ヤバい女にタゲられて人生をめちゃくちゃにされそうになった結果、なぜか小説家になった話【第16話:待ちわびた瞬間】

マユミがアパートを出ていくと宣言してから、実際に出ていくまでは3週間ほどだったろうか。
その間、僕はずっと半信半疑で過ごした。
なにしろ2年半だ。
2年半もの間、あの怪物から逃れようともがいてきた。
マユミの虚言に翻弄されてたくさんの人を傷つけたし、たくさんの人が離れていったし、僕自身も傷ついたし、借金まで背負うことになった。
マユミさえいなければ、続いていた縁も友情もあったかもしれない。
かもしれない、ではない。間違いなくあった。
僕はそれまで大事にしてきた、多くのものを失った。それでもあの女から逃れることはできなかった。
マユミを殺すかもしれないし、マユミに殺されるかもしれないと思った。医者に診せても原因がわからず、途方に暮れるしかなかった。誰も助けてくれないと思い詰めたし、誰にも救いを求めることができなかった。
別れ話を拒否したマユミがアパートの2階から飛び降りたときには人生が終わったと思ったし、うちに居候し始めたマユミに騙されていたと気づいたときには、人生が詰んだと思った。
マユミの浮気相手に妻子がいると判ったときには腹が立ったし、落ち込んだ。このままじっと堪えながらマユミの興味がほかの男に向くのを待つしかないと諦めの境地に至った。
もう自分ではなにもできない。
これ以上、打つ手はない。
いつか訪れる――もしかしたら一生訪れないかもしれない幸運を待つしかないと思っていた。

それなのに、だ。
バンドを活動休止し、短編小説を一本書き上げたとたん、マユミはアパートを出ていくと言い出した。
こちらから別れを切り出したわけでもなく、マユミがほかの男に恋をしたわけでもなく、相変わらず仕事をしたりしなかったりで、たいして貯金もできていないはずなのに。
もちろん、僕としては断る理由などない。
『理解ある彼くん』を演じる余裕すらなく、二つ返事でマユミの申し出を受け入れた。
その後のマユミの動きは早かった。
すぐに取り巻きの男に連絡すると、僕に引っ越しの日取りを伝えてきた。どこに引っ越すのかは聞かなかったし、いまでも知らない。はっきりしているのは、その気になればマユミはいつだってアパートを出ていくことができた、ということだけだ。
その日が来るまで、本当に長く感じた。
たったの3週間だが、約束や宣言を反故にするのはマユミの得意技だ。いつ宣言を翻し、引っ越しを取りやめたと言い出すやもしれない。ここまで来てそんなことになったら、自分を保っていられる気がしなかった。Xデーを待ちわびながらも、ぜったいにこのまま終わるわけがないと心のどこかで決めつけ、ずっと身構えていた。

実際に、引っ越しまであと1週間ほどに迫ったところで、マユミが「引っ越しをやめる」と言い出した。やはりこうなったかと落胆したが、「このまま一緒にいても未来はない」と諭し続けると、案外すんなりと撤回宣言を撤回し、方針を元に戻してくれた。
別人と話しているかのように物わかりが良かった。
これまでとは、明らかになにかが異なっていた。

そしてその日がやってきた。
マユミの取り巻きの男が、ワンボックスカーで荷物を取りに来る手筈になっていた。
マユミの取り巻きの中でも、だいたいこういう力仕事の際に登場するのはKという男だった。前職の上司である森田とマユミは深い仲にあったようだが、Kはおそらく違った。マユミの高校の一年後輩なので、マユミと知り合うきっかけになったAというバンドのメンバーたちとは同級生にあたる。テレビ番組制作会社に勤務しており、マユミのことを「姉さん」と呼んでいた。とはいえべったり慕っていたわけでもなく、招集がかかるといつも「しょうがねえなあ」と迷惑顔で応じていた。「青南さんも大変っすね」などといたわりの言葉をかけられたこともあるので、一時期は僕も心を許していた。マユミから離れるのに、Kが協力してくれるのではと期待したこともあったが、僕がマユミのことを相談したときにふと「……でも、不思議な魅力がある人っすよね」と返され、目が覚めた。Kは迷惑そうにしながらも、マユミから頼られるのを喜んでいた。性愛こそないものの、マユミに心酔したKは、結局『マユミ側』の人間だった。

マユミがKのワンボックスカーを誘導するために外に出た後で、僕もアパートを出た。
引っ越し作業を手伝うつもりはなかった。そんなことをしたら、途中で感傷的になったマユミが心変わりするかもしれない。
向かったのは近所の公園だった。
どこに引っ越すのかは知らないが、いずれにせよ向かうのは、マユミの地元の方角だろう。だとすれば引っ越しの車がその公園の前を通ることはない。
ベンチで文庫本を読んで時間を潰した。なにを読んでいたのかは覚えていない。でも2冊持っていたのは、なぜか覚えている。1冊を読み終えそうだったのだ。
秋だった。
この原稿を書くにあたって確認したら、Yahoo!JAPAN文学賞に応募した原稿ファイルの最終更新日時は2005年9月29日(応募〆切は9月末日)だったので、その3週間後ということになる。10月中旬から下旬にかけての時期だが、それにしては日差しが強かった記憶がある。とてもよく晴れた日だった。
本を読み進めながら、何度も携帯電話で時間を確認した。気が変わったマユミが電話してきたりしないかとヒヤヒヤした。「やっぱり引っ越したくない!」などと涙声で電話してくるのにそなえて、どう対処すべきか頭の中でシミュレーションを繰り返した。
だがそうはならなかった。2時間も経たないうちに『出ました。お世話になりました』というショートメッセージが届いた。
それでも僕は、まだ信じられなかった。
1Kの狭い部屋だし、そんなに荷物も多くなかったので、作業にはそれほど時間がかからない。それにしても早すぎないか? 事前の荷造りはほとんどしていなかったはずなのに。
油断して帰ったらまだ家にいた、なんてことになったら、ショック死してしまいそうだ。途中で引き返してきました、というパターンもありえる。念のため、それからさらに1時間ほど公園で過ごし、自宅アパートに帰った。

事前に示し合わせた通り、マユミが持っていた合鍵はポストに入っていた。
合鍵で開錠し、玄関の扉を開ける。
マユミの姿も、マユミの荷物もなくなっていた。
少しだけすっきりした、しかし結局は雑然とした印象の、僕の部屋だった。六畳間から、マユミの痕跡だけが消えていた。
本当に出ていったのだ。
喜ぶというより、拍子抜けした。
ひたすら悩み続けたパズルの、すごく単純な解法を明かされた心境だった。わかってみればなんのことはない。マユミがタゲったのは僕ではなく、僕のバンドだった、ということらしい。バンド活動をやめた僕には魅力を感じなくなったため、すんなり出ていったのだ。
理屈としては、わかる。
僕の中にもマユミの手から玩具を取り上げてやろうという、ささやかな意趣返しの気持ちがあった。
それにしてもここまで露骨な態度の変化があるとは、まったく期待も予想もしていなかった。
こんなことなら、音楽なんてさっさとやめてしまえばよかったと思う。
いっぽうで、そんなに簡単にやめられるわけがなかったとも思う。
自分の命か、音楽か。
僕にとっては最後の最後に残された、究極の選択だった。
あそこまで追い込まれないと、音楽をやめるという選択肢は浮かばなかった。
けれどあれほど自分と周囲を傷つけるのであれば、もっと早くに決断するべきだった。
とはいえ、その決断をしたところでマユミから離れられる保証など、どこにもなかった。
いまだに正解は見つからない。

とにかく、僕は音楽を犠牲にして、念願の自由を手に入れた。
長い戦いの幕切れは、あまりにあっけなかった。
バンドはなくなり、マユミは去った。
僕には小説だけが残った。
(続く)

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