ヤバい女にタゲられて人生をめちゃくちゃにされそうになった結果、なぜか小説家になった話【第19話:小説家、ふたたびバイト先に凸される】
最初のときは元バンドメンバーのSから予告があったので心の準備もできたが、2度目は完全に不意打ちだったので、卒倒しそうなほど驚いた。
ひょっこり入店してきたマユミは、まず雑誌コーナーに向かい、そこに僕の本が置いていないとみるや、レジカウンターにやってきた。しかしレジ前にも、僕の本は置いていなかった。
入荷した50冊を、その時点ですでに売り切っていたのだ。僕が勤めていたのはありえないほどフレンドリーな接客をするコンビニで、オーナー一家が常連さんに営業しまくってくれたおかげだった。1店舗で「単行本」50冊をわずか2週間ほどで売り切ってくれるなんて相当すごいことだったのだと、小説家になってキャリアを重ねるほどに身に染みてわかってくる(そのうち10冊はマユミの購入だとしても)。
オーナー一家には本当にお世話になったし、感謝しかない。
というわけで、在庫はすでになくなっていた。
「本が欲しいんですけど」
「大変申し訳ございません。おかげさまで売り切れてしまいました」
とても元交際相手にたいするとは思えない慇懃な口調で伝えると、マユミは「よそで買ってきた本にもサインしてくれますか」と言い出した。意表を突かれた僕は、断り文句を見つけることができなかった。
「じゃあ買ってきます」と、彼女は店を出ていった。しまった。また来るのかよ。
その「また」は、わずか1時間後だった。
てっきり日をあらためるのかと思っていたが、マユミは両手に紙袋を提げて戻ってきた。一つの紙袋につき6冊ずつで、計12冊。
店を出ていったのは夜の10時過ぎで、戻ってきたのは11時ごろだった。そんな時間に営業している書店さんがあるのかと首をひねったが、紙袋には五反田の書店さんのレシートが入っていた。2店舗を回って6冊ずつ購入してきたようだった。
当時、宝島社の担当編集さんにこの話をすると「それ、どこの書店さんですか? 営業に伝えます!」と目を輝かせていた。そういう主旨の話ではなかったのに。あおい書店と、あと1つはどこだっただろう。ブックファーストだった気がする。あの後、営業さんは追加注文をとることができたのだろうか。「営業に伝えます!」というのは、本が売れて在庫がなくなっても書店さんが注文してくれるとは限らないので、営業を通じて注文を催促させるということだ。
この原稿を書くにあたって調べたら、五反田のあおい書店はすでに閉店してなくなっていて、ブックファーストは22時までの営業だった。営業時間が変わったのか、もしかしたら記憶違いがあるかもしれない。22時まで営業の書店さんなら五反田まで行かずとももっと近くにあったはずなので、時間に間違いはないと思うのだが。
僕のバイト先から五反田の書店まで往復1時間は公共交通機関だと無理なので、あのとき、マユミは誰かに車を出してもらっていたはずだ。ハンドルを握っていたのは、おそらく引っ越しのときにも手伝っていた取り巻きのKだろう。車が必要なとき、マユミはだいたい彼に連絡していた。
境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害の女のもとには普通では考えられないレベルで献身する男たちが集まり、小さなカルト教団のようなコミュニティーを形成するのはよくあることのようだが、ああいう男たちはいつまで献身を続けるのだろうと疑問に思う。あの主従に近いようないびつな疑似恋愛関係が、永続的な友情に育つとはとても思えない。
家庭を築くタイミングなどで男が離れていくのだろうか。それとも、女が年老いることで吸引力を失うのだろうか。あの取り巻きの男たちはその後どうしたのだろうと、たまに考えることがある。
マユミは12冊の本を僕に渡し、翌朝取りに来ると言い残して店を出ていった。例のごとく、紙袋にはサイン本の宛名リストを印刷した用紙が入っていた。
客足が落ち着いたころ、宛名リストに目を通して仰天した。
『PHP研究所 ○○様』
『中央公論新社 ○○様』
という表記があったのだ。
さすがにこれはまずい。編集なのか営業なのかわからないが、面識もない業界関係者にデビュー間もない新人作家が第三者を通じてサイン本を送りつけるなんて、傲慢な振る舞いだと受け取られかねない。そうならず、かりにこの献本をきっかけに執筆依頼につながったとしても、マユミに借りを作ってしまうことになる(たぶんマユミの狙いはそれだろう。「私のおかげ」をやりたいのだ)。
どう転んでもいやだ。いやすぎる。
ちなみに現在では2社ともご縁がある。中央公論新社ではすでに3冊出版しているし、PHP研究所でも担当編集さんについてもらっている。もちろん、マユミにつないでもらったご縁ではない。いま思うと、宛名リストの名前をメモしておけば良い話のネタになったのだが、当時はそこまで頭がまわらなかった。
たしか中央公論新社の方のお名前の下には、『八日目の蝉』にかかわった、みたいな(僕にとっては)どうでもいい情報も付記されていた。肩書きだか役職だかも書かれていた記憶もあるが、その内容を覚えていない。角田光代さんの担当編集者ならはっきり覚えているはずなので、そうではなかったのだろう。『八日目の蝉』の映画が公開されたのがその年の4月で、僕のデビュー作の刊行が5月なので、まだ上映中の劇場もあったであろうタイミングだった。
どういうつながりだったのだろう。たぶん先方はマユミの顔と名前すら一致しないぐらいの、薄い縁だと思うが。
商業出版作家からサインをもらえる立場だと友人たちにマウントを取り、僕には出版社に伝手があるのだとアピールすることでマウントを取る。ひたすらハッタリをかまして自分を大きく見せようとする人生は、さぞ疲れるだろう。
ともあれ、さすがに同じ出版業界の人間相手にサイン本を作りたくはない。どうしようか考えた末に、『勝手に営業するとデビュー版元の心証を悪くするので、こちらのお二方についてはサインできません』とメモを添えることにした。実際には専属契約でも結ばない限り、作家がどこに営業しようと勝手だし、そもそも他社に営業をかけたところでデビュー版元がその事実を知りようもないのだが、業界の外の人間にはそのへんの事情はわからない。我ながら角の立たない良い断り方だったと思う。
翌朝も顔を合わせやしないかヒヤヒヤしていたが、その日もマユミは、僕が帰宅した後に本を取りに来たようだった。出版関係者へのサインを断った件については、その後とくにマユミからクレームが入ることもなかった。
それがマユミと直接顔を合わせた最後だった。
しかしその翌年だったと思うが、宅配便の荷物が届いたことがある。
まだあるのか、と、うんざりされた方もいらっしゃるかもしれないが、僕だってうんざりした。
でもこれで本当に最後だ。
ある日、自宅アパートで過ごしていると、誰かが扉をノックした。当時僕が住んでいたのは、呼び鈴すらないボロアパートだった。
扉横の小窓の磨りガラス越しのシルエットで、来訪者が宅配業者の配達員だとわかった。
同時に、なぜかすごくいやな予感もした。
その日は僕の誕生日だった。
配達員さんには申し訳ないが居留守を使っていったんやり過ごし、扉を開けてポストを覗いてみると、不在連絡票が入っていた。
案の定――といっていいのかわからないが、差出人の名前はマユミだった。
マユミと過ごしたおかげで、変なセンサーが働くようになったらしい。
なにを送ってきたのか知らないが、いまさらマユミからの誕生日プレゼントなんて受け取りたくない。
どうするべきか数日考えたが、結局は再配達を依頼することにした。荷物が差し戻しになったことで、不審に思ったマユミが様子を見に来るようなことがあってもいやだった。
荷物は100サイズの段ボール箱で、中には煎餅や棒ラーメンなどの食料が詰まっていた。誕生日感のあるケーキや洋菓子などではなく、まるで一人暮らしの息子を気遣う田舎の母親のような謎チョイスにかちんときた。あんたに気遣ってもらわなくても勝手にやってるよ。むしろあんたと別れて以来、これまでになく生を謳歌しているよ。
食料のほかには、A4のコピー用紙も入っていた。
コピー用紙には、顔も名前も知らない現在の友人たちに囲まれたマユミの写真がコラージュされていた。集合写真一枚ではなく、集合写真をコラージュするセンスが本当に鼻につく。たくさんの友人に囲まれる人気者の私をアピールしたいのかもしれないが、マユミ以外誰一人知らないし。
そして用紙の下のほうには、こんな感じの文言が印字されていた。
――元気ですか。私はご覧の通り楽しく元気でやっています。本は文字が多すぎてまだ読めてないや(汗の絵文字)
鼻で笑ってしまった。
わざわざバイト先のコンビニまで押しかけてサインをもらっておいて、結局いまだに読んですらいないのかよ。
『小説家』という肩書きにしか興味がありませんでした、という本心が透けて見えて、いっそ清々しい。
僕は確信した。
小説家でいる限り、マユミが僕に過大な関心を寄せることはない。なにしろ『小説』にいっさい興味がないのだから。
このままこの道でがんばっていこう。
きっと『小説』が僕を守ってくれる。
それにしても、このコピー用紙に書かれていた文章が、マユミという人間の本質をとてもよく表している気がした。
他人からどう見えるかばかりを気にして、その実、中身は空っぽなのだ。
自分を実像よりどう大きく見せるしか考えていない。
そんなハリボテに、僕は2年半も振り回されていた。
無性に腹が立ってきて、コピー用紙をくしゃくしゃに丸めて捨てた。
食料については少し考えたが、食べ物に罪はないのでありがたくいただくことにした。
その話をすると、そんな気味の悪いものよく食べられるなと友人から驚かれるが、僕は元来、楽天家なのだ。
マユミさえいなければ。
それ以来、マユミからの連絡はなくなった。
(最終回へ続く)
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