オルタナ系うろうろ派
うろうろ派ってよき名前じゃね?
今年は息子さんの一時帰国と年末年始に親子で小規模パンデミック(といえば事件ぽいがいわゆる家族で体調不良)をくらい疲労感満載であった。その後息子さんはカナダに帰国、専門課程後半、勉強は益々難しくなっている模様。18歳で大学2年、大変だと思うけどまずは生きて。
じゃあ自分はどうするのさ。
なわけで。
そこで思うのはやっぱり「ピン活動」って大事って思う。個人が確立されてこそ連む楽しさがバイバイゲーム。
考えてみたら、私は赤子であった息子を連れて美術界隈を回るってのは(親として都合の良い)ピン活動だった。でも考えてみたらよく続けてきたと思う。だって今年で19年ですよ19年。19年ってすごくない?
そういえば最近大河ドラマ「べらぼう」が始まった。私「大吉原展」を拝見して「女郎の生活環境の酷さ」に涙したので気持ちをどう向けたらいいのかまだ決めかねてる、でも私気がついた。この「女郎の生活環境の酷さ」を現代の私が知るためには「それを書き残した女郎」が存在したってことでは?
女郎は客に手紙を書くために読み書きは必須だったとのこと。そしてこの木記録は困窮を訴えるために遊女が自ら書き記したもの。展示があったそうで2020年だったので私は日本にいなかったので行けなかったと思われる。
一人の筆まめの遊女の記録が数百年の時を超えて多くの人の心を打つ。もちろんこれを書いた遊女はこのような未来を想像もしなかっただろう。
私は時々考える。私が美術を見てまわる意味ってなんだろう?って。ギャラリーに行ったからといって私は購入できるわけでもない。美術館に行ってもただ見てるだけ。私は文化的に何か貢献してるのか?って。
でも遊女の記録が何百年も後の未来に多くの人に読まれるように、私の記録だって数百年の後、誰かが読むかもしれない。そう思うと「万人にわかるように」だけでなく「どんな人がどんな気持ちで書いたか」が見えた方が面白いんじゃね?と思うのだ。
誰かわからんけどそこに確かに生きていた人が書いた文章の方が、数百年後の人間は面白く読んでくれるのではないか。
メジャーとの反対語として「オルタナティヴ」という言い方が流行っている。私が19年前に始めた「赤子と現代近代美術を鑑賞」は明らかに「オルタナティヴ」だ。でもそこで私は何をしてきたのかを文化的に定義しなくてがあかん、とどこかで思っていた。
でも数百年経てば「そこに生きていた」ことそのものが文化的定義なのかもしれない。
あえて言うなら(美術を連まずうろうろ鑑賞していたのだから)「オルタナ系うろうろ派」。なんとか思考とかそういうの、あたしはちょっとよく解らないし、そういうのを語ってる本や話を聞いてる人の7割は(本当はよくわかんない)って思ってるとあたしは思ってる。(私はそういうかっこいい思考は出来ないのよ、育ちが良くないから)
「オルタナ系ウロウロ派」。
ちょっと気に入ってる。今後更にウロウロ派を極めていきたい。