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【現代アート】VOCA展2024に行ってきた話
現代アートの登竜門、VOCA展2024に行ってきました。
VOCA展とは上野の森美術館で毎年開催される現代アートの展覧会のことで、1994年から続き今年で31年目となる。
The Vision of Contemporary Artの頭文字をとってVOCA(ヴォーカ)展と呼ばれている。
公式HPによれば、現代アートの中でも特に平面的な表現に焦点を当てており、将来性のある若手作家を紹介・支援することを目的に設立されたという。
ここで面白いのがテーマが「平面」であるという点だ。平面美術と言えば絵画が最もポピュラーだろう。しかしVOCA展が志向しているのはあくまで「平面」だ。この展覧会は絵画だけでなく写真や映像、平面的なインスタレーションなど幅広いジャンルの作品を取り上げている。広義における「平面美術」の展覧会である。
ここではVOCA展2024の中から特に気に入った作家を6人に絞り、感想と考察を備忘録として書き記す。
※記事作成にあたり作品のキャプションと美術手帖の記事を参考にしました。
1.亀岡倫太郎
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この作品では普通なら被写体にならないものたちが取り上げられている。旅先でするお散歩の最中この写真群の被写体を見たとして「あれはなんだろう?」と目に留めることはあっても写真の主役に抜擢することはないだろう。被写体になるのはいつも有名な建築や人気の観光地ばかりである。しかしこの作品では普通なら主役にならない存在たちに焦点を当て、その面白さを見事に引き出している。被写体はどれも実用的でありトマソンではないもののトマソン探し的な面白さがたしかに感じ取れる。
観光地に行き現地の有名な料理を食べる。理想的な旅行の進み方ではある。しかしこれが加速すると「観光地や名産品を楽しんだ」という事実を得るために効率よく消費するだけの空虚な旅行が誕生する。旅において思考を巡らせ感性を働かせるためには精神とスケジュールの余白が必要だ。SNSへの投稿が前提となった現代の旅行こそ意識的に余白を楽しむべきなのだと思う。そして旅先における面白いもの探しはまさしく余白を楽しむ旅行体験だ。この作品を見て「面白いことをするなあ」と受け取るだけでなく、面白いもの探しを自ら実践していきたいものである。
2.しまうちみか
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様々な文化を纏う若者たちが色鮮やかに描かれている。能面をした人物の服にはMARVELの文字が描かれていおり、その隣にはチューバッカやミッキーマウスを思わせる人型がいる。 タピオカミルクティーを持っているのは悪石島の来訪神ボゼだろうか?鹿児島県のサイトによるとボゼの仮装をするのは若者のつとめだという。「恐」の漢字やマクドナルドらしきMの字も印象的である。アメリカの文化と日本の文化を分け隔てなく楽しむ姿はまるで自分たちを見ているかのようだ。そして「私たちは最高」というタイトル。
これは固有文化と外来文化の混在を肯定的に捉えているように私は感じた。文化が前の世代の全く同じ形で継承されることはそうそうないだろう。何らかの変化や発展はつきものだ。文化の原型を忘れないことももちろん大切ではあるが、この作品のように「こだわりを持たない」継承も軽視してはならない。祭りに似た盛り上がりと若者らしい熱を感じる作品だった。
3.大東忍
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VOCA賞を受賞した作品。木炭によって幻想的に夜を描いた風景画である。街頭の淡い光が幻想的な雰囲気を醸し出している。
大東忍さんは制作の際、風景に足を踏み入れ実際に踊るという。この実践が作品に大きく反映されていると私は感じた。この作品を見ていると自分も風景の中にいるかのような感覚をおぼえる。あるいは過去の記憶を思い出しているような印象もある。この作品を見ていると自分と風景の境目が徐々に曖昧になって行く。
我々は無意識のうちに風景を「見るもの」として客体化し眺めてしまう。
自分たちは今いる立場から風景を語るのみである。はたしてこれで良いのだろうか?
手足の感触、大地を踏む時の音、土や植物の匂い、本来これら全てが風景なはずだ。自分のいる位置から動こうとせず目だけで完結させてしまう態度はお世辞にも良いとは言えない。大東忍さんのように我々も踊ってみるべきなのだ。風景の中に入り込み、風景の中で生きるという体験をするべきなのではないか。そう思わせてくる作品だった。
4.橋鉄郎
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女性がピースをしている絵が15枚並べられた作品。女性たちの表情や振る舞いからは、親しい人間にカメラを向けられた時のような軽やかな印象が感じられる。彼女たちのファッションには個性や性格が表れており、快活な可愛らしさがある。
しかし、この作品を前に暫く立っていると妙な居心地の悪さが徐々に表れてくる。そして女性たちがモノとして対象化されていることに気がつく。本来なら女性たちのピースは私たちに向けられるものではない。彼女たちは日常の一瞬を切り取られ、なんの接点もない人々にそれを見られ続けるのである。私たちが普段から無関係な他者の外見を勝手に評価し楽しんでいる事実。これを突きつけられるがために居心地の悪さを感じるのではないだろうか。視線には暴力性がある。肯定的、否定的に関わらず外見を評価することは相手にとっての呪いとなる。視線の暴力性を再確認させられる作品だと感じた。
また、正方形が敷き詰められる構図からインスタグラムらしさを感じた。一般女性のピース写真を投稿するアカウントは、いかにもありそうな内容だ。各々が人生を生きる個別の存在なのに一律に並べられる。ヒヤリとした冷たい不気味さがある。インスタグラムに投稿される写真はいいねという形で評価が可視化される。普段は不可視の領域に沈み込んでいる「他者の外見を評価すること」の恐ろしさを可視化するという点で、インスタグラムと《無題(ピースシリーズ)》は共通している。この作品を見て感じた居心地の悪さと不都合な事実を胸に留め、度々思い出しながら生きていこうと思った。
5.堤千春
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ビニールのように張った皮膚、大きく誇張された瞳。描かれた人物像はどれも似たような見た目をしており、どこか偽りのような印象が漂っている。外部からの抑圧によって形成された理想的な自己像を描いているように見える。
抑圧によって我々はどれも均一的な形に整えられてしまう。現代人は周囲から期待された自分、一般的に良しとされる人物像になることを目指し悩み苦しんでいる。安心したいがために抑圧に従い自己を変容させていく。
この構図を思い知らされる作品だ。
人物の輪郭部分にはクレヨンに似た質感を持つ線が描かれている。子供は自由に絵を描く。ならば、この線はあるがままの自分や本来目指していた姿を表しているのではないだろうか。抑圧によって生まれた理想的な姿とあるがままの輪郭が共存しているのは興味深い。人はどこまでいっても完璧にはなれず、いくら抑圧されても他人と同じにはなれない。そんな人間らしさがこの絵には描かれているのだと思う。他者と共存するということは同類項でまとめあげることではなく、この人間らしさを認め合うということなのだろう。
6.笹岡由梨子
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強烈なインパクトがあった作品。
まず「この作品は平面なのか?」という困惑があった。複数のモニターから映像が流されているものの全体としてはインスタレーション的な印象が強い。しかし、見ているうちにこの作品が平面的な世界観を展開していることに気がつく。ある一点から眺めることが想定されているからである。もちろんこの作品を横から見たり下から見たりすることは可能だろう。しかし、作品全体を「観る」場合は映像を見やすい正面から見るのが自然だ。
私以外の鑑賞者も多くが正面から全体を眺めていた。ならば物理的に凹凸があろうと平面的な表現と言えるのではないか。
そもそも絵の具を塗っている製作する以上、実際は絵画も立体的だろう。絵画が平面的表現とされているのは受け取り手が平面として受け取るからなのだと私は思う。現に私が平面と認めているように、この作品を平面として受け取る人は少なくないはずだ。
だからこそ平面表現の展覧会であるVOCA展に置かれているのではないか。もしかしたら私が知らないだけで、立体的な平面表現は少なくないのかもしれない。そうは言っても私がこの作品から衝撃を受けたことは揺るぎない事実だ。
この作品のジャンルは映像なのか、絵画なのか、インスタレーションなのか……正直よく分からない。様々な表現媒体が入り交じり境界線は曖昧だ。
この「ごちゃまぜ感」こそが楽しいのだ。
ごちゃまぜした中に表現の自由さと可能性を読み取ることが出来る。現代アート特有のワクワクする面白さを持った作品だった。
7.最後に
VOCA展の存在を知ってはいたものの足を運んだのは今回が初めてだった。平面の概念を積極的に拡張していこうとする試みは非常に魅力的だったと思う。一般が800円で大学生が400円というお手軽さもありがたい。
一つだけ不満を挙げるならその会期の短さだ。3月14日~3月30日というわずか16日間のみの開催。もう少し長いと嬉しいがこればかりは仕方がない。行ったのが会期の後半だったということもあり、知人友人にあまりすすめることが出来ず歯がゆい思いをしてしまった。しかしこの歯がゆさは良い展覧会だったからこそ感じたことだ。今回取り上げた作品以外も素晴らしい作品ばかりだった。いまだ噛み締めている最中で悔しくも文章に出来なかった作品も少なくない。非常に満足度の高い展覧会だった。気に入った作家たちの情報を追いつつVOCA展2025を楽しみに待つとしよう。