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『小説•空生講徒然雲29』


うずうずとむずむずが止まらない。
龍ヶ窪の池に飛び込みたい。こんな感覚ははじめてだった。もの生む空の世界の非常識の常識に従順だった私が能動的な欲望の捌け口を、龍ヶ窪の池に飛ぶ込むことで代替しようとしていた。千日間の従順だった私は何処へいったというのだ。口凸口凹ハの三段階目にきて、私の内心が変様しているのだろうか。3口目に入ったという事が終わりの始まりなのかも知れない。口凸口凹ハの5段階を過ごす内に、行者はもの思う種の世界からどんどん離れていくものだ。もの思う事と決別しなければ逝く事ができないから。私の場合は、御師の場合はどうなるのだろう。戻るのか、逝くのか。『?』よ、『?』のせいで、疑問が絶えないではないか。まだらな記憶の内省は袋小路に行き着くばかりで、非常識が常識だぞ。考えがまとまりかけた途端に穴に落ちていくようだ。

私がこのごろ変なのは、或いは、この愉快な一行が原因か。
非常識の常識が、くつがえり、非常識すぎるのだ。もう、どうにでもなれといういうことだ。私は私の意外な思い切りに驚いている。これが私なのか。もの思う種の私はこのように暮らしていたのか。これが、私の『本性』の一端か。それを、垣間見ているということだろう。なんという一端か。十端ないことを願おうじゃないか。
良い機会でもある。これからは水行と火渡りを慣例としよう。いままでの『空生講徒然雲』の『行』がいかにも温すぎたのだ。私は河岸段丘の宙空の電線を走りながらこんな事を考えていた。

こんなときには、どこからともなく「もくり」と小さな雲がわく。もくりもくりと河岸段丘の空に雲の道が湧き出している。
「雲の道。いいね。走っていいのねっ」、私は軽く「そうだ」というように頷いた。また、青猫タルトも「そ•う•だ」というように、短い尻尾を右左右と振った。私はシートから軽く腰をうかせた。何が起こっても対応できるライディングポジションをとった。カワサキW650にヤマハSR400レッドスターをリードすることを頼んだ。「ドドタリドタリドタリタタリドドタリドタリドタリタタリ」「タンタッタッタンタン」
二台の鉄塊の会話は手短に終わった。
「シマさん、このまま雲に沿って走ります。行き先は龍ヶ窪の池ですッ」
「っダイブするんですねッ」
「そーう。物わかりがぁ、よくてらっしゃる。助かりますッ」
「タナカタさぁん、しっかり捕まってくださぁい」と、私とシマさんの声が同時に発せられた。ふらんふらんしていたタナカカさんの腰が定まってきた。これなら行ける。

雲の道は、タナカタさんにとっては必ず走らなければならない参道のようなものなのだろう。タナカタさんにとっての理なのだ。埼玉の鉄塔ですがるように頭を打ちつけていたタナカタさんの短い巡礼が終わるかもしれない。目入ればかりでなく、それ以上のことも起こり得る。龍ヶ窪の池が雲海の切れ目から見えてきた。
なぜか、そのあたりだけは光っていた。我々一行を誘うように光っていた。もう、このあたりからはほとんど自動運転だ。カワサキW650にすべてを委ねていた。私はハンドルに手を添えている程度だった。
「ドルんドルんドルんドルん、とん、とん、とん」、カワサキW650はひと息ついた。それから一気に「ドロドロドドロドロドロドロドロドドロドロ」
と、とんだ「みやおうっ」「いけぇっ」「はいっ」「タナカターッ」

龍ヶ窪の池は青緑色だった。なんて清涼な水なんだ。もう、一生、歯磨きも、水浴びも、洗濯も、ひげ剃りも、不要に思えた。水底にしずんだ雲間から、ぽこりぽこりと、たった今、水が生まれた。私は首をのばしてぐびりと飲んだ。溺れる心配などいらない。からだのこわばりがぜんぶほどけてゆくようだった。
雲道くもみちは水中にまでわいていた。我々は龍ヶ窪の池の底の雲道を走っている。おそらくその『巡礼の雲道くもみち』はやがて龍ヶ窪の池から顔をだして、見玉不動尊までつづいているのだろう。そいう理だろう。私に後ろを振り返る余裕なんてなかった。みんな、よしなにしていることに疑いはなかったから。

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