ヤバい女にタゲられて人生をめちゃくちゃにされそうになった結果、なぜか小説家になった話【第18話:小説家、バイト先に凸される】

バンドをやめて小説家を目指して投稿生活に突入した僕は、3年ほどで借金を完済し、2010年に『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞、翌2011年5月にデビュー作が刊行された。もちろんその間それなりに山あり谷あり(山はないか、谷ばかりだ)だったけど、この連載の主題はあくまで「ヤバ女話」なので、そのへんは機会があればまたあらためて。
デビュー作が発売された時点で、僕はまだコンビニの夜勤バイトを続けていた。オーナーは僕の小説家デビューをとても喜んでくれ、本部と交渉して僕の本を店頭で販売できるよう手配してくれた。レジ前と雑誌コーナーの棚に、僕の本を並べて売ってくれたのだ。

5年の歳月が流れ、マユミからの連絡もさすがになくなり、激烈きわまりない2年半のトラウマも薄れてきていた。希望に満ちあふれているとまでは言わないものの、小説家としてのスタートラインに立つことができて、少しずつ人生が前に進んでいる感覚があった。
そんなある日のことだ。
昼夜逆転生活を送っていた僕は、夜勤開始の1時間ほど前に起床し、身支度を始めた。
といっても、シャワーを浴びて食事をするぐらいだ。当時はまだ喫煙していたので、目覚めの一服を吹かしたりしていただろうか。
ふいに携帯電話に着信があった。
友人Sからのメールだった。
上京して最初にできた友人で、結成から活動休止まで僕のバンドでベースを弾いてくれた元バンドメンバーだった。メンバーの出入りの激しかったうちのバンドで唯一不動だったのは、付き合いが長いおかげでマユミの虚言に惑わされることがなかったからだろう。
Sからのメールの内容は、こうだった。

『今晩、マユミさんがローソン(僕のバイト先)に行くそうです』

あまりに予想外のことが起こると、人間は即座に反応することができないものだ。
何度かメールを読み返した後で「は……?」と声が漏れた。
まったく意味がわからない。
マユミの行動の意図も、それをなぜSが知っているのかも。
慌ててSに電話をかけた。
Sが言うには、マユミは僕の本にサインをしてもらうつもりでいるらしい。
自分のぶんだけでなく、友人一同(あくまでマユミがそう思っている相手)にサイン本希望者募集のメールを一斉送信しており、そのメールがSのもとにも届いたという。
あれを真に受けたのかと、僕は頭を抱えた。
当時僕はブログに駆け出し作家の日常を綴っていた。
勤務先のコンビニに僕の本を置いてもらったことも書いていて、もしお店に来てくれればサインしますよと、そのときの記事を締め括っていたのだ。
もちろん、店舗の場所もチェーン名すらも明かしていないので、ほんの軽い冗談にすぎない。あのブログを読んだ人が実際に僕の勤務先を訪ねてくるなど想定していないし、期待もしていなかった。
まさかマユミが、僕のブログをチェックしていたとは。
それにしても一斉送信で希望者を募るというのが、いかにもマユミらしい。
サイン本希望者を募るという口実で、商業デビューした作家と知り合いだと人脈をアピールし、自分を大きく見せようとしているのだろう。マユミは昔、僕にたいして有名若手俳優や売れっ子アイドルの名前を挙げてマウントをとったが、いまでは僕の名前をマウントに利用するようになったのだ。まったく感慨もありがたみもないランクアップをはたしたようだ。
もっとも、マユミが名前を利用していた芸能人たちと違って、かつて近い関係にあったのは事実だ。そのぶん、マユミへの嫌悪と拒絶反応も大きいのだが。

バイトを休むことも考えたが、シフト開始まであと30分しかない。
とても代わりを見つけられそうにないので、覚悟を決めて出勤した。
その日の仕事の相棒は、大学生バイトだった。
バイト先の同僚たちには、つねづねマユミのことをネタとして話していた。このnoteを読んでくださった方には僕のフラッシュバックを心配してくださる方もいるが、マユミネタは普段から笑い話として消費しているのでどうぞご心配なく。文章だとどうしても深刻に捉えられてしまうのは、僕の筆力不足のせいかもしれない。いやまあ、深刻なのは深刻なのだが、笑い話にでもしないとやっていられないのだ。「バカじゃないの」とか「ヤバいっすね」と笑い飛ばしてもらうことで、問題の深刻さが薄れる気がして楽になるので、僕は自分の身に起きたことを積極的に友人に話すことにしている。

「前に話したヤバい女、いるじゃん? あの女がさ――」

お客さんが途切れたタイミングを見計らって、僕は相棒にSから電話で聞いた内容を話した。

「いやあ、ありえないでしょ。さすがに来ないんじゃないっすか?」

相棒から笑われると、そんな気もしてきた。
というより、そうであって欲しかった。
僕にした数々の仕打ちを思い返せば、僕の前にのこのこ現れるなんてできるはずがない。
だが常人の感覚など通用しないからこそ、あんな酷い仕打ちができたとも言える。
マユミは普通にやってきた。

夜の11時か12時ぐらいだったろうか。
しれっと入店してきたマユミが、雑誌コーナーの棚に置かれた僕の本を何冊か両手で抱え、真っ直ぐレジに向かってきた。
僕は完全に硬直したまま、目だけでその動きを追っていた。
5年以上の月日を経てとっくに支配から解放され、代わりに怒りが募っていた。普通に付き合って普通に別れた相手なら、街で見かけても「久しぶり」と声をかけるぐらいはするだろう。だがマユミは違う。
編集者との打ち合わせでマユミの話をすると「ってことは、佐藤さんが作家になれたのは、その女性のおかげですね」といわれることがある。その見方も間違ってはいない。マユミに出会わなければ、僕は音楽をやめていなかった。バンド活動が順調で忙しいままだったら、小説を読み始めることすらなかったかもしれない。こっそり自宅に帰って映画を観まくっていたこともそうだが、当時の僕にはフィクションが精神的な避難所になっていた。おかげで大量のインプットにつながった。
だからといって、感謝する気には到底なれない。きっかけはマユミと出会ったことだし、マユミと出会わずに音楽を続けられたところで、ものにはならなかっただろう。けれど、どうせものにならないからという理由で、他人から大切なものを奪う権利は誰にもない。
その後小説を書き始めて小説家になったのは、あくまで幸運に恵まれた結果に過ぎない。
巡り合わせが悪ければ、マユミに潰されたまま立ち直れなくなった可能性もじゅうぶんにあった。
不本意なかたちで人生の2年半を奪われた憎むべき相手というのが、マユミにたいする僕の認識だった。時間を経るごとに、友人にマユミの話をするごとに、その思いは強まっていた。怒ってもいい。むしろ、怒るべきなのだ。
だから、もしもマユミが店に押しかけてきたとして、顔を見たらぶん殴ってしまうかもな、などと、相棒には冗談めかして話していた。

ところが、だ。
上目遣いの笑顔にたっぷりの媚びを含んだ、まったく悪びれない態度を目の当たりにしたとき、一瞬にして恐怖が怒りを上回った。以前の恐怖がよみがえったというより、異常さを再確認した。街で明らかにヤバい人を見かけたときの肌感覚に近いかもしれない。
なんでこんな、はにかんだような笑顔で僕を見つめることができるんだ。
僕らの間になにがあったか、覚えていないのか。
覚えているのに、この表情ができるのか。
信じられない。
とても自分と同じ人間とは思えなかった。

「あと4冊、欲しいんですけど」

マユミから言われ、僕はレジ前のテーブルを手で示した。

「そちらにございます」

自然と敬語が出てきた。
ぶん殴るなんてとんでもない。こんな頭のおかしい人間とは、かかわらないのがいちばんだと思った。用件を済ませて、さっさとお引き取りいただこう。
計10冊のお買い上げ。
マユミはそのすべてに宛名入りのサインをしてほしいと要望したが、僕が勤務していたコンビニは駅前立地の上に付近に競合店もなく、終電の時刻まではかなり忙しかった。電車の到着とともに、駅から吐き出された人波が店内に流れ込んでくる。サインなどしていられる余裕はない。
そう伝えるとマユミは、朝に取りに来るから夜中のうちにサインしておいてくれと言い残し、宛名リストの印刷された用紙を置いて立ち去った。あらかじめ宛名リストを印刷して持参するところなど、気の利く仕事のできる女っぽい演出のあざとさも、相変わらずだと思った。ちょっとかかわる程度の相手なら、この気配りの細やかさにコロッと騙されてしまうのだ。
翌朝にふたたび顔を合わせることになるのかと憂鬱だったが、マユミがサイン本を取りに来たのは、僕が帰った後だったようだ。

今度こそ終わった。
もう二度とマユミと顔を合わせることもないだろう。
と思いきや、信じられないことに、マユミは一週間後にまたやってきた。
(続く)






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