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"世界について話をしよう"

 こういうタイトルがついた読み物は、たいていは政治や社会問題がテーマのような気がするけれど、私の引き出しにはそれがほぼない。
 何の話かというと、ファンタジー世界の「世界」に近い。

 何度か書いているとおり、私は2022年8月に無職を脱出し、今もいちおう働いている。今までの仕事の中では、いちばん好きな仕事だ。ライターなどではない職種なのに、いつもこのnoteに書くような文章を書いている。
 前職の専門紙記者時代、自分の書きたいものとはほど遠い文章を書いていた(そしてまったく書けるようにならなかった)。だから、自分の好きな方向性の文章を業務で書いていられることに、いまだに新鮮な驚きがある。
 とはいえ、さすがに職場で高校生のころからずっと書いてきた(書こうと苦闘してきた)ファンタジー小説のような文章は書けない。実は書けなくもないのだが、さすがにそこまで豪の者になれない。

「それ」を思ったのは2022年末だった。
 入社半年たたないと有休をもらえない会社なので、私は年末年始休暇を前に、すっかり疲労困憊していた。年末は、なんとか出社して仕事を進める以外何もできず、ファンタジー小説書きもほとんど着手できなかった。

 そんなおり、ふと思ったのだ。

「世界について話をしたい」

 と。

 社会問題をテーマとする雑誌の、対談コーナーのキャッチコピーのような。もしかしたら、どこかで見た文章を、ふいに思いだしたのかもしれない。

「世界」とは何かというと、冒頭に書いたとおり「ファンタジー世界」の「世界」、広くいえば自分でつくりあげたオリジナルの世界だ。

 いうなれば、インスタの有名タグ「ファインダーを通した私の世界」のようなものだろうか。インスタを更新すると少しうれしくなるが、やはり写真も「私の世界」のひとつだからだろう。
 とはいえ、長年インスタを続けてわかっているのは、インスタは決して小説書きの代わりにはならないということだ。インスタを始めた当初は、何かを発信しつづけていれば幸せなのではないか、とも仮定した。たしかにちょっとは幸せである。しかし、目の前にひろがる世界をシャッターボタンひとつで切りとる写真は、それにはそれの苦労や工夫があるにしても、自分の中でゼロから(と、ここでは言っておく)つくりあげた世界を物語ることと同じではない。

 その人は、水の匂いをまとってそこにいた。

執筆中の現代ファンタジー小説冒頭

 これは、いま私が書きすすめている単発長編作品(300枚程度を想定)の書きだしだ。ご覧のとおり水が世界設定の重要な位置を占める物語で、現代ファンタジーである。
 この文章だと、この1文ひとつに作品のファンタジー世界を入れこんでいるのでわかりやすい。

 シフルは、思いっきり紅茶を噴いた。噴いてしまったあとで、おそらく高級なのだろう紅茶をむだにしたことに気づいたが、噴いたものは帰ってこない。

執筆中の大長編ファンタジー「精霊呪縛」二部16話

 こちらは、私が長年書きつづけている大長編作品の最新話の1節だ。カタカナ名でファンタジーだとわかるが、名前を日本名に変えれば現代ものでも通用する。

 私としては、どちらの文章も書いた瞬間、「私の世界を書けた」とうっとりしてしまう。
 ファンタジー要素があってもなくても、その作品世界のなかでオリジナル設定の裏づけの下キャラクターが固有の行動をとる記述を書くとき、私は「私の世界を書けた」と思い、えもいわれぬ満足感を得られる。
 年末、そういった行為からすっかり遠ざかって疲労困憊した私に、ふと降ってきた言葉が、「世界について話をしたい」だった。

 それがないと私は「飢えて」しまう。それこそが、誰にも褒められることがなくても20年以上えんえんファンタジー小説を書こうと試みてきた理由だ。書けないとしても、書かない限り飢えはやまない。

 何回かこのnoteに書いているが、私は前々職在職中の13年弱のあいだ、ほとんど小説を書くことができなかったという過去がある。
 いわば長期のスランプ状態。もちろん、そのときもいろいろと努力はした。たえず空回りの努力をした13年弱だった。最後の1年間、ようやく「私の世界を書けた」と思えて手応えを感じ、同時に疲れ果て、そのあとすぐ退職を決めた。その作品は疲れ果てながら書いただけに、文章が崩壊している箇所も多かったが、「私の世界を書けた」という一点で私の大切な一作品となった。
 ちなみに、13年弱のあがきの中では他にも作品を書いてはいるが、「私の世界を書けた」と思えたことは一度もなく、自分の「作品」には数えていない。

 要は私の場合、小説作品を完成させればいいというものではない。「私の世界を書く」のが第一条件なのだ。
 よく小説講座などで、「とにもかくにも完成させるのが第一」といわれるが、私にとってそれは第一ではない——ということに気づいたのが、なんと遅ればせながら今、この年末だったという次第である(今までのあがきの中で、いったい何冊の小説ハウツー本を読んできたことか)。

 ひとさまのいう一般論的なものに自分を合わせようとして、すっかり遠回りしてしまった。もう少し賢く生まれてきて、もう少し早く自分の価値観に気づいていれば人生もう少しちがったのかなぁ、とも思うのだが、無駄なあがきを重ねた末に少しだけのびのびと書けている今の私も、決して嫌ではない。

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