ヤバい女にタゲられて人生をめちゃくちゃにされそうになった結果、なぜか小説家になった話【第13話:まやかしの希望と首吊り自殺未遂】
マユミが無職になってしばらく経ったころ、僕は彼女を婦人科に連れて行った。
きっかけがなんだったのか、はっきりと覚えていない。テレビ番組だったか、なにかの本で読んだか、あるいは誰かから話を聞いたか、マユミ自身が言い出したかもしれない。そのへんは曖昧だ。
僕はマユミが子宮内膜症かもしれないと疑っていた。
子宮内膜症が酷くなると、やる気が出ない、攻撃的になる、苛々するなどの気分障害が高頻度で表れるらしいのだ。パーソナリティ障害についての知識はなく、うつ病でこんなに激烈な症状が出るのもおかしいと疑い始めていた。
とにかくマユミの異常な行動の原因を究明したかった。もちろん愛情があるからではない。そうしないと、この女から逃れられないと思っていた。病気が原因ならさっさと治して一刻も早く離れたいという一心だった。
その日、診察室から出てきたマユミは、晴れやかな顔でこう言った。
「どうしてもっと早く来なかったのって、先生から怒られちゃった」
パッと目の前が開ける感覚があった。
そうだったのか、そうかそうか、子宮内膜症だったのか。
メンタルヘルスの病気だと思っていたけど、違ったらしい。
どうりでこれまで治療やカウンセリングを受けても、いっこうに改善しないはずだ。
よかった。
めでたしめでたし。
となるわけがない。
ずっと僕の『ヤバ女話』を追いかけてくださった読者の方なら、もう予想がつくだろう。
たぶん、嘘だった。
心療内科でも婦人科でも、やることは同じだ。密室で交わされた会話を、僕は知りようがない。医師の言葉をいかようにも捏造できる。まともな人間はそんなことをしようと思わないだけで。
薬を処方してもらって帰宅したものの、状態がよかったのはせいぜい3日ぐらいだろうか。マユミはすぐに平常運転(一般から見たら異常)に戻って、本来の用途とは違う目的で包丁を握っていた。その後、その婦人科には一度も通院していない。
振り返ってみると、当時の僕の失敗は、明確な原因を追い求めてしまった点に集約されると思う。
こんな言動、普通ならありえない。こんな振る舞いはおかしい。きっとなんらかの病気に違いない。だから治療さえすれば、マユミが『普通』になるに違いないと信じていた。
人生経験が乏しかったせいで、僕から見て『異常』な状態が『普通』の人もいるのだという想像が及ばなかった。
この点については、本当に反省している。
そもそも自分を基準に他人を『異常』と決めつけ、治療を施すことで矯正しようとする姿勢は、よかれと思ってにしろ、自分こそが『普通』なのだという、ある種傲慢な前提がある。
そして自分の物差しを他人にも当てはめるから、パーソナリティ障害者の虚言を信じてしまう要因にもなりえる。
世の中にはいろんな人間がいる。
虚言を弄して人に迷惑をかけない。
自死をほのめかして要求を押し通そうとしない。
それは僕にとって当然のことでも、そうでない人も存在する。
当然のように信号無視する人、当然のようにタバコの吸い殻を排水溝に捨てる人、当然のようにビニール傘をパクる人、当然のように公衆トイレのトイレットペーパーを持ち帰る人。
犯罪や迷惑行為でなくても、付け合わせのパセリを食べるかどうかとか、目玉焼きには醤油かソースかとか、『普通』の基準は、人それぞれだ。肩がぶつかっただけで謝る人もいれば、殺人を武勇伝として自慢する人もいる。
すべての人とわかり合えるわけではないし、それを望んでもいけない。
いまではそう考えるようになった。
もっとも、当時の僕はマユミを病気と決めつけたというより、病気であって欲しいと願っていた、というのが正しいかもしれない。
あまりに理解の範疇を超えることばかり起こって、とにかく原因を求めるしかなかった。
あのころ、ありとあらゆる可能性に飛びついたのは、新興宗教に救いを求める心境に似ていたのかもしれない。
理解の範疇を超えるといえば、こういうこともあった。
ある日の夜勤バイト明けのことだ。
帰宅した僕は、自宅アパートの扉を開いた。
当時の僕のアパートは、六畳一間に狭いキッチンがついた1Kの間取りだった(そんな狭い部屋で悪魔のような女と同居していたのだ)。
六畳間とキッチンは、磨りガラスの嵌まった障子戸で仕切られていた。障子戸を閉じていると、玄関から六畳間は見えない。ただ、磨りガラスなので部屋が明るいか暗いかはわかる。
そのとき、磨りガラスの奥は暗かった。
僕は安堵しつつ、靴を脱いだ。
暗いということは、マユミはいない。派遣の仕事に出かけてくれたと思った。彼女が仕事に出かけてくれることで自立が近づくし、僕自身が一人になる時間も確保できる。
しかし障子戸を開くとマユミがいて、全身から力が抜けるような感覚に襲われた。
マユミは床に横たわっていた。
目を閉じて仰向けになり、眠っているようだ。
ただ、眠っている場所がおかしい。
マユミが眠っているのは、ロフトベッドの下だった。
ロフトベッドとは、ベッドの下のスペースを有効活用できるように支柱が高くなった、ハシゴ付きのベッドだ。当たり前だが、ベッドマットの上で寝るのが正しい使い方だ。しかしそのときのマユミは、ロフトベッドの下のスペースで横になっていた。
「なにやってんの」
そもそも、なんでいるんだよ。
今日も仕事を休みやがって、という苛立ちもあり、僕はやや乱暴に問いかけた。
マユミは反応しない。
どこかからかすかにシャカシャカ音が聞こえると思ったら、彼女は両耳にイヤホンを装着していた。耳を澄ませると、イヤホンから漏れているのは僕の曲だった。大音量で音楽を聴いていたらしい。
近づいてさらにマユミを観察すると、彼女の首にストッキングのようなものが巻きついているのに気づいた。スカーフみたいに首に巻き付いた生地の先端には、強引に引きちぎられたような痕跡があった。
なにが起こったのか理解できずに、僕は視線を巡らせて周囲を観察した。
マユミのすぐ上は、ロフトベッドの底面だった。マットレスを支えるために、横方向に鉄パイプが渡されている。その鉄パイプにも、ストッキングのようなものが巻きつけられていた。だらりと垂れた先端は、やはり引きちぎられたようになっている。
ようやく理解して、心臓が止まりそうになった。
マユミは鉄パイプにストッキングをかけて、首を吊ろうとしたのだ。しかしマユミの体重にストッキングが耐えきれず、切れた。マユミはそのまま倒れ込み、意識を失った。
頬を平手打ちしながら呼びかけを続けると、マユミはほどなく意識を取り戻した。受け答えも問題なくできたので、救急車は呼ばなかった。
あのときは心底うんざりした。
頬を張りながら懸命に呼びかけたのも、彼女の身を案じたわけではない。僕のアパートで自殺なんかされると面倒なことになる。ただそれだけだった。
たいして意味もないためし行動なのはわかっていたので、理由すら訊かなかった。本気で死のうとするなら、簡単に切れるストッキングを使わない。本当に意識を失っていたのかすら怪しいものだ。
その後なにもなかったかのように日常生活に戻ったのだから、僕の感覚も相当麻痺していたのだと思う。
そういう行為でしか他人の関心を引けないのは哀れだが、同情を寄せるには、僕はあまりに振り回されすぎていた。それまでに何度も手を差しのべては裏切られてきた。僕の曲を大音量で聴いていたというのも、当てつけめいていて不愉快だった。
それでも、ためし行動がエスカレートして本当に命を落としてしまうこともあるだろう。あのときだってたまたまストッキングが丈夫でマユミの体重に耐えられたら、取り返しのつかないことになっていた。あれだけ自殺未遂を繰り返していたら、ちょっと力加減を間違えただけで一線を越えてしまう可能性だって、じゅうぶんに考えられる。きっとそういう経緯で亡くなったパーソナリティ障害者も多いはずだ。
そんなつもりはなかったのに、たまたま亡くなった。
そのたまたまに立ち会わされるのだけは御免だった。
マユミがどうなろうが、本心では知ったことではない。むしろどこか出かけた先で、不慮の事故に遭って死んでくれればいいのに。
そんなことを考えるぐらい、内心は冷え切っていた。
マユミはアリバイ作りをするかのようにたまに働きに出ては、すぐに辞めるのを繰り返していた。いっこうに貯金している気配がない。自立するつもりなど毛頭なさそうだった。
だからといって、うかつに別れ話を切り出すこともできない。
うっかり別れ話になったとき、一悶着あった。アパートの前で「助けて!」と大声でわめき散らされたのだ。マユミのアパート時代にもやられたことがあるが、あのときは所詮、他人の家だった。同じことを自宅の前でやられると生活の基盤を揺るがされるようで、恐怖の大きさが桁違いだった。
ただ、マユミのアパート時代よりも衝突の回数自体は減っていた。それはマユミが落ち着いたわけでもなんでもなく、僕がマユミの扱いに慣れたからであり、初期消火に尽力したからだ。
おかしいと思ったことは、おかしいと意見する。
嫌なことは嫌だと、はっきり表明する。
当然のように行っていた意思表示を僕が呑み込めば、マユミとの衝突の回数も、その激しさも軽減される。マユミの望み通りに動くロボットを演じれば、表面上は仲の良いカップルを装える。
しかしマユミの扱いに慣れるということは、『異常』と思える振る舞いこそが彼女にとっての『普通』であり、治療や矯正など不可能だという事実を受け入れることだった。この人は変わらない。けっして反省もしないし、失敗から学ぶこともない。そもそも失敗を失敗と認めてすらいない。この期に及んで、僕はようやく理解しつつあった。
他人を利用することしか考えない、悪意を具現化したような邪悪な人間は、この世に実在する。
マユミとの付き合いを通じて、僕のほうが学習させられた。
ただ、いかんせん気づきを得るのが遅すぎた。
アパートに居候させるだけ。
バンドのライブを観に来るだけ。
カメラマンとしてライブの写真を撮影するだけ。
スタッフパスでライブハウスに入り込むだけ。
以前とまったく同じようにゴールラインを動かされ、マユミの望み通りになっていた。
ふたたび自分の人生を奪われつつあった。
そんな状況に手をこまねいているしかなかった。
ところが、そんな僕に降って湧いたようなチャンスが訪れる。
マユミがアパートに転がり込んできて、すでに一年が経過しようとしていた。
(続く)
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