夢 サッカーで香川を変える #1

 毎日毎晩毎朝、10年間おきてるときも寝てるときもずっと忘れたことがない僕の「夢」を語りたいと思います。おそらくぼくが夢を語る、という行為に #長友ドリーム というプロジェクトの真意があるはず。(#長友ドリームの詳細は長友選手のTwitterからご確認ください。リンクはれてるかな?)なのでぼくの夢を熱く語ります。長友選手、夢を発信する、ということの重要性や楽しさを思い出させてくれてありがとうございます。

 簡単に言ってしまうと、「サッカーで香川県に恩返しをする。サッカーで香川県の人を幸せにする」これがぼくの夢です。そのためにアメリカへスポーツを学ぶため留学します。

 ここのブログにも書ききれないほどの想いや書きたいことがあるので、簡潔にまとめるように努力します。(久々に夢を文字で語るし、この最近ハヤリのnoteとかゆうのもこのためだけに始めたので書きなぐることになります、すいません。)以下の3つの構成です。

①ユニークな生い立ち、高校サッカーでの成長

②なんで香川?なんでサッカーでアメリカ?

③いまの海外生活と病気と夢

今回は①です。

僕の名前は三宅修平です。26歳1993年生まれ、Jリーグ開幕&ドーハの悲劇の年です。生まれも育ちも香川県高松市屋島西町、ぼくのhomeで故郷で地元です。橋と埋め立て地で四国とつながってますが島です(昔は完全な島でした)。写真は屋島から見た高松市街と瀬戸内海。世界で一番好きな景色の一つです。

 10歳くらい?のころ両親が離婚して、ぼくも片親で育ちました。(長友選手も片親だったとは。。)僕、父、2人の兄と計4人で実家に暮らし、母が出ていきました。詳しい原因はいまだに聞けていませんし聞きたくもありません。大人になった今、昔を振り返ると気づくことってありませんか??僕は、自分の家が一般的な幸せな家庭ではないこと、お金があんまりなかったことに気づきました。小さいポテチを兄弟3人で分けて喧嘩したりしてました。これを家族がみたら怒られそう。。

 父から母への暴力的なシーンなどをみたり、いなくなった母の代わりに家事をやったり、理不尽に怒る父から解放されたかったりして、早く就職をしてこの家を出たいと思って、工業高校(志度高校電子機械科)へ進学しました。それでも嫌になってガチの家出をしたこともあります。(笑)

 そんなこんなで、当時の僕は何に対しても無気力であまのじゃく、やる気ゼロ、がんばるのはかっこ悪い、みたいなヤツでした。学校も平気で遅刻、勉強もまったくしない、夏休みの宿題を夏休みにやったことがない、先生に怒られてもまともに聞いてない、クズでした。

 スポーツは好きでした。小学生のころは野球(友達と毎日ひたすらノックとかキャッチボールするだけ)、中学はバレーボール部(ほぼまじめにやらずに部室で遊んだり)。サッカーは見るのもやるのも好きでしたが、共働きだったし、しっかりした習い事はさせてもらえず。でもやっぱりサッカーが好きで、バレー部なのにサッカー部の友達とサッカー談義したりしてました。

 高校に入って、弱小で廃部危機だったサッカー部に入りました。先輩も3人しかおらず、練習もあんまり激しくなく、先生は優しい、ちょっとがんばるサークルみたいな部活。このサッカー部が僕のサッカー人生のスタートであり、まさか人生を一変させる転機になるとは。。

 高校3年になった春、ある先生が赴任してきました。T先生とします。その先生は当時37歳、四国のトレセン(選抜)でコーチしてたり、県下随一の強豪校で指導していた先生。1993年香川・徳島国体の優勝メンバーで元讃岐:北野監督と国体でチームメイトだったはず。。とにかく、部活が一変しました。5月ごろから、その新任のT先生が監督になり、まさに軍隊式の地獄の部活に変わりました。(下の写真はぼくが卒業して少したった頃)

 校庭で一人ずつ校歌を歌って声が小さいやつは永遠に歌ったり、みんな坊主になったり、終わりのない筋トレをしたり、10キロ走ってから練習したり。よくある昔の強豪高校のスタイル、みたいな感じでしょうか。チームはほんとに弱かった、けど先生の指導は一流で最先端でした。高校サッカーの指導者でありながらJFAのB級ライセンスを取ってたり、ブラジルにサッカー留学されてたり、本当のサッカー、本気でサッカーをすることの意義を教えてもらいました。前職で様々なサッカーの指導者と出会いましたが、間違いなく素晴らしい指導者です。北野さんもそうですが、良い指導者は恐いというか、緊張感と選手からの尊敬を兼ね備えていると思います。まさにそんな先生でした。

 そんな本気のサッカーをみんなでする中でも、僕が一番気持ちを持って意識高くサッカーをしてた自信があります。高校でサッカーをはじめた僕はもちろん後輩より下手くそでしたが、気持ちと体力では絶対に負けないプレーヤー。ホントに死ぬ気で取り組みました。あの無気力でなんのやる気もなかった三宅修平少年が、毎朝早起きして朝練して、ジュースも一切飲まず、揚げ物もお菓子もたべず、学校のすべての先生にデカい声で挨拶して。とにかく日本中のどこに出しても恥ずかしくない努力をしていました。正しい行いを正直に本気で取り組む、そんな人間性をサッカーが磨いてくれました。

 またまた忘れられない高校最後の試合は左サイドバックでした。あの日の夜、人生で一番泣きました。10年たった今でもあの試合を鮮明に思い出して悔しくなります。防げなかった失点、逃したチャンス、なんでリスクをおかして点を取りにいかなかったのか。涙が止まりませんでした。そこでようやく、自分の変化に気づきます。サッカーでここまで変わって、成長できたことに。たった半年で一人の人間をサッカーが180度変えました。

 父への考え方も変わっていて、父のことを尊敬するようになっていました。高校生のころ、朝練にいく僕よりも早く起きて朝食とお弁当を作ってくれて、そこから夜9時まで働いたあとでぼくの夕食を作り、翌朝またぼくの弁当を作る。ずっと料理なんてしてなかった父の料理は正直まずかった。特に毎日弁当に入ってる塩シャケにさらに塩かけてて、、僕はお茶で薄めながらたべたり、同級生に笑われたり、でもそんな父には一言も文句は言えず、それをずっと食べ続けました。なにも言わないけど、離婚してしまった責任を感じていたと思います。こんなことも言ったことないし、絶対言わないけど、本当に感謝しています。社会人になってさらに父のすごさを実感します。

 そこで僕が夢を持つようになります。

 サッカーで成長できた、父や先生やこの香川県が自分を変えてくれた、だからこの恩を絶対に返したい。サッカーは人を変えられる。だから世界を変えられる。だからサッカーが大好きです。その大好きなサッカーで香川に恩返しをする。サッカーで香川を変える。それがぼくの夢になりました。


 今回はここまで。今週は学校のテストなので勉強で忙しめです。7月までにはすべてアップします。次回は、学生時代のヒッチハイク日本一周と、前職でのサッカーの仕事にフォーカスしたいと思います。26歳で学生みたいに夢を語るなとか言われることもありますが、なんとでも言ってください。

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