見出し画像

『ゆれるおじさん』

ゆれている。ずっとゆれているおじさんがいる。
それは私のことだ。私は子どもの頃から特技のようにゆれている。大人になればこのゆれは治まるのだろうと思ってきたけれど。きっと最後までゆれ続けていくのだろう。人間五〇にして、大人になりきれないめずらしい例かもしれないが。

私はゆれながらおもう。子どものころからずっと財布のことで悩んでいる。長財布か二つ折りか、はたまた直ポッケか、だ。はじめての財布の記憶は小学生か中学生だろう。ファーストコンタクトは偽の革で仕立てあげられた紫色のゼブラ柄のうっすぺらい長財布だと思う(キバツすぎるぜ)。かなり頑張って記憶を捜査しみた結果に呆然としている。捜査しなければよかったとも思っている。振り返れば満点の悪趣味だ。が、せいの少年の精いっぱい背伸びした間違った努力と流行りのせいともいえる(私はなぜか紫色が好きだった。なぜだ)。それからも長財布と二つ折り財布の長く険しい選択は山あり谷ありの天秤がゆれるままに推移してきた。

確かに、スマホの発達により現金の世話になることは減じた。そうすると二つ折り財布の比重が高まる(直ポッケも)。ここ数年は二つ折り財布が優勢だった。これは私だけではなく全世界的な流れだろう。バイク乗りの私にとってもありがたい。いつからか私は革ジャンのポケットに入るかどうかで、スマホも財布も選んできたからだ。とうとう趣味と革新と生活が合致する世の中になったとよろこんでいた。

「もう現金なんて持ち歩く必要はないのではないか」とも思っていた。けれど財布の中には常にいくらかの現金を入れておかなければいけない。緊急事態が起こった際に頼りになるのは現金だけだからだ。ツーリング先で神社仏閣にお賽銭を納める際にも。だから必ず一万円札を一枚とばらばらにくずした五千円を財布に入れていた。それでもほんとに現金をつかわないものだから、紙幣がしなしなになって破れてしまうこともあった。私は再びゆれだした。

私はがんになった。私の『がんかわいがり生活』は一年半になる。手ぶらでは病院に通えない。貰う書類、病院事の診察券、服の脱ぎきなどもあり、A4サイズ以上のバッグが必須になった。私の生活はゆれた。財布のサイズ問題は新展開を迎えていた。斯うして数十年ぶりに長財布を買った。勿論、紫色ではない。革も本革だ。値段はむかしとそう変わらない。物価があがっていないのは恐ろしくへんだ。それはそれでおかしいのだがその話はかなり長くなるので横へ置いておこう。

黄色といっていい。ついでにキーケースも揃えた。どちらもかなりのお値打ち品だった。そしてでかい。カバンを持つのだから、でかさはもう気にしない。ホルスターバッグだってある。キーケースはバイクの給油のときにガソリンタンクに傷がつかないようにするためのものだ。

まさか私が黄色の財布を買う人間になるとは思っていなかった。思えば、バイクのヘルメットもひとつ黄色を所有していた。私のなかで着々と黄色の見直しが進んでいる。紫色がかっこいいと思っていた私の身の回りでは紫色は絶滅した。まだまだゆれているだ。

本当はスティーブ・ジョブズのように同じものばかり身に着けて、同じものばかりに囲まれていたいのだがそう上手くいかない。清貧の生活を志しているものの、清貧では経済は動かない。という言い訳を用意してゆれながら暮らしている。

いいなと思ったら応援しよう!

せいのほう
もしそうならば、あ~りがとうございま~す、です。たすかりま~す、です。