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『小説。空生講徒然雲35』

 感傷はいらない。そんなタイプの二人と二匹の空生講徒然雲くそこうつれづれくもが、はじまった。シマさんも、タナカタさんとの別れの頃には泪を落としていたのが嘘のように、ケロッとしていた。ケロっと言えば、緑蛙野路だ。のじは楽しそうだ。井戸から飛び出したのじは、シマさんの頭の上で鎮座している。龍の頭で通訳していたのだ。シマさんに対して遠慮などあるはずがない。大蛙ではあるが、重さはないらしい。シマさんとぺちゃくちゃ喋るのが好きみたいだ。気が合って良かった。
 相変わらず青猫タルトも、私の頭の『?』に、くるまっている。こちらも、重さはない。二匹ともに頭が高い。知恵者同士、人間の頭を抑えておきたいのかも知れない。それと、私の思考過程は、いちいちタルトとのじに伝わっているようだ。ツーカーだ。喋らなくて済むので楽でもある。心のなか、頭の中を覗かれているは私にとっては至極、便利だ。隠し事など一つもない。私は千日過ぎて、さらに空洞です。という具合だ。

 二台のバイクはばるんと、夜空の電線にひとっ飛びで乗った。
 シマさんのヤマハSR400も自力で飛んだ。私の『?』の力を必要としなかった。バイクとシマさんの相性はすこぶるいいのだろう。ふつうはこんなに自由に空を駆ける事は出来ない。私は最初から出来た。が、空生講徒然雲の御師として、こんなに楽で不思議なパーティーは今までもなかった。
『もの生む空の世界』は、変わり続けているのかも知れない。
 我々一行は『角とり』または『イボとり』に向かわなくてはならない。
 『口凸口凹ハ』の、5段階に記憶は分かれている。或いはこれは自我かも知れないが。御師千日の私は3段階目の口に入ったところだ。『口凸口凹ハ』の『記憶自我二千五百日』は、御師だけのものだ。ない者行者はもっとずっと短い。一度死んで口が終わり、もの生む空の世界に来たらば。凸だ。 
 その凸の上のでっぱりを取らなくてはならない。そうでなければ、魂鎮め成仏とならない。でっぱりを取ると。記憶自我が減じてゆく。『ハ』ですべてながれさる。すると、『明日あがり』となる。
 そこから、さきは御師の領分ではないのでわからない。兎に角、我々一行は、新潟と福島の県境の集落にある、イボ地蔵のところにゆかねばならない。その辺りは、『狐の嫁入り』の領域内なのだ。『狐』の不興をかうと、『明日あがり』出来なくなる。
 別段、恐れる事はない。狐の嫁入りの邪魔をしないように、しずしずしていればいい。その為の面だ。面を付けるのは『狐の嫁入り』に対する礼儀作法のようなものだ。とある、ない者行者は不注意で面をかぜで飛ばされて、素顔をさらしてしまった事があるという。その瞬間、狐の不興をかい、一気に全身が煮崩れていったという。そんな、話も聞く。
 まあ、シマさんは寒がりで常にバラクラマを被っているから、その点の心配はいらない。無事、角とりが出来るだろう。

 福島回りで行こうか。秋夜の只見線はいいものだ。

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