍総司令官だった岡村寧次ヤスジに依頼して、台湾で「白団パイダン」という軍事訓練組織を秘密裡に結成していた。蒋介石は岡村と深い友情で結ばれており、東京裁判で岡村が裁かれないよう手段を講じて庇護し匿った。

p65

1956年6月9日 毛沢東「日本軍の進攻に感謝する!」

朝鮮戦争が終わると、毛沢東は、蒋介石の岡村寧次重用に対抗するように、日中戦争時代の日本軍の中将 遠藤三郎を中国に招聘する。そして、中南海で「日本軍閥がわれわれ中国に進攻したことに感謝する」と発言。毛沢東自身が、打倒したかったのは「中華民国」国民党軍を率いる蒋介石だったことを明言。 p47

1971年8月 朝日新聞の本田勝一記者『中国の旅』連載開始

本田氏が1971年6月~7月にかけて「中共中央の許しを得て取材」したレポートが、中国で南京大虐殺を呼び起こすきっかけとなったと言われているが、遠藤氏は取材自体の信憑性が疑問だとしている。なぜなら、1971年は中共にとり重要な年で、南京大虐殺に関るには不適な年だったからである。

中国に接近するアメリカ
文革(1967~1966年)中の1971年。アメリカのニクソン大統領が「米中国交樹立が長期目標」と発言、訪中の意向を表明。「中華人民共和国」が中国として国連に加盟、すべての国に「台湾との断交」を要求(中華民国は脱退)

p66

1972年 日中国交を回復

1976年 毛沢東 死去

1978年12月 改革開放で「日本大好き中国動漫新人類」誕生

中国共産党第11期の鄧小平が改革開放を宣言すると、海外の精神文化が中国に一気に流れ込み、日本のアニメ、動画も中国に上陸、「日本大好き中国動漫新人類」誕生。1980年代に来日した中国人留学生には「反日感情」は皆無だった(遠藤氏)。

1982年8月 「歴史教科書改ざん」として南京事件に言及

人民日報が「日本の文部省の歴史教科書改ざん問題」との書き出しで、「南京大虐殺」を詳細に解説。改革開放で、若者がジャズやヒッピー文化に染まり、夜通しロックやダンスに夢中になったための反動。p67

1983年 「精神汚染防止運動」開始

1985年8月15日 「南京大記念館」完成

中国名は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」

1987年7月7日 「中国人民抗日戦争記念館」完成

盧溝橋近くに建設し、盧溝橋事件の中国名称は「七七事件」であり、それにちなんで7月7日に完成。

1989年6月4日 天安門事件

1994年 江沢民が「反日教育」を開始

江沢民は、「愛国主義教育」を強化して「反日教育」を開始。「抗日戦争」ものの動漫(アニメ+漫画)の制作許可の基準を甘くして奨励。その結果、ネットで「反日行動」が人気を呼び、「反日同調圧力」が強まっていった。(江沢民の父は日中戦争時代、日本の傀儡政権であった汪兆銘政権で官吏として勤務、沢民は贅沢な生活を送り、芸事にも長けるといった親日的出自であった。これを隠すため、日本敗戦時に叔父の養子となり、反日教育を開始した。

1995年5月 小学校から高校卒業までの徹底した「愛国主義教育」開始

中共中央宣伝部、国家教育委員会、文化部、新聞出版、共青団中央が共同で、「全国の小中学生に推薦する百冊の愛国主義教育の通知に関して」を全国の小中学校に送付。(中国の中学は、日本の中学校と高校にあたる)p72

1996年11月「100か所の愛国主義教育基地」

(江沢民政権時代の2001年にさらに100か所を追加)愛国主義教育基地のほとんどが「抗日戦争跡地」

1997年7月7日「愛国主義教育基地巡り」義務化

中共中央宣伝部が、学校教育の授業に「100か所の愛国主義教育基地」に基づいて「愛国主義教育基地巡り」を義務化。愛国主義教育基地の見学ができない地域は、テレビドラマ、映画、インターネット画像教育の駆使し全国に徹底させた。2001年には、さらに100か所が追加された。 P72

 2001年 中国教員は慰安婦問題を知らず

2001年、日中韓の中学生の学力・意識調査の事前打ち合わせの際、中国側教員は慰安婦問題を知らなかった。(韓国側は質問項目にいれるべきだと、強く主張)(2024年8月19日のNHK報道テロ事件の胡越が日本へ留学しようとしていた時期) p44 

胡錦涛政権(2002~2012)は、過度の反日教育はナショナリズムを煽るとして抑制しようとしたが、反対に売国奴呼ばわりされた。

2へ続く
2では、日本への恨みを体感させる「学習指導要領」について

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