ヤバい女にタゲられて人生をめちゃくちゃにされそうになった結果、なぜか小説家になった話【第11話:母親に腕の骨を折られる】
1年ぶりに自宅アパートに帰った僕は、急ピッチで生活を立て直し始めた。
以前に働いていたのとは別のコンビニ(今度はローソン)で夜勤のアルバイトを始め、バンドに新メンバーを加入させた。インターネットのメンバー募集掲示板で見つけたギタリストとドラマーは2人ともライブ経験豊富な猛者で、ギタリストにはメジャー経験が、ドラマーには某大物シンガーのバックバンドとしてツアー経験があった。人間的にも馬が合ったし、バンドの演奏レベルはキープできそうだった。
なにより、元ヤ○ザもマユミも介入してこないのが最高だった。
リハーサルの後でマユミの目を気にして急いで荷物をまとめる必要もなく、スタジオのロビーでだらだらしゃべっていられる。
メンバー全員の都合をすり合わせると、リハーサルは深夜になることが多かった。
リハーサルが終わるころには終電がなくなっているので、始発の時間までくだらない話をしながらロビーで過ごし(このとき、これまで付き合ったヤバい女自慢大会になり、マユミの話をしていたことがのちに自分の身を助ける結果になる)、最後にみんなで立ち食いそばを食べて解散する。そのルーティンが本当に楽しくて好きだった。東京に来て最初にバンドを組んだころを思い出した。青春が戻ってきた感覚だった。
しかし、幸せな時間は長くは続かない。
飛び降り事件からおよそ2か月後、マユミからメールが届いた。
本当に申し訳ないことをしたと詫びる内容で、現在は派遣社員として働いており、あれだけ受診を渋っていた心療内科にも継続的に通院してカウンセリングを受けていると近況が綴られていた。そして心療内科の先生から、今後の治療のためにも元交際相手である僕に来てほしいと要望されているとも記されていた。
まさか??
……そう、そのまさかである。
僕はその要望に従い、心療内科に同行してしまったのだ。
まったく、我ながらお人好しを通り越してバカだった。過去の自分をつかまえて、いい加減に目を覚ませとぶん殴ってやりたい。
だけど当時の僕は、マユミが謝罪し、反省の意を示したという事実に本当に驚いたし、大きな進歩を感じとった。一緒にいる間、そんなことは一度もなかったのだ。
このまま治療が上手くいけば、彼女が「普通」になるのではないか、もしその可能性があるのなら、協力するべきではないかと考えてしまった。
飛び降り事件は、僕にとってとても重大な出来事だった。それはマユミにとっても同じで、大きな代償を払った結果、彼女がついに自らの振る舞いを反省し、学んでくれたのだと感動すら覚えていた。
ここで一つ、大事なことを書いておく。
パーソナリティ障害の人間と話し合おうとしてはいけない。
話し合いのテーブルについた時点で、相手の望みは9割方叶っている。
こちらが誠意や熱意を伝えようとしたところで、論理的に説明して筋を通そうとしたところで、相手に想いが伝わることはまずない。反省したり理解したように見えても、それはポーズに過ぎない。わかり合えることなどない。
甘ちゃんの僕には、その認識がなかった。
話せばわかる、という幻想を、まだ捨て切れていなかった。
振り返ってみると、完全なトラップだった。
心療内科の医師の希望に従って病院に同行したはずなのに、僕が診察室に呼ばれることは一度もなかった。
すでに別れた元交際相手を連れてこいというのも、かなり奇妙な話だ。治療にかこつけて僕を呼び寄せたかっただけなのだろう。
僕はマユミの異常さに触れてからずっと、彼女に心療内科の受診を勧めてきた。メンタルヘルスについて無知であるがゆえに、医療への過剰な期待があった。それはマユミにも伝わっていたはずだ。
だからこそ、心療内科への通院を口実にすれば、もっとも誘い出しやすいという計算をしたのだろう。
相手の弱点を的確に突いてくる、本当に卑劣なやり口だと思う。
どこまでが本当なのだろう?
虚言に触れたとき、人はそう考えがちだ。
実はその時点で術中にはまっている。
相手の発言の中で、どこが事実でどこが嘘なのかをその人の感覚で判断してしまうからだ。
何度も言うが、虚言を弄している時点で、普通の感覚が通用する相手ではない。
前提から結論まで、徹頭徹尾すべてが嘘と捉えるぐらいでちょうどいい。
ぜんぶ、嘘。
そう考えることが、あなたの身を守る。
無条件に誰かを信じるなど、美徳でもなんでもない。ただの思考停止だ。
人を見るのではなく、その人の行動を見るべきだ。
行動の積み重ねが人を作り、本物の信用につながる。
二度ほど病院に付き添い、はたして自分の付き添いに意味はあるのかと疑問を抱き始めたころ、スタジオでのリハーサル中にマユミから電話がかかってきた。レンタル料金がかかっているので、基本的にリハーサル中の電話に応答することはない。しかしいつまでもしつこく鳴り続けるので、メンバーがタバコを吸いに出たタイミングで電話に出た。
最初から、マユミの声はただならぬ様子だった。
「お母さんに腕を折られた! もう実家にはいられない! 無理をいっているのはわかってるけど、しばらくあなたの家に泊まらせて!」
いきなりなにを言い出すんだ。
母親に腕を折られるというのも意味不明だし、だから僕の家に泊まらせろという理屈もおかしい。
当然そう伝えた。
母親に腕を折られたのは気の毒だけど、頼るべき相手は僕ではない。
ほかをあたってくれと。
だが「ほかに頼れる人間がいない」と、マユミは涙声で懇願する。
そんなことはないだろう。マユミの周辺には、やけに彼女に献身的な数人の男がいた。とくに、前職の会社の上司だったという森田は自身でサーバーレンタルの会社を経営しており、それなりに羽振りもよさそうだった。少なくとも借金を200万円背負った実質フリーターのバンドマンより、よほど頼りになったに違いない。
だいたい、僕たちはもう別れた。
これ以上ないほど強烈な終わり方をした。
飛び降り事件は、誰から見ても明白なピリオドになったはずだ。
なんにしても、母親に腕を折られたというのが厄介だった。
「自分の家に帰りなさい」と救いの手を差しのべてくれたのは、マユミの母親だった。その母親とトラブルを起こしたというのだ。
この様子だと、マユミの母親を頼ることはできない。そもそも僕は、マユミの母親の連絡先を知らなかった。マユミの話が事実なのか、どういう経緯でこうなったのかを確認するすべがない。
変わる努力をしているのなら、後押しはしてやりたい。
だがそれは、よりを戻したいからではない。
でも彼女にはどうでもよかったのかもしれない。どういう理由であっても僕が手を差しのべた時点で、マユミにとっての「つけいる隙」になってしまった。善意は彼女の餌だし、やさしさは弱さにしか映らない。話し合いのテーブルについた時点で負けていた。
そのときはなんとか申し出を断ったものの、心療内科への付き添いがある。
次に会ったとき、マユミは包帯を巻いた左腕を三角巾で吊っていた。
腕を折られたというのは、本当だったのか。
……と、アホな僕はすんなり信じてしまった。
包帯や三角巾ぐらい調達するのは簡単だろうに。
本当に骨折していたのか、いまとなっては疑わしい。
でも当時は信じてしまった。
以前からマユミには、両親に虐待されていたという話を聞かされていた。
マユミが昏倒して港区の病院に救急搬送された際、両親も病院に駆けつけたが、父親はぐでぐでに酔っており、看護師に怒声を浴びせていたことを思い出した。
母親はアパートから飛び降りた娘を引き取ってくれたが、それまではとても冷淡だった。
家族のかたちなんてさまざまなので正しいあり方なんてない。それでも愛情にあふれた家庭とは言いがたいという印象を受けていた。卵が先かヒヨコが先か。この家庭環境が怪物を生み出したのか、怪物のせいで家族関係が歪んだのかなどと、考えることもあった。
マユミの三角巾を見ながら、これまでの違和感の答え合わせをされている気分だった。
だがその後に起こったことを考えると、僕が都合よく組み合わせたパッチワークは、実像とかけ離れていたのだろう。
マユミが母親に腕の骨を折られたのは、事実。
マユミは幼少期から両親による虐待を受けていたのも、事実。
マユミがこうなったのは、荒んだ家庭環境が原因。
よってマユミの両親には期待できない。
マユミを立ち直らせるには、両親のもとに預けていてはいけない。
おそらくぜんぶ違う。全問不正解だ。
マユミの話は、どこまでが本当なのだろう?
そう考えた時点で負けだった。
僕はマユミが自分のアパートに居候するのを、許可してしまった。
(続く)