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佐賀 吉野ケ里遺跡 名護屋城 佐賀城唐津城 シシリアンライス 小倉城:小さな旅 ひとり旅 旅行 旅行記 Low vision
ヨロモタひとり旅 佐賀編
年齢を重ねると筋力、耐久力、視力、聴力など「力」と名の付くパワーが低下してくるようですが、好奇心だけは一向に衰えないみたい。メディアから日々溢れてくる話題の中から、「ビビッ!」と自分のアンテナに引っかかった記事を、本やネットで深堀して、さらに好奇心が広がってくる毎日。心はいつも二十歳代なんだよね。
そんな心と身体が解離した爺さんが、ヨロヨロモタモタしながら、またまた、ひとりで旅してきました。今回は佐賀への旅。
佐賀県は、今までに何度も通ったことがあるが、一度も降り立って散策したことはない、いわゆる通過するだけの県だったのです。
私の頭の中には、幕末から明治維新の時代、薩長土肥と呼ばれ、活躍した藩であることや、焼き物で有名な唐津があるという程度の知識しかなかったのでした。
それなのに、今回、ひとり旅をする目的地として佐賀を選んだ理由は? それは、ただひとつ、吉野ケ里遺跡を見たいという、その一念だったのです。
私は日本史が好きで、若いころから歴史小説、特に戦国時代から幕末、近現代史をメインに読んできました。
ところが、還暦を過ぎた頃、ふとしたことから吉川英治の「新 平家物語」に出会い、感動し、古代史への扉を開けてしまったのです。
それ以後、私の歴史的興味は、平安時代から奈良時代、飛鳥時代から古墳時代へと時代はさかのぼり、今は、古代史のロマンに魅了されています。それで吉野ケ里遺跡を見たくてたまらなくなったというわけです。
とはいえ、年と共に視力が低下し、足元が見え難くなり、ヨロヨロ モタモタしている自分。そんな自分に不安や転倒のリスクを感じながらも、旅の感動と驚きを求めて、ひとり旅に出かけたのでした。今回も船中二泊、ホテル三泊での佐賀の旅となります。
佐賀の旅 一日目 小倉行フェリー
松山から小倉までフェリーで移動。夜九時五十五分松山観光港を出港し、翌朝五時に小倉港に入港。
この松山・小倉フェリーは、老朽船で、はっきり言ってあまり乗り心地は良くありません。でも、内装はリニューアルしているので、以前よりはずっと快適になった印象。でも利用客が、以前と比べて格段に少なくなっているので申し訳ない気持ちでいっぱいです。経営も大変なのでしょう。エコである船での移動をもっと利用してもらいたいものですね。
ひとり旅の時は、旅費節約のため、いつも二等寝台を利用しています。二段ベッドの六人部屋ですが、今回は、行きも帰りも私ひとりでした。だから気分は一等室です。この広い空間をひとりで占領している贅沢感、ありがとうございました。明日は、朝早いので乗船したらすぐ睡眠モードに入ります。おやすみなさい。
佐賀の旅 二日目 三重津海軍所跡の歴史館
早朝五時小倉港着。薄暗い道をてくてくと小倉駅に向かいます。これが結構遠いので、早朝の移動ということもあり、ちょっと寂しい気持ちになるのです。
JR小倉駅から、特急ソニックで博多へ。博多で、特急きらめきに乗り換えて、佐賀に七時半に到着。
いつも思うのですが、JR九州の車両はとてもオシャレですよね。特急ソニックに乗車した時も、レトロなカフェのような雰囲気の室内に対面の座席があり大感激!
ーー恋人同士でこの席に向かい合ったら絵になるなぁ~! おっさんは遠慮しとこか。
JR佐賀駅南口を出て、いつものように振り返って佐賀駅の駅舎を眺めます。
ーー佐賀駅か、高架式の普通の近代的な駅やな。何か面白い佐賀らしいアピールはないかな?
ぱっと見たところでは、佐賀らしいデザインはないような感じ、でも駅のすぐ左にAコープがどんとあるし、右には今夜宿泊するホテルがあって環境としては超便利かな。
佐賀市は、人口二十三万人の県庁所在地で、JR佐賀駅前はすっきりと整備されている。駅前ロータリーの周囲を囲むように有名ホテルが林立し、その前を草場公園通りが線路と平行に、そして中央を本丸通りが南に向かって真っすぐに伸びている。
ーーそれにしても草場公園ってどこにあるのかな?
と探してみたら、南口を出てすぐ右前にありました。小さなかわいい公園ですが、電車が見えて、幼児用の遊具もあり、ほっとする憩いの空間ですね。
さて、まずはバスで目的地に移動しましょう。案内には佐賀駅構内の廊下を左方向にまっすぐ進むと、佐賀駅バスセンターがあるとありました。廊下の左右には、お土産物や菓子店などのショップが並んでいてにぎやか、その間をどんどん歩いていくのですが、バスセンターがありません。ついに車の通過する道路に突き当たってしまいました。
ーーあれ? おかしいな。ネットでも改札を出て、左の通路を直進と書いていたんだがなぁ。
信号が青になったので道を渡ると、そこには、ちゃんと佐賀駅バスセンターがあるではありませんか。大変失礼しました。
バスセンターに入って、これまたビックリ! 白い柱に、真っ青な気持ちのいい色の案内標識が大きく表示されているではないか。行先が大きく書かれているのでとっても分かり易い。
各乗り場の上部にある大型液晶には、次々と到着するバスの情報が表示され、その下には、青地に白い大きな字で、乗り場番号や行先番号が書かれていました。デザインがさわやかで、しかも分かり易い。
ーーこれは分かり易いなぁ。素晴らしいバスセンターだな。
周りを見ると、通勤時間帯なので、各のりばには長い列ができている。早く並ばねば……
あらかじめネットで調べておいた、のりばに直行しバスを待ちます。なんとか時間どおり、三重津海軍所入口行きのバスに乗車できました。
佐賀駅から、南の方向にある有明海に向かってひたすら走り、約三十分で三重津海軍所入口に到着しました。
初めて訪問した土地でのバス移動は、不安なものです。目的の停留所に、ちゃんと行けるのかどうか、乗る時にアナウンスしていないし、バスの案内板にも掲示してない。(と思う)
私は、乗車口で、必ず大きな声で「○○に行きますか?」と聞くことにしています。乗車しているお客さんの視線を、しっかり感じますが、恥ずかしいなんて言っておれません。年を重ねるというのは、こういった図太さが備わるということかな?
三重津海軍所入口の、バス停に降りたのは、私一人。比較的トラックなど大型車の交通量の多い道路で、周囲は一面の田んぼ。そこに、ポツンと、停留所と私、ちょっと心細い気持ち。
「三重津海軍所はこちら」
「三重津海軍所へようこそ!」
などの案内板を探したのですが見あたりません。
ーーそういえば少し歩くようにホームページに書いてあったかな?
いつものようにグーグルマップを起動し検索しましょう。徒歩七分の所にあるのを見つけ、ほっと一息。
博物館は、九時開館なので、まだ時間はあります。先に、帰りに乗るバス停や、時刻表を確認しておきましょう。
観光地やミュージアムに、バスなどの公共交通機関を利用する人は少なく、便数は、まばら。帰りも、しっかり時間を確認しておかないと大変なことになります。旅行前にネットで調べて計画はしていますが、ネットでの内容と、異なることも少なくありません。帰りの便が、予定どうりであることを確認し、とりあえず、一安心。
周囲の景色などを楽しみながら、ゆっくり海軍所跡までお散歩といきますか。のどかな田園地帯を歩いていると、数分で住宅街になっていました。ぼちぼちでしょうか? 博物館を見学する前に、少し予習をしておきましょう。
佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館
三重津海軍所跡は、幕末、佐賀藩の洋式海軍の拠点だった場所で、海軍教育や洋式船の修理、日本初の実用蒸気船の建造が行われるなど、日本における造船分野の先駆けとなった施設です。明治日本の産業革命遺産の構成資産として、世界文化遺産に登録されています。
佐野常民(さの つねたみ):日本赤十字社の父
佐野常民は、大阪や江戸で緒方洪庵、伊東玄朴らの門弟となって、蘭学、医学などの学識を深め、三十一歳の時に佐賀藩 精煉方において、さまざまな理化学研究の指揮をとり、蒸気船・蒸気車の雛形、電信機の製作を行いました。
明治時代になると、常民は新政府へ出仕。洋式灯台建設や博物館の創設・博覧会の開催など多くの業績を残しています。
また、日本赤十字社を設立し、初代社長に就任、看護婦養成や病院船の建造にも精力的に取り組んだとのことです。
私は四十年以上病院に勤務してきましたが、恥ずかしいことに、この佐野常民のことは知りませんでした。
常民は西南戦争の際、官軍だけではなく、西郷軍も平等に、負傷者の治療をするべきだと、政府に訴えたのですが、その意見は受け入れられなかったとのことです。わが国にもそのような悲しい時代があったということは知っておくべきなのでしょうね。
バス停から、ゆっくり歩いて七分で博物館に到着。
ーーあっ! あれだな。すごい!
鉄筋コンクリート造り三階建ての立派な外観におどろき、中に入って、また仰天!
本日の最初の見学者になれたのかな? 中に入ると係りの男性が話しかけてくれました。私と同年配のようです。
「おはようございます。どちらからお越しになったのですか?」
「愛媛から来ました」
「遠い所を海軍所まで来ていただきありがとうございました。館内にはシアターが三カ所あります。上映時間が決まっていますので、上映時間の合間にご見学されることをお勧めします。もうすぐ一階のメインシアターが始まりますのでご覧ください」
一階の廊下を奥に進むと、幕末当時の三重津海軍所が、ドライドックを中心に、かなり大きなジオラマで再現されていました。
間もなくシアターが始まり、そのスクリーンに映し出される、幕末の海軍所の解説映像や、音響の迫力に圧倒され大感激! なんといっても、横の壁一面、縦十メートル、横二十メートルくらいの超巨大スクリーンに映し出されたものですから、度肝をぬかれた感じですよ。
三重津海軍所のドライドックは、有明海の六メートルの干満差を利用した、合理的な構造になっていました。満潮時に、船をドックに引き入れ、ドックの扉を閉めます。潮が引くとともに、ドック内の水を排水。干潮時、完全にドック内の水がなくなったら水門も閉鎖し、船の修理に取り掛かれるというしくみです。
佐賀の歴史や生活を学んでいると、この有明海の、「約六メートルの干満差」というキーワードが、頻繁にでてきます。この干満差の利用が、佐賀の発展を後押ししたようですね。
このミュージアムには、三ヶ所にスクリーンが設置され、佐野常民の功績や佐賀海軍についての歴史を学ぶことができます。
一階では前述した他に、明治日本の産業革命遺産(世界遺産)について、二階では、常民の八十年の生涯を大迫力のパノラマシアターで紹介されていました。どれも見ごたえのある素晴らしい映像ですが、ネタバレになりそうなので説明はこのくらいにしておきましょう。
映像による紹介だけではなく、貴重な数多くの展示も素晴らしい! 佐賀藩十代藩主鍋島直正の指示により、近代技術の推進が加速されました。日本初の国産実用蒸気船の建造、反射炉による鉄製大砲、日本唯一の国産アームストロング砲の製造についての資料、国産西洋帆船の模型など数多く展示されており時間のたつのを忘れて見入ってしまいました。
佐賀を訪れた際には、ぜひ立ち寄っていただきたい施設です。
博物館の二階には展望室があり、そこから外にでることもできます。目の前には早津江川の広大な河川敷が広がっており、前野河原の佐野記念公園には、ドライドック跡や御船手稽古跡地が残っています。風は強いものの天気は良く、すがすがしい気持ちになれました。
その広大な景色に洋式帆船の往時の姿を重ね合わせ、幕末当時の様子を創造することができ、これぞ旅の醍醐味!
さて、旅を進めましょう。予定では、JR佐賀駅までバスで戻り、佐賀城周辺を散策するつもりだったのですが……
実は、この三重津海軍所に来る途中、大隈重信記念館前という、バス停を通ることがわかり、
ーーおっ! これはラッキー!
となり、帰路は、そこで下車することに変更したのでした。大隈重信記念館は、佐賀城の近くにあるので、かなり時間短縮になりそう。かなりタイパが良くなったとご機嫌。
十一時十五分発のバスに乗り、大隈重信記念館前で下車。
ーー記念館はどこかいな? 記念館前というバス停なのに記念館はなし。
ここでも グーグルマップが大活躍。スマホの指示にしたがって、交通量の多い道を戻り、脇道に入ります。数分歩いていると、
ーーあった! でも、ちょっと地味かな?
大隈重信記念館
大隈重信は、佐賀藩の上士の家に生まれ、幕末に活躍した志士です。明治維新期に外交などで手腕をふるい、中央政府の首脳となり、参議兼大蔵卿を勤めました。その後、大臣や内閣総理大臣を二度も勤めた重鎮です。
また教育者としても活躍し、早稲田大学を創設したことはあまりにも有名な話ですよね。
この大隈重信記念館は、明治時代の石造りの建物をイメージさせる二階建ての記念館です。
玄関を入ると、どこからともなく大隈重信公の声が聞こえてきます。大正四年の第十二回総選挙の時に、大隈の自宅で約十五分間の演説が原稿無しで行われたが、その時の録音レコードとのこと。
大隈重信の話し方の特徴である「であるんである」を本人の声で聞くことができ感激! テレビや映画の中で俳優さんが演説していたものは聞いたことがありましたが、肉声を拝聴したのは初めて、感謝、感謝です。
館内に流れる声を聴きながら、玄関ホールから、すぐ左の展示室に入った途端、目が点になりました。なんと! 一番手前の展示台に大腿義足が展示されていたのです。
職業柄、義足には少々うるさい。現在、処方されている骨格義足ではなく、私が学生時代に教科書で見たような、懐かしい古典的なタイプの大腿義足が、そこにありました。保存状態は、極めて良好で、当時の、義足製作技術の高さが窺える一品でした。表面が樹脂加工されているように光沢があり、膝は単軸ではあるものの美しい仕上がりでした。
ーーでも、なぜ大腿義足がここにあるんやろ?
横の解説を見てびっくり仰天!
一八八九年十月、大隈重信は当時外務大臣を務めていたが、官邸前で暴漢に襲われ、右大腿切断の重症を負ぅてしまった。展示されている義足は、当時最高といわれたアメリカの義肢装具メーカー(マークス社製)の義足だとのこと。
日本の座る生活様式には合わず、膝関節が破損しやすかったようです。当時の生活環境は、和式であり、日常生活に苦労されたことが推測されます。何歳になっても知らないことが多いですよね。
この記念館の敷地内には、実際の大隈重信の生家も保存されており、玄関、床の間、居間は、外から見学することができます。重信の勉強部屋があった二階は、建物の構造上、公開が難しいとのこと。(残念!)
家の中から流れてくる音声解説によると、勉強部屋には家の梁が突出していて、そのでっぱりの前に机を置いて勉強していたとのこと。重信が眠くなった時に、このでっぱりに頭をぶつけて目を覚まし、勉強を続けたというすごいエピソードでした。
時を忘れて見学していたのですが、ふと空腹なのに気が付きました。もう正午を過ぎている。今日は小倉港入港時に、パンを食べたっきり。
ーーさすがに腹がへったなぁ!
予定としては、この周辺でシシリアンライスをいただくことになっています。
シシリアンライスというのは、佐賀のご当地グルメで、公式観光サイトにも、「シシリアンライスマップ」なるものが掲載されていました。
昭和五十年頃に、食堂のまかない食として考案され、徐々に人気がでてきたものらしい。白ご飯の上に、生のレタスやトマトなどの野菜と牛肉などを炒めたものが乗り、その上にマヨネーズをかけている。何やら味を想像しがたい一品だが楽しみです。
「シシリアンライス マップ」によると、この付近では、佐賀レトロ館のシシリアンライスがオススメとのこと。厳選した食材による、満足の一品らしい。歩いて十分程度なので、早速移動しよう。(もちろんグーグルマップを起動させます)
歩いていると暑くなってきて、上着を脱ぎ、Tシャツ一枚になりました。広い通りに出て、さらに数分歩くと、レトロな洋館が見えてきました。
ーーあれだな。なかなか、しゃれた建物だのう!
さらに近づくと、
ーーん??? 建物周囲、特に玄関付近のアクティビティがないような……
玄関前まで行きドアを引くが、鈎がかかっていて、ビクともしない。
ーーありゃ、どうも、お休みらしいね。定休日ではないのにな?
おなかの虫とともに肩が数センチ落ちました。
ーーまあ、こんなこともあるわな。確かこの近くにもう一軒あったはずや。そうそう、佐賀県立歴史博物館内にあるレストランも推薦しとったな。
佐賀県立歴史博物館は、目と鼻の先だ。ここも見学する予定なので、ちょうどいいかなと納得。でも、頭の中は、シシリアンライス一色!
これらの施設は、佐賀城の堀の内に集まっています。堀の内側には、東西に城内通りという大きな道路が通っていて、その道に沿って、この佐賀レトロ館や、佐賀県立博物館、佐賀城があるのです。
佐賀レトロ館前の横断歩道を渡って、右折し、西方向に二百メートルほど歩くと、南北に通っている本丸通りに出会います。この四つ角を渡るとすぐ佐賀県立博物館が見えてきます。
この佐賀県立博物館は、美術館に併設されていて、非常に大きな建物。奇抜な形状をしており、展示内容も期待できそう!
玄関らしき付近を、うろうろしてみますが、、入口が見当たらないのです。しかたがないので、反時計回りに移動して、入口を探してみます。どこを見ても、あつあつの湯気をたてているシシリアンライスが、ちらつきます。
ーーあった、入口が! よし、よし。
館内に入ると、受付のお姉さんがいらっしゃったので、ご挨拶がてら聞いてみます。
「博物館はここでしょうか?」
「ここは美術館ですよ。でも突き当りの廊下から、連絡通路を通って博物館に行くことができます」
との案内をいただき、早速、連絡通路を通って、博物館に足を進めます。もう頭の中、シシリアンライスで、いっぱいいっぱい!
連絡通路をしばらく歩くと、なんと、レストランらしきコーナーが見えてきました。
ーーあったぞ! あったぞ! ん?? あれ? なんだか暗いような……
近づいてみると、ドアには、白い札がかけられている。札には「Closed」
ーーえっ! 定休日ではないはず。ネットで事前に調べている。定休日は月曜日なのだ。
少し先の博物館の受付まで行き、お姉さんに聞いてみる。
「そこのレストランは休みですか?」
「あれ? お休みしてましたか? いつもなら開いているのになぁ。おかしいですね」
「そうですか……」
これは私見ですが、ゴールデンウィーク明けなので、臨時休業をしたのではないでしょうか。
ーーまあ、連休中は、忙しかったんだろうな。しかたないわな。シシリアンライスは、明日の楽しみにしよう!
こんな時のために、私は、常にザックの中にチョコクッキーをひと箱入れているのです。
館内は、飲食禁止であることを、案内のお嬢さんに確かめると、
「そうです。すぐ外にテーブルとイスがありますので、そこをご利用ください」
と、外の椅子のある場所を教えてくださった。
そうだ、いつも私は、昼食は公園でクッキーなんだよね。と自分を納得させながら、外に出て椅子を探します。
今日は、いいお天気。カンカン照りの下ではちょっときつい。影を探すのですが、見当たりません。しかたがないので日光浴をしながらクッキーをいただきました。私の必需品「チョコチップ クッキー」
人間、食べると意欲が回復するということを、この時つくづく感じました。落ちていた肩も元の位置に復帰し、足取りも軽やかに博物館に入ります。
佐賀県立博物館
佐賀県立博物館では、特別展として「幕末維新博メモリアル展」が開催されていました。
佐賀県では、明治維新百五十年を記念して、平成三十年に「肥前さが幕末維新博覧会」が開催されたとのことです。
博物館では、その時の維新博のメイン パビリオン「幕末維新記念館」で上映された映像を、まるで会場で体感しているように見ることができました。
映像の内容は、
・幕末維新期の佐賀
・第十代佐賀藩主・鍋島直正のリーダーシップ
・佐賀が日本の近代化のトップランナーになりえた理由
・時空を超えて集い、語り合う七賢人の会話
・幕末維新記念博のドキュメンタリー
などでした。
素晴らしい映像を鑑賞した後、常設展を見て回りましたが、佐賀の自然や歴史一般を展示したもので、特筆するものはありませんでした。
ありました、ありました、特筆することが。
博物館から美術館の間の通路には、三段の段差があったのですが、帰りは階段を降りる方向だったので見落としてしまったのでした。薄暗い場所での脚が空を踏む感触。あると思っていた床面がなく前のめりに……。
思わず脚を前に踏み出して踏ん張ろうとするのですが、そこにも床はなし。下も見ずアクロバティックに三段の段差を勢いよく駆け下りていました。
「奇跡の三段跳び」と妻に話したのですが、転倒して怪我をしなかったのが不思議なくらいです。幸いにも段差の幅が広かったので、ちょうど私が踏み出した脚幅とぴったり合ったのが良かったのでしょうね。
以前、ホテルの段差を踏み間違えて、大腿骨頸部骨折をしてしまった友人を思い出し、 背中に冷や汗が流れました。このようなヒアリハットを重ねていると、本当に怪我をすることになるなと反省。あの、空を踏む感触は、今、思い出しても背筋がぞっとします。
さてと、旅に戻りましょう。まだ、時間はたっぷりあるので、近くにある佐賀城本丸歴史館に足を向けるとしますかね。お隣にあるみたいだけど、とりあえずグーグルマップの案内にしたがって脇道に入りました。
ーーすぐ隣なので、最短距離のこの道を直進するんやな。
歩いていると道はだんだん細くなってきました。
ーーえらい細い道になったけど、これでいいのかな?
指示どうり直進していると、なんと道は壁に突き当たってしまった。
ーー壁に突き当たっているのに、まだ直進しろってか? それはないわな。まあグーグルちゃんも、たまにこういうことがあるので面白いんだよな。ひとり旅ではこれもご愛敬!
博物館横の本丸通りに戻って、再スタート!
今度は脇道には入らず、城内通りを東に進もう。佐賀城は、歩いて数分のところにありました。入口には、鍋島直正公の大きな銅像がお出迎え。
佐賀城 本丸歴史館
この佐賀城本丸歴史館は、幕末期の佐賀城本丸御殿を復元した建物内に、幕末維新期の佐賀について展示し、分かりやすく紹介した歴史博物館です。木造復元建物としては日本最大の規模となっているとのことです。
館内には、四十五メートルも続く畳の廊下や三百二十畳の大広間があり、圧巻です。。
入口では、一八三八年当時の姿を残す「鯱の門」が迎えてくれます。門の屋根には、鯱が鎮座しており、堂々たる雰囲気を醸し出していました。
また、門の柱には、明治初期に起こった、佐賀の乱の銃弾跡が残っていて感動。江藤新平たちが、ここに立てこもり、政府軍と戦ったことを思い、時の流れを感じることができました。
ここで、念のため江藤新平についてちょっと解説しましょう。彼は初代参議に就任、三権分立を推進し、日本の近代司法制度の父と呼ばれています。
また、司法制度・学制・警察制度の推進と共に市民平等を訴えた、まさに正義を愛する人といえる逸材でした。しかし、その性格ゆえに敵もおおかったようです。
長州の陸軍 山縣有朋や大蔵省 井上馨などの不正を追求した事で、薩長閥から逆恨みを買ったようです。佐賀の乱の後、大久保利通により、正規の裁判を受けることなく、斬首されてしまいました。
長州藩の人は、賄賂や資金援助を平気で受ける習慣があると、歴史の本に書いてあったのを思い出します。奇兵隊も、やくざや無頼者の集まりでしたので、規律や道徳心は、薄かったのかも知れませんね。どこかの国の政治家にも、そういう先生が多いそうですが……
このようなことから、今回の佐賀の旅においても、江藤新平は、やや影が薄い気がしました
鯱の門をくぐり、右に廻ると、本丸御殿の玄関です。ここで靴を下駄箱に入れ、広い御殿を見学します。
大広間では、何かの表彰式が予定されているとのことで、多くの椅子が並べられ、式典の準備が執り行われていました。邪魔をしないように、そぉ~っと長い畳の廊下を奥に進みます。廊下といっても、二軒幅の畳敷きの廊下なので豪華な感じ。
この本丸御殿は、第十代藩主 鍋島直正によって再建された当時の姿に復元したもので、柱なども杉材が多用されており、直正公の質素倹約の思想が伺えました。
廊下を進むと、各部屋に、復元の様子や幕末維新の佐賀の様子、近代技術を取り入れた佐賀藩や活躍した偉人の資料など、多くの展示や映像が、実に楽しく見学できるように工夫されていました。
ある部屋では、寺子屋形式の部屋があり、大隈重信が、私たちに講義をしているような雰囲気が味わえます。さまざまなメディアを使って、歴史が楽しく学べるように工夫されているなと感心しました。
地方自治体の観光関連の人々も、こういった先進的なミュージアムを見学して、良いところをどんどん取り入れるべきだなと思います。
「○○県の同志諸君、大いに佐賀県を見習って、良き観光地にしたいものであるのである」
と、大隈重信になりきる私でした。
鍋島直正公とツーショット写真が撮れるコーナーがあったのですが、一人だったので、あきらめて本丸の見学を終えました。(残念!)
出口で、案内の係りのお姉さんに
「実に素晴らしい建物でした。一度では、とても十分に見ることができないくらい、内容が充実していて感動しました。時間があったら、また来たいです」
と、感激をお伝えすると、とても喜んでくれました。
時計を見ると、もう四時です。
ーーそろそろホテルに行くか。
ホテルは、いつものように、全国チェーンのあのビジネスホテルです。佐賀駅南口を出て、右にあることを確認しているので安心。歩いて佐賀駅までもどりましょう。
約二キロ半です。南北に走る大きな本丸通りを、佐賀駅の方向に向かって歩きます。今日はとてもいいお天気で最高の旅日和。でも、歩きだすと暑くなり、汗がダラダラと前進に流れてきました。
ーー今日は暑いなぁ。熱い日の歩きはこたえるよ。
ホテルに到着し、三連泊でチェックイン。部屋に入ると、ほっと一息。
このホテルチェーンは、どこの地方に行っても、部屋のつくりは同じなので、自分の部屋に帰ったような安心感がありますね。靴を脱ぐ前に買い出しといきましょう。
ホテルの反対側にスーパーがあるのをネットで確認済みなので、即、直行!
旅先で必ず買うもの、納豆、野菜ジュース、ヨーグルト(飲むタイプ)、二リットルのお茶、明日の朝食用のパン、みかん(今回は季節柄、ミカンは、なかったのでオレンジジュース)、トリスハイボール、あとは、その日の気分次第。
今日は、握り寿司、イワシの干物、サラダ、ちくわなどを購入し、ホテルに帰ります。
この後、入浴し、さっぱりして、地元の放送を見ながら一杯やるのが至福のひと時なんですね
旅の間は、決して深酒はしません。何せ、かなり歩きますので。今日は、十一キロメートル歩いていました。今までは、二十キロから三十キロメートル歩いていたので、かなりセーブした感じかな。
ほろ酔い気分になったところで、明日の予定を確認し、やはり超早めに寝ました。
佐賀の旅 三日目 吉野ケ里遺跡
朝六時起床。今日は、今回の旅でメインの吉野ケ里遺跡に向かいます。JR佐賀駅八時二十分発、長崎本線上り普通列車に乗車。
佐賀市に入る便は混んでいるが、佐賀から出る列車は、かなり空いています。三駅目が、吉野ケ里遺跡公園駅です。
列車を降り、外に出ると、そこはのどかな田園地帯。朝のすがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込み、体調良好。
ーーやっぱ、旅は田舎がええなぁ。大都会のゴミゴミ、人がザワザワしたとこへは、もう行きたくないな。そうそう、吉野ケ里遺跡公園までは、少し歩くんだったな。
と、周囲を見渡すと、
ーーあった! あった!
大きく書かれた道案内の標識がありました。標識に従って、田んぼや畑の間をゆっくり歩きます
その前に、いつものように、スマホを取り出し、アプリのジオグラフィカとグーグルマップを起動させましょう。これがないと、初めての土地を歩くのは心細いんですよね。
歩いていても、ところどころに案内の看板があり、とても分かり易い。
十分ほど歩いて、大きな道の信号を横断すると、もうそこは吉野ケ里遺跡公園でした。
吉野ケ里遺跡公園
吉野ケ里遺跡公園という立派な石の門が出迎えてくれました。その入り口を少し歩くと、前方に、白い大きな、いかにもテーマパークのゲートらしき門が見えます。その横には、レストランやショップなどの複合施設らしい建物が並んでいます。
遺跡なので、もっと地味な施設を想像していたのですが、大規模施設だったので驚きです。
ゲートの手前に、吉野ケ里遺跡についての、小さな展示室があったので、まずは、それを見学しましょう。遺跡の発見から、現在にいたるまでの経過を解説していました。小規模な展示なので、ざっと見てゲートに向かいます。
ーーさあ、その前にトイレ。
ひとり旅、特に歩き中心の旅をしていて、最も困るのがトイレです。もよおしてから探したのでは、かなりつらい思いをする場合があるのですよね。
従って、トイレのあるところでは、とにかく入るのが習慣になっています。(決してマーキングではありませんよ)
この吉野ケ里遺跡公園のトイレは、とてもきれいで、さすが日本でも有名な遺跡公園だなと感心しました。
音声ガイド
家での下調べの際、遺跡公園内を解説する音声ガイドがあるとの情報を、チェックしていました。
ーー早速、音声ガイドを借りる手続きをしよう。
ゲートの横に受付がありました。千円払って、音声ガイドの機器を借り、機器を返す時に五百円返却、つまり五百円が貸出料金です。
音声ガイド専用のガイドマップを渡されました。園内を歩きながら、各ポイントで、マップ上の写真に、音声ガイドペンを当てると、解説がペン内のスピーカーから流れる構造となっていました。全部で約三十ヶ所、百五十分の解説が録音されているとのことです。
ーーさあ、音声ガイドペンを首にかけて出発!
入場ゲートを通ると、目の前には、幅十メートルくらいのオレンジ色の道が現れ、そして、その先には白い欄干の橋がかかっていました。
早速、音声ガイドペンをマップに当てて、解説を聞きます。
この橋が、現在と弥生時代の境で、この橋を渡ることで古代にタイムスリップするのだそうですよ。なんだか童心に戻ってたのしめそう!
橋を渡る前に、弥生時代と吉野ヶ里遺跡について少し解説しましょう。
弥生時代は、今のところ、紀元前五世紀から紀元後三世紀までの間といわれています。(諸説あり)稲作が始まり、人々が定住するようになった時代です。吉野ヶ里遺跡は、同時代の我が国最大の遺跡で、国の特別史跡に指定されています。(有柄銅剣やガラス製管玉等の出土品は国の重要文化財に指定されている)
吉野ヶ里遺跡では、弥生時代七百年間の全ての時期における遺構・出土品が発見されており、年代の変化により、どのように文化が変わって来たかを知ることができます。
復元の対象は、弥生時代後期後半(紀元三世紀頃)として整備しているとのことです
さあ、橋を渡って、弥生時代にタイムトラベルしましょう!
時空をつなぐ橋を渡り、脚を進めると、前方に、丸太で作った、大きな壁のようなものが見えてきました。
ーー大掛かりな丸太の柵が見えてきたよ。これはすごいぞ!
壁の高さは約六メートルくらいでしょうか、電柱くらいの太さの丸太を地中に埋め、隙間なく横に繋いで、丸太の壁が作られている。容易に乗り越えられないように、上端は、削って先を尖らせている。
そして、それぞれの丸太は、縄で連結・固定され、壊れ難いように補強されていました。それが、左右に延々と続いているのです。右を見ても、左を見ても、途切れることなく、ずっと、ずっとどこまでも続いています。
ーーどこまで続いているのだろうか? 昔、キングコングの映画を見たことがあるんだけど、その中に出てくる原住民の村にあった柵に似ているな。
また、丸太の壁の内側には、深さ二メートルくらいの空堀が掘られており、外敵の侵入を防ぐ目的と推測できます。
でも、防御目的であれば、柵の外側に堀を作った方が効果的ではないのかなと、首をかしげました。
これは、あとでボランティアガイドさんに聞いて分かったことなのですが、この堀は、居住地の排水路としての役割も兼ねているとのことで、そのため柵の内側に作っているのだそうです。
なるほどと納得。有明海の干潟の泥が集積してできた平野ならではの湿気対策なのだろう。改めて弥生人の知恵に脱帽。
厳重な防御柵に感心しながら、小さな橋を渡り、環濠集落の中に入ります。
吉野ケ里遺跡公園は、南内郭、北内郭、北墳丘墓、甕棺墓列、中のムラ、倉と市、南のムラの各ゾーンに分かれています。
音声ガイドの案内マップには、それらを効率的に巡れるように、順路が記載されているので、マップの案内に沿って見学することにしましょう。
百メートルほどゆるやかな坂を上ると、再度、丸太の柵が見えてきました。どうやら二重に柵をめぐらせているようです。その手前には、資料館らしき建物があります。
資料館に近づくと、先のとがった三角帽子をかぶったボランティアガイドさんが声をかけてくれました。
「ボランティアガイドをしています。時間に合わせて説明をさせていただいています。よろしければいかがでしょうか?」
「ぜひ、お願いします」
愛媛から来たことや、歴史が好きで、史跡を巡る旅をしていることなどを、お話すると、詳しく解説しましょうと親切に提案してくださいました。
ガイドさんは、ここの発掘にも協力している方で、私よりは少し年配の方でした。
まずは、資料館からということで、平屋の建物の資料館に向います。
この資料館は、吉野ケ里遺跡から出土した、さまざまな物が展示されていましたが、私が一番目についたのは、大きな素焼きの甕(かめ)です。一抱え以上もあるような大きな甕が、ずらりと展示されていて、今まで想像していた、弥生時代の土器のイメージが、一新された感があります。
徳島県に大谷焼という、大きな水瓶を中心に焼く窯元を見学したことがありますが、その大甕の素焼きの状態のような大甕が並んでいるのです。ロクロを回して作り、焼き物用の大きな窯で焼いたような、しっかりした壺なのですよ。
「こんな大きな甕を、どのようにして焼いたのでしょうか?」
と、質問したのですが、不明とのことでした。おそらく、「野焼き」だろうと言っておられましたが、弥生時代の技術、恐るべしです。
また、その大甕の利用目的を聞いて、驚きは倍増。
「甕棺」といって、要するに、弥生時代の棺桶だそうです。遺体を、その甕の中に手足をまげて安置し、二つの大甕の口を合わせ、横に寝せた状態で埋葬していたとのこと。
棺桶として、この大甕を二つ使うということに、またまた弥生時代の文化に驚きです。
この大甕が、今までに約三千個以上、出土しているとのことで、この集落の規模が推測できると思います。
また、遺跡内の貝塚には、貝や魚などの海の食べ物だけではなく、猪や鹿などの骨、木の実、穀などの山の食材も見つかっており、この場所がいかに便利な場所であったか、ということが理解できます。当時は、海岸線が、もっと近くまで来ていたとのことで、海や山に近い、居住するのには、絶好の平地だったのでしょうね。
資料館には、映像コーナーもありましたが、これは、また後でじっくり見ることにしましょう。資料館を出て、ガイドさんと共に、南内郭に向かいます。
南内郭
南内郭は、王や支配者層が住んでいた場所です。南内郭の周囲は、さきほどと同様に、丸太の柵と堀で囲まれており、入口の作を含めると、二重の柵と堀で厳重に防御していることになります。
また、物見櫓や鉄製品が、数多く見つかっていることなどから、位の高い人々の住居地区と推測されているそうです。
南内郭の入口には、櫓門が設けられています。この門の上には、見張りの兵士が常駐し、村内に出入りする人々を監視していたとのことで、いかにこの時代、戦いが多かったのかが示唆されます。
そういえば、資料館の中には、甕棺に埋葬されていた弥生人の骨がありましたが、頭部のないものや、骨折していた骨も多く出土されていたとの解説がありました。のどかな稲作文化と平和なイメージとは異なり、物々しい雰囲気が感じられる遺跡です。
中央に広場があり、その周囲に、支配者層の住居(竪穴式住居)が再現されており、その住居に入ることもできます。
この竪穴式住居は、今までに見たものとは、やや異なった構造をしていました。今まで見たものは、住居内部が外の地面と比較して約三十センチメートルほど低くなっている程度でしたが、ここでは、入口から約一メートルも掘り下げて居住スペースを作っていました。
ーーちょっと中に入って見せてもらおう。結構深いね。それにいろいろ物があって狭いよ。ここで寝れるのだろうか?
入口には、跳ね上げ式の板戸があり、そこを、背中を曲げてくぐりながら、垂直の梯子を伝って住居内に降ります。中は暗く、冷っとしていました。
中央には炉、上には火棚があり、現在の囲炉裏に似た構造となっていました。居住スペースには、生活のための土器や食物が置かれ、どのように寝ていたのかな、と思えるほど狭い印象を受けました。夏は涼しく、冬は暖かいということですが、実際に冬に火を焚いて体験してみたいものです。
南内郭には、四方の隅に高い建物があり、この物見櫓には、兵士が見張りをしていたと考えられています。この物見やぐらは、高さが十二メートルほどあり、上るとかなりの高度感がありました。こんなに高い櫓をよく作ったなと思い、ガイドの方にお聞きすると、
「櫓の跡は見つかっているのですが、高さは、あくまで推測ですので、確証はありません」
とのことでした。
この物見櫓から、四方を眺めると、遠くは有明海や山を背景に、数多くの弥生時代の建物が見え、タイムスリップしたような錯覚を感じます。
ガイドさんが、「まぼろしの邪馬台国という映画のロケにも参加しました。その時、吉永小百合さんが、そこの物見櫓に上って撮影をしたのですよ」と、隣の物見櫓を指さして説明してくださいました。これは、家に帰って早速、見てみようと頭の中にメモ。
帰宅したその晩、早速、映画を見てみました。「あ~ここだ!」周囲の景色も、そのまま吉野ケ里遺跡でした。これも旅の楽しみの一つですね。
この日は五月なのに、かなり暑く、物見櫓の上での涼しい風が、とっても心地よかったです。
説明は、この南内郭までということなので、ボランティアガイドさんに、お礼を言って、南内郭を出ました。ていねいに説明をしていただき感謝です。ありがとうございました。
さて、ここからは音声ガイドを聞きながら見学の続きといきたいところですが、実は、この吉野ケ里遺跡公園のレストランで、特別な昼食「弥生貝汁御膳」一日限定十食のランチをいただく予定があったのです。土器に、古代米入りのおにぎりと、貝汁や魚の塩焼きなど、当時の人々が食べていたような食事を再現したもの。限定食ですので、お昼より少し前に行く必要があるのですよ。
時間を見ると、すでに十一時になっていました。
ーーこれはいかん! 早くいかないと売り切れてしまうかも……
急いでゲートまで戻り、レストランに入ります。券売機で食券を買う必要があります。見えにくくなったオッサンとしては、あまりうれしくない機械ですね。でも、周囲に誰も待っている人はいなかったので、ほっと一息。ポケットからルーペを取り出して、券売機のメニューを見ると、
ーーあった! 弥生 貝汁御膳。
幸せな気分で食券を買い、係りのおじさんにお願いしました。
公園の見える窓際に座り、弥生時代の食事を楽しむとしましょう。数分待って、運ばれてきました。平たい土色の土器に、いろいろな食材が並べられています。
大きなおにぎりが二個、そして、ししゃもくらいの大きさの焼き魚、和菓子と飲み物。赤い古代米が散りばめられたおにぎりや、たくさんの貝が入った貝汁は美味で、当時よりは断然、美味しくアレンジしているなと思いつつ、満足のランチでした。
オレンジジュースを飲み、暑さで少し、ナヨッとしていた気分も、しゃきっとリフレッシュ!
さあ、見学再開といきましょか。南内郭に戻り、再度、音声ガイドを聴きながら、じっくりと見学したあと、北内閣に進みます。
南内郭を出て少し下ると、北内閣の入口が見えてきます。ここにも厳重な門と防御柵があり、丸太の柵が、行く先をを通せんぼするように、柵が何十にも設けられています。
鍵状に複雑に曲がった道を通り抜けると、目の前に三階建ての大きな建物がドーンと現れました。
ーーこれは大きな建物やなぁ。こんな大きな建物が本当に弥生時代にあったとは、弥生時代のイメージが変わったな。
この北内閣は、村の催事を執り行う、最も重要な施設です。昔は、さまざまなことを決める際に、占いを行う特殊な人(最高司祭者)に祖先の声を聞いてもらい、決定していたとのこと。
それらの行事を行っていたのが主催殿で、実際に階段を上がって見ることができます。暗いので、足元に注意しながら一歩一歩登ります。三階建てですが、一階部分は空間になっていました。二階は集会場で、二十畳くらいはあるでしょうか、奥の席に主催者が座り、手前左右に民衆が座るのでしょう。三階は、祈りやお告げを聴く場所となっていました。建物としては、かなり大きく、このような建築がこの当時本当にあったのか、驚きです。
この北内閣には、主催殿、高床住居、高床倉庫、東祭殿、斎堂、物見櫓などが復元されていました。主催者が居住したり、催事に使う道具などを保存していたようです。
北内閣を出て、二百メートルほど歩いた所に、北墳丘墓があります。
北墳丘墓は、弥生時代中頃(紀元前一世紀頃)の歴代の王の墓です。人工的に造られた丘で、土を突き固められて造られており、頑丈な構造になっています。中からは十四基の甕棺とともに、ガラスの管玉、銅剣が一緒に見つかったとのことです。
この手前には、一般の人々のお墓があり、甕棺での埋葬状況も見学することができます。案内路の両側に、数多くの甕棺が埋葬されていました。ここでは、音声ガイドのスイッチを切り、鎮魂の祈りを込めて見学させていただきました。
甕棺墓列(一般の人々の墓地)
甕棺(かめかん)というのは、九州北部、独特の棺のことで、大型の素焼きの土器に、ご遺体を納め、土の中に埋める埋葬方法です。
弥生時代中期に行われていたようで、吉野ヶ里では、さまざまな場所に埋葬されており、約一万五千基以上が埋められているとのことです。この墳丘墓の北側には、約二千基以上の甕棺が長さ六百メートルに渡って埋葬されています。
弥生時代には、戦いが繰り返されていたと思われ、埋葬された遺体には、頭部がないものや肩や腕に刀傷があるもの、腹部に多くの矢を打たれたものなどが見られるとのこと。
ーー見学路の周囲は全部お墓なんだよね。たくさんの甕棺が並んでいて、なんとも言えない光景だな。この時代にも人間同士の戦いが繰り返されていたなんて、悲しくなるよな。
北内閣のすぐ下にあるのが、中のムラです。
中のムラは、祭り・政治・儀礼などの道具を作る場所で、神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、絹の織物を作ったり、さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられているようです。
少し下に降りると、高床式の蔵が、たくさん並んでいる場所がありました。これは、倉庫群、市(いち)も開かれていたと考えられる場所だそうです。
海外との交易品や、日本各地の特産品などの市が開かれたり、保管されていた倉庫群などが集まった、重要な場所であるとのこと。
さらに道を降りると、一般の人々の居住地であった南のムラです。弥生時代の吉野ヶ里集落の一般の人々が住んでいた地域と考えられています。
その根拠として、
・北内郭や南内郭と違い、この区域を囲むような、壕などの特別な施設がないこと
・竪穴住居三棟に対し、共同の高床倉庫一棟が付くという、一般的な集落のあり方と良く似ていること
・北が上位で南が下位という古代中国の影響を受けており、吉野ヶ里集落全体の中で、一番南に位置していること
などが考えられるとのことです。
ひたすら暑さを忘れ、弥生時代を歩いてきましたが、気が付くと、スタート地点に戻っていました。
これほど多くの建物を復元した遺跡は、今まで見たことがありません。吉野ケ里遺跡の広大さと弥生時代の文化に触れて、感動の時間を過ごすことができました。
ーーもう少し涼しかったら言うことはないのですがな、とにかく暑い!
もう一度、公園内を一周したいという気持ちを抑え、後ろ髪をひかれるように出口に向かいます。出口への時空大橋を渡りながら、何度も後ろの遺跡を振り返りました。
吉野ケ里遺跡は、本来、工業団地を造成する予定で開発が進められていました。その工事中に、おびただしい土器や建物の跡が出土したため、大規模な発掘が行われたとのことです。発掘により大規模な遺跡であることが分かったのですが、その当時は、経済を優先していた時代であり、三年間の発掘調査の後は、埋め戻して、予定どおり工業団地を誘致する方針でした。
しかし、住民の熱心な保存運動や、奈良国立文化財研究所の働きかけによって、新聞やNHKが大きく報道し、流れが変わりました。当時の佐賀県知事の決断により、工業団地計画を中止、全面保存をするという結果になったそうです。もし、その当時、市民の方々の草の根運動や、奈良国立文化財研究所の方々の努力がなかったら、今頃は、多くの工場が林立した場所になっていたのかもしれませんね。佐賀市民のみなさんの努力に感謝、感謝です。
貴重な遺跡をゆっくり見学することができ、充実した時間をすごすことができました。さまざまな風景を回想しながら、吉野ケ里駅に戻ります。
四時四十四分 吉野ケ里公園駅発の電車に乗り、佐賀に戻ります。
佐賀駅近くのスーパーに行き、いつもの夕食の買い出しです。今日は、お好み焼きとサラダ、ちくわにハイボール、そして明日の朝食用のパンとヨーグルト、野菜ジュース、お茶を買って、ホテルに帰着。入浴後、明日の予定を予習しながら、トリスハイボールを一杯やります。
ーーこれが至福のひとときなんだよね。
明日は、名護屋城跡の予定。JRやバスにかなり乗らないといけないので、今日も超早めに寝ることにしよう!
佐賀の旅 四日目 名護屋城跡
今日は、佐賀旅の大きな目的の一つである、名護屋城跡に向かいます。有明海沿いにある佐賀市から、日本海側の玄界灘を望む、名護屋城跡を往復する旅なので気を引き締めて行きましょか。かなり不便な所にあるため、便数の少ない汽車やバスを利用します。アクシデントが発生し、もし予定の便に乗り遅れたら大変なことになるかも。
朝、七時五十一分佐賀駅発、唐津線普通列車に乗車、佐賀に帰着するのは、夜七時過ぎの予定。今日は、かなりのハードスケジュールですよ。ホテルを少し早めに出て、佐賀駅に向かいます。唐津線の普通列車に乗って、有明海から玄界灘に移動。
ーー山を横切る風景を楽しみにしていたけど、想像とは違って普通の平野の景色やなぁ。ちょっと期待外れかな?
八時五十九分唐津駅到着。名護屋城跡行きのバスは、午後しかないので、それまでに唐津城を見学できないかと意欲満々。
JR唐津駅から唐津城までは、約二キロ弱。唐津駅から西唐津行の列車は、唐津駅を十一時二十分発。
つまり、今から二時間二十分で、唐津城まで行き、唐津城を見学した後、ここに帰ってこなければならないということです。かなりの強行軍ですが、レッツスタート!
唐津駅の北口を出ると、振り返って駅舎を見ます。
ーーうーん、普通の駅舎じゃな。おっ! 何やら、鶴の像やら石碑があるぞ! 時間がないんやけど、ちょっと見て行こう!
鶴の像は、筑肥線と福岡の地下鉄が直通運転された記念として設置されたもので、唐津城(舞鶴城)をイメージしたものとのこと。
ーーさて、ゆっくりとはしておれん。
スマホを取り出し、いつものアプリを起動させ、既に登録済みの経路案内をスタート。ヘッドセットを耳に当て、音声案内を聴きながら見知らぬ街を歩きます。
急ぐ場合は、なるべく、歩道のある大きな道を選んで歩くのがコツでしょうか?
駅前の大きな道を右折し東に進みます。川を渡ってから、大きな四つ角を左折。もう一度、右折左折を繰り返して真っすぐ進むと、前方に大きな橋が見えてきました。
鉄筋コンクリートの橋ではありますが、木製風の四角い柱で組まれた欄干があり、昔の木橋のような風情があります。
川に沿って石垣があり、幅三メートル程の昔風の橋が、百メートルほど先の川の対岸に向かって、一直線に伸びており、その先の山上には唐津城が聳えていました。
欄干のある古橋と唐津城天守閣は、まさに絶景です。しばらくこの素晴らしい風景に見入ってしまいました。
ーーあ~っ! ここだな。夜の唐津城を撮影していたスポットは。
ネットで見た唐津城の写真で、特に美しい写真はここだと思います。長い木橋の向こうに、ライトで浮かび上がっている夜の唐津城。素晴らしい景色でした。唐津にゆっくり訪れて、ライトアップされた唐津城とこの場内橋を眺めながら一杯やりたいなと思いをめぐらす私でした。
ふと、時間に余裕がないことを思いだし、
ーーいかん、行かん、ゆっくりとはしとれんのやった。でもここからの唐津城は最高やな。もっとゆっくりしたかったなぁ。残念!
石垣の横にある階段を上がり、右に松浦川の河口を眺めながら橋を渡ります。木橋から見える川とお城、ついついゆっくり歩いてしまいました。橋を渡り終えると駐車場があり、その前の地下道を通って、交通量の多い道を横断。そこはもう唐津城登山口です。
標識があり、左に行くと登山用エレベーター、右は通常の登山道とあります。標高が低そうだったので、ためらうことなく階段の登山道を登ることにしました。
視力が低下しても、階段や坂道を上るのは、そんなに不自由を感じません。そのかわり、階段を降りるのは難しく、杖でさぐりながら、ゆっくりです。これが、山好きかと思う程、下山には時間がかかるんですよね。二百段程度で天守閣の入口に到達しました。
唐津城は、関ヶ原の戦いの戦功で加増された武将 寺沢志摩守広高によって、唐津湾を望む、松浦川河口の半島状に突き出した丘陵(満島山 標高四十二メートル)に築かれた城で、続日本百名城に選ばれています。
天守閣は、鉄筋コンクリート作りで、内部は資料館になっていました。最上階からの眺めは素晴らしく、日本海を見渡すことができました。最上階で、ゆっくり日本海を眺めていたいところですが、とにかく時間がおしている。暗いので、杖で慎重に探りながら階段を下ります。
さて、下山です。私の場合下山は、極めて時間がかかるのでエレベーターを利用することにしました。エレベーターといっても、垂直に昇降するのではなく、山肌に沿って、斜めに下降するようです。だから、下に降りて停止する時、斜めにショックがきて不思議な感覚でした。
唐津城を見学していると、韓国からの観光客が多いのにおどろきます。地図を見るとびっくりするほど韓国に近いんですよね。下りのエレベーターでも、同年配と思われる韓国女性グループと一緒になりました。エレベーターが下に到着した際の振動で、私が思わず「お~っ!」と、声を漏らしてしまったのを聞いて、お姉さまたちが、こちらを振り返って、クスクスと笑っていました。私も、思わず照れ笑い! 会話ができる雰囲気だったのですが、とにかく時間がない。「よい旅を!」と言って失礼しました。隣国の人々とも仲良くしたいものです。
さて、急いで唐津駅に戻りましょう。道は、記憶しているので、気持ちにゆとりがありますよ。ナビに頼ることなく余裕で駅に向かいます。唐津駅には、十一時に到着。ここから、西唐津駅は一駅。
念のため、昼食用に、あんパンと野菜ジュースをコンビニで購入して改札に向かいます。
単眼鏡を出して、これから乗る唐津線の普通列車の乗り場を確認していると、
ーーあれっ? 今から乗る予定の、列車の案内がないよ! 乗換案内のアプリが間違っているのだろうか?
出発時刻が近づいてくる。
乗り場がわからない!
誰かに尋ねようと思っても改札の係員がいない!
背中を冷や汗がながれる。
改札口の壁には、
「問い合わせの際は、このボタンを押してください」とあった。
早速、ボタンを押すと、液晶画面に係りの人の顔が映し出され、ほっと一息。
「すみません。西唐津に行きたいのですが、西唐津行の時刻の案内掲示がないのですが……」
「西唐津行は、三番のりばです。時刻などは、少し離れたところに設置していますので、ご確認ください」
お礼を言って、周りの案内板をさがすと、
ーーあった、あったよ。こんなところに。
かなり離れた右の方に案内表示を見つけました。出発時刻やのりばを再確認して、とりあえず、三番のりばということなので、ヨロヨロモタモタしながらホームに向かう。
JRもコロナの影響でかなりの減収となっていると聞いている。経費削減で、いろいろ工夫してしのいでいるのでしょう。でも駅に誰もいないというのは心細いですね。コロナ前の状態に早く戻って経営が安定することを願っています。私たちのような交通弱者にとっては、公共の交通機関だけが、たよりです。さて、旅を続けましょう。
定刻に、かなり使い古された感のあるディーゼル車がホームに入ってきました。ガタゴト揺られて、数分で西唐津駅に到着。無人駅で、かれこれひなびた雰囲気の駅でした。
改札を出て、駅前の通りでいつものように振り返って駅舎を見ます。
ーー特に特徴のない駅舎やな。ここが終点なのに無人駅になってしもうたんやなぁ。無人駅ばかり増えてきてしもうて、残念なことやな。
名護屋城博物館入口行きのバスは、十一時五十五分発なので時間は、たっぷりある。とりあえず、横断歩道を渡って少し歩いたところにあるバス停まで行って、時刻を確認しておきましょう。
これもグーグルマップ様のおかげです。旅行前に、ストリートビューで、バス停の位置を確認しているので、迷うことなくバス停にたどり付けました。
以前、駅前のバス停からとだけチェックしていたら、駅のどちらの出口から出るのか、そしてバス停が、どこにあるのか、よくわからなくて、いろいろ探していたら、乗りたいバスに乗り遅れてしまった経験がありました。やっぱり、失敗は大切ですね。それ以来、旅行前に確認しておく習慣がついたのでした。
時間があるので、西唐津駅の構内のベンチに座って、あんパンとジュースを飲み、腹の虫を落ち着かせます。
さあ、定刻に来たバスに乗り込みます。乗り込む際に、運転手さんに、行先を確認したことは言うまでもありません。ヨロモタ旅の基本です。
バスは、田舎の町を、より人気のない、家もない、奥へ奥へと、どんどん進んで行っています。博物館入口まで、約三十分となっていたような気がするのですが、バスが山の中を分け入るにつれて、不安感は広がってきます。
ーーえらいところに来てしまったなぁ~。大丈夫やろか。
でも、九州電力の施設を過ぎた頃から、周囲も開けてきたので、ほっと一息。
信号のある十字路を曲がると、そこが博物館入口前でした。
なんと、一緒に六人も下車しました。みんなマニアックそうな、おっさんや若い衆です。自分をさておいて、マニアックもないものですが(笑)
ーーあれあれ、みんな同じ方向に行くんだと思っていたのに、二グループに分かれてしまぅたよ。どっちに行ったらいいのかな?
周囲を見ても、どこに行けばいいのか、私の眼では観測困難ときた。ここで、またまたグーグルマップの登場。音声案内を聴きながら、名護屋城博物館に向かいます。信号を渡って、坂道を上り、五分ほど歩くと三階建ての巨大な構造物が見えてきました。
ーーこの山奥に、すごいものを立てたな。
と、感心しながら近づいていきます。
ここには、車で来る人が、ほとんどなのでしょう。駐車場には、かなりの台数の車があり、博物館の前では、団体さんが記念写真を撮っていました。会話が、それとなし聞こえてきました。どうやら韓国語のようです。
唐津城でも韓国の観光客が多いな、と感じましたが、ここも韓国からのツアーのプログラムに入っているのかな。やはり、北九州という地理的関係で多いのでしょうね。
ここで名護屋城跡と名護屋城博物館について説明しておきましょう。
名護屋城跡
名護屋城は、一五九二年から七年間、豊臣秀吉が二度にわたって朝鮮に出兵した際に、出兵の拠点として築いた城です。城の面積は、約十七ヘクタールで、大阪城に次ぐ大規模な城でした。
城の周囲には、百三十以上の大名の陣屋が構築され、二十万人以上の人々が集まったとのことです。現在、名護屋城跡と陣跡が、国の特別史跡に指定されています。
佐賀県立名護屋城博物館
博物館のテーマは、「日本列島と朝鮮半島との交流史」です。秀吉が一方的に挑戦を侵略した負の歴史だけでなく、古代から交流してきた歴史的事実を学ぶことができます。
一 名護屋城以前
原始・古代から中世の時代にかけて、日本列島と朝鮮半島との間では多くの人々が行き交い、様々な文化が発展し育くまれていったことを展示・紹介しています。
二 豊臣秀吉時代の名護屋城
一五九二年から七年間にわたって行われた豊臣秀吉による朝鮮侵略(文禄・慶長の役)について展示したコーナーです。
黄金の茶室
豊臣秀吉が名護屋城に持ち込ませ、茶会や外国使節の歓待に使用した黄金の茶室を、当時の史料に基づき再現し、展示しています。
三 名護屋城以後
江戸幕府将軍の就任に際して朝鮮国から招かれた朝鮮通信使や朝鮮時代の工芸資料、「誠信の交わり」を説いた雨森芳洲などを紹介しています。
四 特別史跡 名護屋城跡並びに陣跡
名護屋城跡や周辺陣跡の発掘調査の成果をご紹介するコーナーです。
金箔瓦や陶磁器などの出土遺物のほか、保存整備の様子についても紹介しています。
名護屋城跡を見学する前に、まずは、博物館で知識を整理しましょう。この立派な博物館は、なんと無料。さすが佐賀県太っ腹、国の補助があるのかな? ここにも音声ガイドがありましたので、早速、お借りすることにします。
一階は、シアタールーム、二階の展示室から見学することにしましょう。
展示内容は、前述しましたが、特に印象に残ったものを紹介すると、
二階展示室に入って、最初に目につくのは、名護屋城と周囲の大名屋敷の大きなギオラマ。玄界灘を望む丘陵の、広大な土地に築いた、大名の陣屋がみごとに再現され、秀吉の最大の悪行とされている、朝鮮出兵の規模の大きさを体感することができます。
名護屋城内には、桝形の広場があり、この広場に兵が満ちると、千人としてカウントしたとの解説がありました。おびただしい数の兵を、数千隻の船に乗せ、朝鮮に向かわせた。その時、秀吉本人は能楽を楽しんでいたとのこと。日本史の中でも、負の遺産の冴えたるものでしょう。
「黄金の茶室」を大阪から運び、各大名を呼んで、悦に入っていたらしいのですが、その茶室も再現されていました。
金色に輝く茶器や部屋の装飾は、いかにも成り上がりの悪趣味といえるものでしょうか。
これらの、日本人として恥ずかしい歴史を、海外の人に、どのように解説しているのだろうと不安になりました。音声ガイドは、さまざまな言語に対応しています。解説の内容に神経を集中させます。
ほぼ史実に沿った解説でしたが、やや自虐的な表現が、目立つ箇所が多々あるような印象を受けました。特に古代における、日本と朝鮮の交わりについては、首をかしげる箇所もありました。歴史の解釈は立場によって大きく変わります。
一階のシアタールームでの動画は、よくできているなと感心しました。特に最後のまとめでは、秀吉の侵略について、真摯に反省し、今後は世界の平和に貢献していかなければならないとの内容で、解説を結んでいました。何処の国の人が観ても、納得できる内容だと感じました。
次に、博物館を出て、いよいよ名護屋城跡に向かいましょう。
博物館を出ると、すぐ左に観光案内所があり、そこから名護屋城 天守閣跡や各大名の陣屋に向かう道が分かれていました。まずは天守閣跡に行ってみましょう。現在は石垣のみとなっていますが、大手口から長い坂を上って、三ノ丸に進みます。桝形の広場を通り抜けて石段を上ると、広い本丸跡に到着。本丸跡もかなり広く小道がいく筋も伸びていてうっかりすると迷いそう。さらに少し高い場所にある天守台に登ると、
ーーわぁ~! すごい! 玄界灘が一望できる。まさに絶景やな。ここから秀吉は、朝鮮に出兵する船を見ていたのやな。
五層七階の壮大な天守閣が、ここにあった。天守台に登ると、端っこにベンチが、ひとつポツンと置かれていました。幸い人は誰もいない。ベンチに座って、この天守台をひとり占めし、秀吉になった気分。座って眺めると、目の前の玄界灘の向こうの朝鮮まで見えるような気がします。秀吉は、ここで数千隻の船が、朝鮮に向かって出港するのを見ていたのでしょう。
今、こうして眺めていると、緑と海の青さ、空の広さが美しく、感動的ですが、当時は、意に添わぬ出陣に対する、怒りや悲しみを胸に秘めて、日本を離れたのだろうと思いを馳せます。
現代でも、同じようなことを繰り返している国があることを思えば、人間というのは、愚かな生き物であるとつくづく感じます。
さまざまなことを考えながら、ここで私の定番のチョコクッキーをいただきました。
このように歴史の現場に立って、その時代に思いをはせる時間が、私の至福のひと時なんですよね。
ーーさてと、いい景色をゆっくりと見ることができた。いい時間を過ごさせてもらったな。ぼちぼち下山するとするか。
私にとっては、これが悩みの種。視力が低下すると、坂や階段を上るのは、特に支障はないのですが、階段や段差を下るのが恐怖になってきました。
特に、お城の石段のように、不揃いの自然石で作られた石段は最悪。足元が見えにくいため、杖で探って確認しながら、一歩一歩降りていかなければなりません。精神は緊張状態。上る時間の二倍の時間をかけて、ゆっくり降りていきます。大手口まで下りた時、大きな安堵のため息が出ました。転倒せずに降りることができて良かった、良かった。
午後四時三十二分。これは、名古屋城博物館前発の、バスの時間です。今は、三時三十分。この時間以外の便はありません。
ーーさて、あと一時間どう過ごすか? 折角ここまで来たのだから、もう一度博物館に戻って、じっくり見学するとしよう。博物館に戻って、
「すみません。また来ました。続きをみせてもらっていいですか?」
受付のお姉さんが、笑いながら、
「どうぞ、どうぞ、ゆっくりご覧になってくださいね」と、歓迎してくださいました。
ーーいい博物館やなあ。佐賀県の博物館は、展示内容も素晴らしいけど、係りの人はみんな親切でていねいだから気持ちがいいな。感謝、感謝やね。
中二階のディスプレイは、まだ見ていなかったことに気が付き、見てみると、この名護屋に屋敷を築いた、ある大名がアニメで登場し、語っている。
どのように屋敷を作ったのか、小学生にもわかるような平易な解説。最後に、「この続きは、横のドアを開けて、見に来てくれ!」と……
ーーん? ドアを開けて、外に行くのか?
おっさんも興味をそそられ、ドアを開けて外に出ると、遊歩道のような、整備された道が続いている。
少し歩いてコンクリートの石段を上ると、そこには、屋敷の跡が再現され、解説板が設置されていた。屋敷の庭園に使われていたと思われる、飛び石、便所の跡、屋敷の礎石など、杉並木の間に点在している。踏み荒らされないように木道が作られている。ところどころに、ベンチが設けられている。
ーーなかなか、洒落た演出ですな!
と、感心。その一つに座って、当時の姿に思いを寄せます。心地の良い風が吹いて、とても、すがすがしい気持ちになれました。博物館から、この屋敷跡に誘導した面白い仕掛けに思わず顔が緩みます。
やはり、ミュージアムは、遊び心が大切だよね。楽しみながら、学べる空間を演出する、そういった仕掛けに遭遇すると、いい博物館だなと心から思います。
博物館をじっくり鑑賞していると、いつの間にか五時が近づいてきていました。坂を下って、バス停まで、ゆっくり歩きます。バス停には、私一人。
ーーお昼に一緒にバスに乗ってた人は、どうしたのだろうか? 他には、バスの便はないのだがな。
そんなことを考えながら、ほぼ定刻に来たバスに乗り込みます。西唐津駅までは、案外早く着きました。(早く着いたような気がするだけで、所要時間は同じなのだ。未知の場所へ行く時間は、長く感じるが、帰途は、早く感じるのです)
午後五時三十二分西唐津駅発のディーゼル列車に乗車。七時三分 佐賀駅着。かなり薄暗くなりかけていました。暗くなると歩くのが、おぼつかなくなるので、急いで、いつものスーパーに行きます。お弁当と明日の朝食、そして、必須のトリスハイボールを買って、ホテルに帰着。
ーーいや~、今日はちょっと疲れたな。何せ、有明海から日本海を往復したからな。
疲れていたので、入浴と食事を済ませたら、明日のことは明日と、ベッドに入って爆睡しました。
佐賀の旅 五日目 小倉城 松本清張記念館
今日は、午前中、佐賀市立歴史民俗博物館を見学し、シシリアンライスを食べて、小倉に移動する予定でした。
ところが、昨日、佐賀本丸歴史館で、佐賀城の御城印を発行していると、ネットで発見。佐賀県では、この佐賀城、唐津城、名護屋城の3ヶ所に御城印があるとのこと。妻に頼まれていたのを思い出し、もう一回佐賀城にいくことにします。
まずは、歴史民俗館に急ぐ。ここは、明治大正時代の古い建物を保存している所で、中にはカフェもあり、ゆっくり楽しめるところだが、今日は、時間がないので、かなりスル~ッと観てしまった。次の佐賀本丸歴史館に脚を向ける。
ところが、途中で、神社、それも、かなり立派な、由緒正しい神社を発見。水路を渡って、神社に入るのだが、その石橋に緑の蔦が、びっしり巻き付いていて、とても美しい。その景色に思わず見とれてしまいました。
見ると松原神社とあり、河童をお祭りしている神社のようです。
ーーここは、調べてなかったな。残念!
と、反省したが、もう遅い。とりあえず、お参りだけして先を急ぎましょう。
しばらく歩くと、見たことのある風景が、目に飛び込んできました。門を入り、本丸歴史館玄関に到着。先日のお姉さんに、
「また続きを見せてもらいに来ました。そうそう、ここの御城印はあるのですか?」
「はい、中に入られて右の売店で販売しています」と笑顔で応対してくれました。
早速、売店で御城印をゲット! これだけで出るのは申し訳ないので、中を再度ぐるりと一周して外に出ます。さて、次はシシリアンライス。
ーーこれは、どうしても食べんといかんな。ここから佐賀駅までの間で食べることのできるお店はどこかいな?
シシリアンライス・マップなるものを iPad にダウンロードしているので、それで調べます。
ーーお店は、結構たくさんあるな。でも時間がないからな、どこかいいところは……
途中の喫茶店「トネリコカフェ」を発見。本丸通りから少し東に入ったアーケードの中にありました。
ドアを開けて入ると、落ち着いた雰囲気のお店で、カウンターに男性のお客さんがひとり、奥のボックス席にもグループの方がおられました。お姉さんひとりできりもりされている様子。カウンターに座り、シシリアンライスを注文。
これが、結構時間がかかった。JRの時間が気になるところだが、ここは、じっくり待つ一手かな? 何やら奥の方でお肉を炒める音やら混ぜる音やら悪戦苦闘といった光景が浮かぶ。
ーー大丈夫かいな?
しばらく待って、出てきたものは、
ーーほう、一見ちぎったレタスの入った焼きめしといった感じかな?
ところが一口食べてみると、
ーーあれ? チャーハンやピラフとも違う味!
ごはんには味がついていない。白ご飯に、牛肉をたれでまぶしたものに、生のレタスをちりばめた感じ。今までに食べたことのない味でした。
ーーうーむ、これがシシリアンライスか! 佐賀市の各地で出されているソウルフード?
旅の楽しみは、そこでしか食べられないものをいただくことでしょう。新感覚の食事に満足! オレンジジュースとセットで九百円でした。満足したお腹をさすりながら、JR佐賀駅に向かいます。
佐賀駅から本丸歴史館までは、二キロ半、歴史民俗館を廻って行ったので、往復約六キロメートルを急いで巡ったことになります。あわただしいことだったと反省しつつ、小倉行の特急みどりに乗り込みました。ふう~っ!
十一時三十六分佐賀発、博多で特急ソニックに乗り換えて、一時七分小倉着。
帰りの船は、九時乗船開始、九時五十五分小倉港出港予定です。
つまり、夜の九時まで時間があるわけなんですよ。時間があるというよりは、九時まで時間をつぶさないといけないのです。とりあえず、予定していた小倉城に向かいますか。
小倉城は、JR小倉駅から約一キロメートル。近いので、道に迷うことはありません。小倉城は、小六の時、叔父に連れて行ってもらったのが最初でした。その時は、小倉の駅を出て少し歩くと、井筒屋という大きなデパートがあり、その地下でカレーライスをご馳走になりました。カウンターで食べるのも初めてだったし、かなり辛かったのを覚えています。その後、小倉城に行ったのですが、なぜか屋外に展示していた大砲を見て驚いたのが強く印象に残っています。その後も、家族旅行で一度小倉城を見学しましたが、普通の展示だったので、あまり覚えていません。
ですから、小倉城を訪れるのは、今度で三回目です。何でも、小倉城内の展示を、大きくリニューアルしたとのこと。これは必見!
小倉の街は、デカイですね。四国とは、比較になりません。ビルの大きさや人の多さも、けた違い。外国人観光客、特に欧米からの人が多い印象を受けました。
整備された小倉城内の登城路を歩いて、天守閣に向かいます。天守閣内は、期待どおり、すべての展示がリニューアルされていて期待度満点。
小倉城
天守閣 一階
一階には、大きなスクリーンのシアタールームがあり、小倉城四百年の歴史を、なんと草刈正雄さんがナレーターで解説していました。
ーー草刈正雄さんは、小倉出身なのかいな?
(やはり、北九州市のご出身でした)
小倉城は、一六〇二年細川忠興により、約七年の歳月をかけて築城された。そして「すべての九州の街道は、小倉に通ず」といわれる程、本州と九州を結ぶ重要拠点でした。これらの小倉城の歴史を映像化して楽しく学ばせてくれます。
ーーやはり、こういうふうに映像で楽しく学べる工夫が大切なんだよな。
天守閣 二階
二階にも映像コーナーがあり、小倉藩を治めた細川家、小笠原家の歴史を解説しています。
細川忠興は、関ヶ原の戦いの功により豊前小倉藩を拝領し小倉城を築城した。築城時の様子や千利休の高弟で「利休七哲」のひとりとして茶の湯に精通していたことなどを紹介しています。また、創建当時の天守閣を再現した模型などを展示していました。
天守閣 三階
三階では、映像や照明により、宮本武蔵と佐々木小次郎について学ぶことができます。
佐々木小次郎の愛刀を再現した真剣が、宮本武蔵の木刀と共に展示されていました。
天守閣 四階:ギャラリースペース
天守閣 五階
五階は、展望スペースとなっており、小倉の街を一望することができます。当時の内装をイメージした作りになっていました。エレベーターが設置されており、下りは楽ちんでした。
私は、歴史に興味があるので、どうしても旅先では、お城は見逃せません。今回も、佐賀城、唐津城、名護屋城、そして小倉城と四つの城を巡ることができ大満足。城といっても、姫路城のように、江戸時代当時そのままの形で保存されている物、大洲城のように木造で復元したもの、鉄筋コンクリートで再現したものなどさまざまです。それぞれに見所があり、それぞれの良さがあると思います。今回、見学できた唐津城や小倉城は、鉄筋コンクリート造りですが、街の中に天守閣が堂々と聳えている様子は、市民に大きな力を与えていると思っています。
今日、見学させていただいた、小倉城は、大型スクリーンによる映像やメディアを駆使して、楽しく歴史が学べる施設に変身していました。このような素晴らしい小倉城を作り上げたスタッフさんと市民の方々に感謝、感謝です。
天守閣を出た後、休憩・売店コーナーに行き、御城印を購入。ここも外国人で大混雑でした。さすが小倉!
松本清張記念館
次に小倉城の敷地内にある、松本清張記念館に向かいましょう。すぐ近くのようですが、一応、グーグルマップを起動します。スマホの指示に従って、南に進むと大きな道路に出ました。通りに沿って右折し、歩道を少し歩くと、
「お疲れさまでした。目的地に到着しました」
と、元気な声が聞こえてきました。右を見ると、五十センチ四方くらいの黒いプレートに、「松本清張記念館」との表示があります。後ろには瓦葺きの建物が控えていました。
ーー結構地味な、記念館やな。そういえば、今まで行った文学系の記念館は、質素なものが多かったな。建物の大きさじゃないよね。内容だよね。
などと、独り言を言いながら入口を探します。
ーーなになに? 入口は、こっち?
右方向に進むように矢印が指示しています。案内に従って進むと、階段があり、降りるように矢印がありました。
ーーおかしいな? 地下から入るのかな?
階段を降りると、鉄筋の大きな建物の横を通って、さらに道は奥に続いています。そのまま進むと、今度は階段を上るように案内板がありました。
ーーん? 地上に戻るんだよね。わざわざ地下に降りたのはどうしてかな?
階段を上ると、ドドーンと大きな「松本清張記念館」という標識とともに、鉄筋コンクリート造りの巨大な建物が現れたのです。周りを見ると、広い駐車場、右を見ると、小倉城内から、直接来れる歩行路がありました。
ーーまいったな。普通は、前の広い道路に、正門を設置するのではないのかな? 小さな、案内板で、階段を降りたり、上ったりと、いろいろ迷わせてくれたけど、これもミステリー作家の松本清張さんの趣向なのかな?
亡くなってからも、皆をミステリアスに楽しませてくれる松本清張さんに敬意を表して
一礼します。
松本清張は、小倉出身の社会派ミステリー作家として、あまりにも有名ですね。私も、「点と線」や「ゼロの焦点」など、代表作は、結構読んでいます。
この記念館では、「日本の黒い霧」というドキュメンタリー作品を上映しているとのことで、その時間に合わせて入館するように調整しました。上映時間は、三時四十分から五時まで、一時間二十分の作品です。
迷いながら行ってみると、松本清張記念館は、おどろくほど大きな建物でした。地方の県立博物館くらいは、あるのではないかと思えるほどでした。上映時間まで、館内を見学します。
一番の目玉展示は、なんといっても、松本清張が仕事場にしていた住居を、そのまま移築、館内に展示していることでしょう。木造二階建ての家がそのまま展示室に移築されているのです。残念ながら、家の中に入って、触れることは、できませんでしたが、周囲から室内の様子まで良く見えるように、壁の一部をガラスに置き換えていました。緻密な調査・研究を経て執筆していたことは有名ですが、書庫には、膨大な資料や蔵書が、図書館のように整理されていました。ミステリーだけではなく、ノンフィクションの分野でも活躍されていたことが納得できる居宅でした。
シアタールームは、比較的こじんまりしていますが、映画館のような椅子ではなく、座りやすい椅子が、離れて配置されており、ゆっくりドキュメンタリー映画を楽しむことができました。
最後まで映画を鑑賞したのは、私と、あと二人いたかな? おかげさまで時間を有効に使うことができました。満足! 満足!
松本清張記念館さん、ありがとうございました。
ーーとはいえ、九時まで四時間か、まだまだ時間がたっぷりあるよ。どうするかいな?
とりあえず小倉駅に戻ります。後、しなければならないことは、お土産を買うことくらいかな?
どこで買おうかと、お土産店の場所を探していると、ふと思いつきました。
ーーそういえば、このJR小倉駅では、よく迷うんだよな。そうだ! この際、小倉駅を隅々まで歩き廻って、地理を熟知しよう!
小倉駅の構内の頭上には、モノレールが入っています。すべての出入口。隣接したショッピングモール、改札口、コンビニ、お土産店、レストラン街などをウロウロモタモタ。
さまざまな出入口から、各階の売り場などを細かく見て回ると、この小倉駅の構造が頭に入ってきましたよ。もう小倉駅の構造が、ばっちり頭の中にインプット。(すぐ忘れるけど……)
時間を見ると、六時過ぎになっていました。
ーーぼちぼち食事をするかな。
隣接するビルの、最上階のレストラン街に行き、店前の看板メニューを見て回ります。見えにくい所は、スマホで写真を撮り、拡大して確かめます。
肉料理のお店に入り、すき焼き定食と生ビールを注文。時間をかけてゆ~っくり食べます。時間は、た~っぷりあります。
とはいえ、ひとりでは、あんまり粘るのは不可能。ある程度で切り上げ、コンビニに向かいます。小倉港の待合室で、時間をつぶす為の小道具を購入しましょう。紙パック入りのワイン(赤と白)、おつまみ各種、お茶。次に、お土産店に行きお土産を購入。観念して小倉港に向かいます。
小倉港の待合室には、自動販売機以外何もありません。シンプルな待合です。
ーーあと、二時間弱だな、ワインをチビリチビリ飲みながら過ごすとするか。
なぜワインなのか?
缶ビールや缶チューハイだと、開けるときに、「プシュッ!」って音がするでしょう。すると、前方にある、乗船受付のお姉さんに、お酒を飲んでるとバレるんですよね。お酒を飲むのを禁止しているわけではないのですが、やはり、おっさんが待合室で「グビグビ」お酒を飲んでいるというのはNGでしょう。少なくとも好印象は得られないでしょうね。私も、そんなおっさんの横には座りたくないですよ。(笑)
ですから、外見は、二百ミリリットル入りのジュースのような紙パックワインを、ストローでチビッリチビリとやる訳なんです。
耳にはイヤホン。オーディオブッックを聴き、読書しながらいただきます。
どんな長い時間も、必ず終わりが訪れる訳で、やがて九時になり、乗船しました。
帰りも6人部屋に、私一人。個室感覚で帰途につくことができました。
今回の、佐賀の旅を振り返ってみて感じたことは、
・遺跡やミュージアムが整備され、楽しく学べるように工夫されていた。
・佐賀は、幕末・維新をはじめとして、歴史上重要な役割を果たしてきた。なのに、日本国民だけでなく、佐賀県民も、あまりその事実を知らない。
・今まで、長崎や鹿児島への通過点としか認識していなかったが、見所満載の観光地だった。
今度は、暑くない季節に、ぜひ再訪したいなと思っています。佐賀県の皆さんに感謝です。ありがとうございました。