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その水面を見つめていられているのかどうか

先日、息子が2歳の誕生日を迎えた。
朝、2年前のことを思い出した私は、「あの日は大変だったなぁ」と、ふとつぶやいていた。

あの日から2年。
柔らかな宇宙人のようだった彼は、少し覚えた単語を駆使しながら、表情豊かに色んなことを話し、歩いたり走ったり踊ったり、賑やかに過ごしている。性格は穏やかだけれど、やや怖がりなようで、電車や車が大好きなのに、そのおもちゃが電動で動いたりすると「くわい(怖い)」と離れていく。

そんな息子との何気ない日々は幸せで尊いと思う。
ただそれなのに不思議なのは、毎日全エネルギーを注ぎ見つめているはずの彼の日々の成長を、他のもののようには記憶していられないのだ。
それは例えるなら、まるで水面を見ているかのようだ。

2年間の「母」という役割をしてみて特に思ったことは、「血のつながり」や、世間が子を持った女性に持つ「母」という特別なイメージは、全くもって無意味だということだ。

正直、出産や授乳など女性の体しかできないことは、命懸けだし体力勝負だし、それが終わった私の体はもう、金魚掬いで金魚を持ち帰るビニール袋が破けて水も金魚も全部でた後のようにボロボロなままだけれど、だからこそある意味大変すぎてほとんど忘れてしまっている。

そして少し大きくなってからの育児も体力気力勝負の連続で、たまに一人の時間をもらったりすると緊張が途切れ、途端に「母でもなんでもない自分」を謳歌し、家に帰る時に「よっこいしょ」とエンジンをかけ直す。

出産だって何が起こるのか怖くて仕方がなかったし、授乳だって離乳食だって病気の対処だってどうするのかわからなかった。
「母」とは結局、そんなものなのだな、と思う。

それでもその水面のような彼を本当に見つめられているのか?と不安を抱えながらもやっていく時間と経験が、私たちを「親」にさせるのだと思う。

結婚する前は結婚したら何か変わるかな、と思っていた。
出産する前は出産したら何か変わるかな、と思っていた。

しかし、まだまだ母親3年目の私は、しぶとく私のままだった。

浮かぶカメを見る息子


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