『自堕落静養日記。十二月十九日』
私は、五年ほど前から老眼鏡の+0.5を愛用してきた。
とうとう一段階あげるときがきたようだ。+1.0を注文した。
ところで、ものはいいようだ。老眼鏡を世間ではリーディンググラスと呼び始める運動がはじまっていた。そのほうが売れるのだろうか。そのうち、補聴器の言い方も変わるだろう。車椅子も変わり。老人ホームも変わる。
断言しよう、日本から『老人』はいなくなるはずだ。
私は右目を酷使して暮らしてきた。生まれつき左目が弱視だからだ。そして、光線に弱い。眩しいのは苦手だ。ひょっとすると、ある種の発達障害を抱えているのかもしれない。いや、全人類が細かく調べさえすればなにかの発達障害に該当するのだろう。そのなかで、社会から脱落しないよう折り合いをつけながら生きている。そして、全人類平等に生まれつき『ギフト』を贈られている。私に与えられたギフトはなんだろうか。まだ、見つからない。
ところで、私はechoスピーカーを4台所有している。けれど、結局amazonのセール(2980円)で買った入門機のechopopを一階と二階に一台づつ置いている。echoスピーカーの上位機種をBluetoothでペアリングしていたステレオ再生もやめてしまった。私の耳には、echopop単体の再生で十分だったようだ。オーディオの不思議世界だ。何万円もするスピーカーケーブルよりも、ただの銅線のほうが好みにあう。そんな世界があるという。それが、私のechopopで起こった。
私の耳はしっとりした音を好む。昔、秋葉原にスピーカーの試聴の為に足しげく通った時期があった。米国製のスピーカーより、英国製のほうが好みに合っていた。明るく朗らかなスピーカーより、湿って鬱々とした音が好きだった。そんな私がechopopで満足している。
映画評論家の故淀川長治氏は14型のテレビでも充分だったと聞く。氏は、頭のなかで映像をふくらまし増幅することが出来るのだという。氏の頭のなかに映画館の大スクリーンがあるのだ。そんなギフトを贈られていたのだろう。
私の頭のなかでB&Wのスピーカーが鳴っている。わけではない。そんなわけがあるはずがない。echopopは疲れない。私の枯れた耳と相性がいいのだろう。
この老眼鏡は+0.5。noteに1000文字うつのが限界です。焦点がもう、外れています。枯れ眼鏡と枯れスピーカーです。私は枯れ者です。