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大輔とさつきの吉備路散歩 その2 神の山 吉備の中山を歩く 岡山 倉敷 総社 吉備 岡山県 倉敷市 岡山市 旧山陽道 旧道 吉備津神社 吉備津彦神社 岡山県古代吉備文化財センター 温羅
特別付録 大輔とさつきの吉備路散歩 その2
神の山 吉備の中山を歩く
舘 秀樹
大輔は、リハビリ室での治療を終えると、スタッフ用階段室のドアを開けた。これから十二階の血液内科に入院している患者の治療に向かうためだ。大輔が勤務している吉備中央病院は、岡山県最大級の救急病院であるため、重症患者が多く、リハビリ室に降りてくることができる症例は、他の病院と比較して少ない。当然、ベッドサイドでのリハビリが主流となってくる。
その日も、急いで階段を駆け上がっていると、四階のドアが急に開いて、出てきたスタッフと衝突しそうになった。
「あっ! すいません」
「あら? 大ちゃん、どうしたの? そんなに急いで」
「なんだ、さっちゃんか、びっくりした。特に急いでいるわけじゃないんだけどね。トレーニングかな?」
「さすが理学療法士やね。ところで、私たちの運動は、今度いつにする? 今週の土曜日は休みやけど……」
「いいねぇ。それじゃあ土曜日八時半でどう?」
「オーケー! よろしくね。私は新深明けだから、これから帰って寝まーす」
「お疲れさま! じゃぁね」
大輔は、笑顔でさつきの手を握った後、階段を上って行った。階段を上りながら、今度のさつきとの散歩の行先を考えていた。
--今度も、少し山道を歩くとするかな?
大輔は、趣味の登山をしており、体力維持の目的で病院内の移動には常に階段を利用していることは以前紹介した。階段を昇降する運動は、比較的簡単に取り入れることができるため、ホームエクササイズとして、患者さんにも薦めている。特に中高年を対象とした運動としても有用だ。
大輔の父親も理学療法士で他の総合病院に勤務しているのだが、以前こんな話をしていた。
「夏の終わりくらいになると、階段を昇降した時に、膝が少し痛くなるんだ。冬になると
痛みは全くなくなるし、膝もしっかりするように思うんだけどね。俺も年だから変形性膝関節症が少しでてきているのかなと思う。季節によって痛みの様子が変化する原因を考えてみたんだ。
結論としては、夏は蛇やスズメバチが出るので山に行く回数が減る。そのため下肢の筋力が低下してくるのが原因だと思う。
対応策として、夏は階段を積極的に使うようにはしているんだけど、そうすると余計に痛くなるんだよな。
自然な山道は、いくら上り下りしても膝は痛くならないのに、不思議だよな。大輔、どうしてだと思う?」
「階段も、登山道も下肢の筋トレとしては、同じような運動負荷だと思うけど、軽い膝のOA(変形性膝関節症)がある人には、階段は、負荷が強すぎるのかもしれんね」
「俺は、膝の角度に関係があると思うんだ。階段は、幅も高さも均一だから、上り下りする時の膝の角度は常に同じだよな。従って、常に膝軟骨の同じ場所に負荷がかかってしまう。自然な登山道は、床面の角度や高さが常に異なっているから、膝の屈曲角度や膝の捻じれや、左右の傾き角度が異なってくる、当然、軟骨のさまざまな場所に負荷が分散される。それで痛みが発生し難いのかなと考えた。
それで、階段昇降運動でも膝が痛くならないような方法はないかなと思った。
そしてこうしてみたんだ」
大輔の父親は、床の上に置いた足先を、内側に向けたり、外側に向けたりしながら、説明を続けた。
「階段を昇る時に、足先の向きや接地する場所を変化させながら登ったり、時々、一段とばしにしたりして、膝の動きに変化を加えながら階段昇降を続けてみた。
すると、思った通り、膝が痛くならなくなったんだよ。俺の考えた仮説は正しかったと思う」
そんな父の話を、思い出しながら階段を上って行った。
約束の土曜日がやってきた。今日は、家に近い、そしてウーさんやヒコさんとの思い出の「吉備の中山」を散歩することに決めている。
大輔は、いつものデイバッグを背負って外に出た。夫婦岩の横に立って、朝日の中にかすんだ吉備の中山を眺める。眼下に見える箱庭からは、踏切の音が聞こえてきた。総社行の列車が左向こうから近づいてきている。周囲の木々からは、小鳥のさえずりが取り囲み、目を閉じてこの中に溶け込んでいきたくなってくる。静かに目を閉じて深呼吸をしていると、さつきが軽やかな足取りで道を下りて来た。
「大ちゃん、おはよう! 待った?」
さつきは笑顔で、庭に立つ大輔の横に歩いてきた。
「いや、さすがはコードブルー! 時間ピッタリ!」
「ヘリは、別に時間どおりに運行しているわけではないんだけど。それはそうと、今日の予定は?」
「今日は、吉備津神社の西から登って、茶臼山古墳を経て、いろいろな磐座を廻って、吉備津彦神社に降りるルートを巡ろうかと思っているんだけど、それでいい?」
「オーケー! 昔からの遊び場で、ちょうどいい運動になりそうやね。運動のことは理学療法士さんにお任せしましょう」
二人は、家を出ると坂を下り、旧山陽道を右折し、吉備津神社一の鳥居に向かった。
「この一の鳥居から見た、吉備津神社の参道は、いつ見ても素晴らしいね」
「私も大好きよ。両側に松並木があって、吉備津神社までまっすぐに伸びていて、とても美しい景色だなと思う」
「五百メートルも真っすぐに続いているからね。この松並木は、岡山県では一番ということだよ。途中、JR吉備線と県道百八十号線が横切っているのが、ちょっと残念だけど」
二人は黙礼をし、一の鳥居を過ぎると、JR吉備線の線路を超えた。松の木の香りを楽しみながら歩いていると二の鳥居が見えてくる。二の鳥居を過ぎると、県道一八〇号線を横断する。ここからは、両側に松並木を配した歩道を歩く。右には、吉備松島線の車道が並走している。
少し歩くと目の前には「吉備津神社」の石碑と石燈籠が出迎えてくれた。
ここで道は左右に分かれる。右の道は、吉備の中山に続いている。二人は、左に並んでいるお店の前の道を進む。
「まずは吉備津神社をお参りしてから行こう!」
吉備津神社
二人は、手水場で身を清めた後、なだらかな石段を上り始めた。さつきが懐かしそうに、
「ここをヒコさんやウーさんと上ったことを思い出すね。皆さん元気にされているかな? いい人たちだったよね」
「本当に素晴らしい経験をさせてもらったね」
二人は、思い出すかのように立ち止まり、上を見上げた。
「今日は、僕が神社についても説明いたします。ちょっとばかり勉強してきました」
大輔は少し照れながら言った。
「へぇー! 大ちゃん古代史にも興味がでてきたんやねぇー! うれしい! それでは、よろしくお願いしようっと」
大輔は、階段を上りながら話し始めた。
「吉備津神社の主祭神は、ヒコさん、いや大吉備津彦命なんだけど、この神社が、いつごろ誰によって造営されたのかは、わかっていないらしいね。
言い伝えによると、吉備津彦命から三代目か五代目の孫が、吉備津彦命をお祀りしたとか、仁徳天皇が、吉備津彦の功績を聞き称えるために社殿を創建してお祀りしたのが起源とか、いろいろな説があるみたいだよ。
階段を上がった二人の目の前には、赤い大きな門がそびえたっている。
「この北随神門は、室町中期に再建されたもので、重要文化財になっているらしいよ」
北随神門を過ぎると、急な階段と大きな拝殿が目の前に迫ってくる。さつきは大輔の腕にすがりながら一段一段踏みしめるように昇っていく。
丸く太い何本もの柱で支えられた拝殿の前に立ち、大輔たちは目を閉じ静かに手を合わせる。目を開けて奥の本殿を眺めると、なんとヒコさんやウーさんが、笑いかけていた。思わず笑みがこぼれた。
いつものように参拝を終えて、左にある回廊に向かおうとするさつきを呼び止めた。
「今日は、じっくりと本殿を見てみようよ」
大輔は、回廊と反対側にある、広い敷地に向かって足を進めた。まっすぐ進んで、広場の端に立つと、吉備津神社の独特な形をした本殿全体を眺めることができる。
本殿というのは、神社の祭神を祀った社殿で、一般的には、境内の最も奥まった場所に鎮座している。神社によっては、塀などに覆われ、一般の参拝者には見えないようにされているものもあるが、吉備津神社は本殿の建築様式等を詳細に見ることができる。
神社参拝の基礎知識ではあるが、境内に小さな祠が置かれていることがある。これは境内社と呼ばれていて、これも神社本殿の一種である。
神社の境内社は、摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)と呼ばれている。特に本社に祀られている祭神と縁故の深い神様を祀る神社を摂社と呼んでいるようだ。ちなみに、寺院の境内社は鎮守社と呼ばれる。
大輔は、本殿の屋根を指さしながら
「寺社建築の屋根について、どういうところに注目したらいいかをまず説明するね。重要なポイントは三つあるんだ。
一 屋根の形式
二 平入か妻入か
三 屋根の葺き方
まず、屋根の形式から説明するね」
と言って、両手で、さまざまな屋根の形を作りながら解説を進めた。
「主に屋根には、四種類の形式があるんだ。
一 切妻(きりづま)
二 寄棟(よせむね)
三 宝形(ほうぎょう)
四 入母屋(いりもや)
でも、寄棟と宝形は、ほとんどがお寺の建物に使われていて、神社本殿の屋根の様式としては、切妻と入母屋の二種類になるみたいなんだよ」
切妻(きりづま)というのは、二つの面を山状に合わせた形状の屋根の形で、イメージとしては、本を少し開いて伏せたような屋根の形かな?」
さつきは、大輔の手のひらで作った三角形の屋根のイメージを見ながら首を傾げている。
「それって、私たちの家の屋根みたいなんだけど……」
「そうそう、普通の家の屋根の形だよ。その一般的な屋根の形を建築の専門用語で切妻っていっているとのことなのですよ。
切妻は、お寺の本堂には使われていないんだけど、神社では、本殿で切妻が採用されていて、ほとんどの神社が切妻なんだよ」
「そういえば、神社ってこんな形の屋根が多いような気がする」
「ただ、流造とか春日造のように、そこそこの神社特有の建築様式があって、同じ切妻でも、たくさんの様式に細分されているようだね。この吉備津神社も、吉備津造りと呼ばれている特殊な形なんだよ」
「いつの時代も、今までにしていない方法でしてみたくなるんだろうね。新しい方法とか、初の試みとかいうと心浮き立つもんね」
「そういえば、新発売とか、期間限定に弱いお方もおられるみたいだしね」
大輔は、笑いをかみ殺しながら、つぶやいた」
さつきは、聞こえていないふりをしながら、やはり笑いをがまんしている。
大輔は、手のひらで次に説明する屋根の形を作ろうとしていたが、あきらめて地面に絵を書き始めた。
「入母屋(いりもや)というのは、屋ねの上半分が切妻で、下半分は寄棟(よせむね)になっている形の建物なんだ。
寄棟というのは、四つの面を合わせた形状の屋根で、短い側は、三角形の面、長い側は台形の面をしているんだ」
「屋根の上半分と下半分が別の構造になっているということなんだよね。下半分の寄棟というのも、一般住宅でも結構あるような気がする。あれっ? 大ちゃんの家も寄棟じゃない?」
「そうそう、そうだった。僕の家の屋根の上にさっちゃんの家の屋根が乗っかっているようなイメージだよね。ハハハ」
二人は土の上に書いた絵を見ながら盛り上がっている。
大輔は、絵を足できれいに消しながら話を続けた。
「入母屋造りは、日本最古の建築といわれている法隆寺の金堂でも使われているので有名だけど、たくさんの神社で使われていて、本殿の形式としては一般的なんだ。
でも、寄棟は、主に寺院で採用されていて、神社の本殿)では、ほとんど使われない形式だよ」
また、宝形(ほうぎょう)という形式は、四面すべてが三角形になり、ピラミッドのような四角錐の屋根になるものだけど、寺院のみで採用されていて、神社では使われていないんだ。
「今のは、屋根の形式だけど、今度は、屋根の向きについて説明するね。これは、平入(ひらいり)と妻入(つまいり)という専門用語で分類されているんだ。
平入というのは、建物の正面から見て、大棟つまり、屋根の稜線の水平部が左右に伸びて、屋根が手前に流れるように見えるものを挿しているんだよ。
天照大神やイサナギのような天の国に住む神様である天津神系の神社の様式なんだ。
妻入というのは、建物の正面に立ったとき、大棟が前後に伸びて、屋根が三角の山の形に見える。地の国に住む神様、つまりスサノオのような国津神系の神社を祀った神社の様式なんだ」
「私の家でいうと、玄関の前に立って、屋根が三角形に見えるのが妻入で、屋根の瓦が見えるリビングの方を、建物の正面にしている方を平入というんだよね」
「ピンポーン! そのとうりでーす!」
「ということは、私の家は国津神系なのかな? フフフ」
「??? まあそういうことかな?」
大輔は、最後の屋根葺き(やねふき)について簡単に説明した。
屋根は、雨や雪にさらされるため、丈夫な素材で造られている。種類としては
・瓦葺き
・桧皮葺(ひわだぶき):ヒノキの樹皮を重ねて葺いたもので、日本古来の伝統的な技法。寺院・神社どちらでも使われ、とくに神社建築では最も格の高い屋根葺きとされている。
・こけら葺:木材の薄板を重ねて葺いたもの。
・茅葺(かやぶき)
・銅板葺(どうばんぶき):薄い銅板を重ねて葺いた屋根。葺いたばかりの銅板は、金属光沢のある赤茶色だが、経年によって錆びて緑青(ろくしょう)の色になる。近現代に造られた神社の社殿はほとんどが銅板葺である。
長い説明を終えた大輔は、再び吉備津神社本殿を見上げた。
「それでは、以上の観点からこの吉備津神社を見てみましょう。建物全体が見えるのでこの方向から見ているけど、これは神社を横から見ているんだよね。とすると……
拝殿は、本殿の手前に位置していて、屋根を見ると切妻造で、平入りの構造となっているのがわかるよね。つまり、吉備津彦は、孝霊天皇の第三皇子だったから、天の国に住む神様である天津神系の神様の神社ということになるんだよね」
大輔は、さつきの方を向いて尋ねた。
「本殿はどういう風に見える?」
「すごくかっこいいよね。切妻の屋根が左右に二つ並んでいて、とっても素敵!」
「ここから見ると本当に素晴らしいよね。どう見ても左右に二つ本殿が並んでいるようにみえるんだけど、あれは正式には前後に並んでいるんだよね。建築学的には『比翼入母屋造』と呼ぶらしいよ。一般的には、この吉備津神社独特の造りなので吉備津造と呼ばれることが多いみたいだけど」
「本当に立派な本殿よね。地元の住民としては誇らしいな」
「本殿の規模は、出雲大社や八坂神社本殿に匹敵する大きさで、出雲大社の約二倍以上の広さがあるんだよ。地面より一段高く、漆喰塗の土壇(亀腹)の上に建てられているので余計に大きく見えるんだろうね」
「建物の横にひさしがついているね」
「正面と側面についているのは、『裳階』(もこし)といって、軒下に付く庇(ひさし)のような物だね」
「屋根を見てみると檜皮葺だよね、裳階の部分は本瓦葺きになっているけどね。本殿・拝殿は国宝に指定されているのは有名だよね」
二人が、吉備津神社を眺めながら話していると、ジャージに野球帽という軽装の老人が近づいてきた。
「やっぱり吉備津神社は、この位置から見るのが一番かっこいいなぁ!」
大輔は、老人の方を振り返り、懐かしそうに言った。
「慎作さん、お久しぶりです。脚の調子はいかがですか?」
「明神先生、その節はお世話になりました。退院した頃は、ヨロヨロモタモタしとったんじゃけど、毎日こうして吉備津神社をお参りするようになって、足が、ぼっけぇしっかりしてきたんじゃ。ほれ! このとおり」
老人は、元気に足踏みをしている。半年前、畑で転倒し大腿骨頸部骨折になり、大輔がリハビリの担当になったのだった。
「やはり、毎日、運動することが大切なんですね。慎作さんこれからも続けてくださいね」
「はい! ありがとうございます。では、お先に」
二人は、慎作さんに手を振って別れ、拝殿の前に戻ってきた。拝殿の右側から長い回廊が伸びている。この長い回廊も吉備津神社の見所で、歴史を感じながら巡ることができる。
この長い回廊は、一五七三年から約十八年かけて造営されたもので、総延長三九八メートルの長さがあり、岡山県の文化財に指定されている。
左に石垣を見ながら回廊を少しずつ下っていくと、朱塗りの南随神門が現れる。
大輔は、門の手前で立ち止まった。
「南随神門は、一三五七年に再建され、吉備津神社最古の門らしいよ。国の重要文化財に指定されています。屋根は……」
大輔のことばをさえぎって、さつきが
「屋根は、入母屋造で、本瓦葺でーす」
「はい! 正解でーす!」
二人は笑いながら、南随神門を通った。
「回廊の途中にあるので、うっかりするとみのがしてしまいそうやね」
回廊をさらに進むと、右に回廊は分かれている。右折した突き当りが、御釜殿だ。
御釜殿は、一六〇六年に再建され、屋根は
入母屋造で、本瓦葺だ。特殊神事「鳴釜神事」が毎日行われ、国の重要文化財に指定されている。
「昔は、五つの社殿と七十二の末社があったらしいけど、今日は、摂社と末社は失礼して、中山に行くことにするね。この御釜殿の横からも外に出れるんだけど、一応、元に戻ってから行くね」
吉備津松島線(県道三八九号線)に戻る。右に犬飼牧童の像を見ながら進むと、犬養毅敬題注連柱、犬養毅敬題社号柱があり、奥には、鳥居が見える。
そこから道は、左右に分かれていて、左の道を進む。道は、やや細くなるが、神社に沿って続いている。しばらく歩くと、吉備津増島線は右に別れていくが、二人は左の細い道に進む、ちょうど分岐点に大きな標識がある。
右の社務所を見ながら、吉備津神社に沿って左に大きく道は曲がっている。
沢の音と共に小鳥の鳴き声が耳に飛び込んできた。木漏れ日の中、清々しい空気が景色を一変させる。大輔たちは、思わず深呼吸をして、歩調を緩めた。
目の前には、木々の緑の合間に、「吉備の中山遊歩道」の標識が見えてきた。
標識の横からはなだらかな石段が右に登っている。
「さあ、この遊歩道の入口から登って行こう! コンクリートできれいに整備された道で始まっているけど、これは、次に車道と合流するところまでなんだよな。後は、普通の土の道なんだ。その方が歩くのも気持ちがいいよね」
「そうそう、土の道が最高やね!」
吉備の中山遊歩道の入口には、標識とともに説明板が設置されている。
吉備の中山と細谷川(ほそたにかわ)
吉備の中山は、周囲約八キロメートルで、最も高い竜王山が、標高一七五メートル、東西約二キロメートル、南北約二.五キロメートルの備前、備中にまたがる山です。この山は昔から容姿秀麗な山として、また神山として注目され、崇拝され、神社仏閣、遺跡などの貴重な文化財がたいへん多い場所でもあります。
より一層、霊験あらたかな雰囲気の味わいの遊歩道を歴史の音がする細谷川音に耳を傾けながら、ぜひ歩いてください。(説明板より)
遊歩道の両側には、広葉樹が生い茂り、緑のトンネルの中に踏み込んだような神秘の風を感じる。ウグイスの声と心地よい沢の音を楽しみながら、細谷川に沿って坂道を百メートルほど上ると、先ほど歩いていた車道に再度合流する。一車線の小道だが、車の行き来があるので、注意しながら歩く。
道の左側には、地元の人が育てているのだろう、果樹が植えられている。二百メートル程歩くと、左に稜線に向かって直登する階段状の山道がある。標識には、吉備の中山と茶臼山古墳(御陵)と記載されている。
吉備の中山
この山は、その形から頼山陽が別名「鯉山(りざん)」と名付けました。
ここには吉備津神社、吉備津彦神社、茶臼山古墳(通称御陵)などをはじめとする貴重な文化財がたくさんあります。(説明板より)
「ヒコさんやウーさんと一緒にここを登ったよね。懐かしいね」
「そうだね。今日は、ここからではなく、このまま歩いて別のルートから巡ろうと思っているんだ。それでいい?」
「オーケー! あっ! それだったら、古代吉備文化財センターに寄ってもいい?」
二人は、そのまま道なりに歩くと、右に鉄筋コンクリート三階建ての古代吉備ブンカザイセンターの建物が見えてきた。駐車場には、すでに十数台の車があった。
正面玄関から中に入ると、さつきは、左の職員のいる部屋に向かった。
「こんにちは。展示室を見学させてください」
奥の机で書類に向かっていた中年の女性が顔を上げてこちらを見て、おどろいている。眼鏡をはずしてこちらに駆け寄ってきた。
「あらーっ! 久しぶりーつ! 山上さんじゃないの!」
「その説は、お世話になりました。久乃さん、相変わらず元気いっぱいですね。まだ、卓球続けていますか? 」
「卓球で青春しているよ。そうそう、吉備高校の古代史研究部だったよね。大学生も顔負けくらいに熱心に古代史を勉強していたなぁ。確か看護師になるとか言っていたような気がしたけど……」
さつきは、看護師になって吉備中央病院に勤務していること、大輔と結婚するようになったことなどを楽しそうに話している。大輔も、高校時代にさつきが、遺跡発掘のボランティアをしていたのを思い出しながら二人の会話を聞いていた。
懐かしの対面の後、展示室を簡単に見学し、センターを後にした。
来た道を道なりに二百メートル程歩くと、右に運動場が見えてきた。このあたりは運動公園になっているようだ。左には、標識があり、茶臼山古墳への遊歩道が続いている。
「ここからヒコさんの古墳を通って、竜王山頂上に行き、吉備津彦神社に降りようか」
「中山の頂上まで行くのは、何年振りかな?」
ここからは、なだらかな土の道が続いている。左には広場があり、そこを抜けると前方に中山茶臼山古墳が見えてきた。
中山茶臼山古墳
二人は、石段を上り、古墳の正面に立って黙礼した。さつきは、昔を回顧するように話し始めた。
「この中山茶臼山古墳は、四世紀頃に築かれたとされているから、時代は、古墳時代の前期かな? 前方後円墳だからヤマト王権の支配が及んでいたと考えられているのよね。全長一〇五メートルもの大きさがあるから、かなりの有力者のお墓であることは間違いないよね。
宮内庁の管理下にあるので、考古学的な発掘調査が行われていないので、はっきりとはわかっていないのよね。でも私は、ヒコさんがここで温羅さんと立派に役目を終えて眠っていると思うな」
「僕もそう思うよ。だから今でも、皆で大切に守られているんだと思う。この地域の人は、茶臼山古墳とはいわず『御陵』と敬意を込めて呼んでいるからね」
二人には、陵墓の奥から、笑顔で手を振っているヒコさんが見えていた。大輔とさつきも微笑みながら手を振り、元の道に戻って行った。
この吉備の中山は、昔から神の山として崇められてきた。その歴史を物語るかのように、山のあちこちに、史跡が点在している。それらの史跡を巡るように登山道が整備され、それぞれの史跡には簡単な解説が添えられている。
これらの整備は、「吉備の中山を守る会」が主体となって活動している。
安全で整備された登山道には、常に近隣の人々や遠くから見学に来た人々の姿が見られ、いこいの場所となっている。
二人は、遊歩道に戻って、茶臼山古墳の右側に続く道を歩き出した。
「この中山には、本当に、たくさんの史跡があるよね。僕は、今まで、あまり気にしたことがなかったんだけど、さっちゃんは、詳しいんだろうね」
「古代の遺跡は、結構、しっかり見て回ったけど、中世以降のものは、あまり知らないかも……」
遊歩道の両側には、お地蔵さんが、お祀りされている。説明板があり、江戸時代末期に造られた観音石像であるとのことだ。
「そうそう、大ちゃん、あのお寺のこと知ってる? 八徳寺っていうんだけど……」
さつきの指さす先には、小さな古いお堂のような建物があった。
「この八徳寺は、明治時代初期に提出された、『吉備津宮社記』によれば、元々は神社だったらしいのよ。『吉備津宮社記』というのは、吉備津神社の組頭と家頭十名が連署して、神社の概要を倉敷県へ提出した報告書で、本殿や祭られている祭神や神社の歴史などを調べて報告した記録なの。
それによると、八徳寺は『波津登玖神社』で、祭神は『温羅命』となっているらしいのよね。このことから、中山茶臼山古墳には、温羅さんが祀られているとする研究者も、いるくらいなのよ。不思議な話でしょ」
「ヘぇーっ! お寺が神社だったなんて、そんなことがあるんだね。いやまてよ。元々、古来から、日本では神仏混交が普通だったんだ。だから、お寺の中に鳥居があったり、普通にしていたんだよな。明治新政府が、神仏分離令で、無理やり分けただけなんだよな」
「だから、もしかしたら、この古墳の中には、ヒコさんと、ウーさんが仲良く眠っているかもしれないわね。うふふふ」
二人は、左にある茶臼山古墳を眺めながら歩を進めた。
道は一メートル位の幅だが、凹凸は少なく、森林浴を楽しみながらリラックスすることができる。時折、毎日、健康のために散歩しているらしい、中高年の人とすれ違う。犬を散歩させている若い女性が、「こんにちは」と声をかけながらすれ違った。老夫婦が仲良く森の中を散歩している光景はほほえましく、大輔とさつきも思わずお互いの顔を見て笑みが漏れる。
「ぱんっ!」
さつきが、手を打った。
「そうだ、ヒコさんたちの声が聞こえるかも……」
遊歩道の先に、左からの小径との交差点があり「穴観音」と書かれた標識が現れた。説明板には、
穴観音
中央の岩に石仏を刻み、側面に穴が彫られている。この石仏は一般的には観音様と呼ばれているが、阿弥陀仏、大日如来とする説もある。
正面に立つと前方に中山茶臼山古墳後円部の頂部があり、穴観音は中山茶臼山古墳の埋葬者を拝む時の磐座であることがわかる。
石仏の掘られている岩の穴に耳を当てると『観音様の声が聞こえる』『潮騒(潮が満ちる時の波の音)が聞こえる』という言い伝えが残されている。(説明板より)
二人は、左の小径に分け入り、金柵の門を開けて、古墳の敷地内に入った。そこには大小さまざまな石があり、さつきはその中に刻まれた穴に耳を寄せた。さつきは、うんうんと嬉しそうにうなずきながら笑っている。
「やっぱり、ヒコさんとウーさんは、ここにいるみたいよ。『仲良くやっているから、大輔さんと仲良く幸せになってな』と言ってくれたわ」
大輔とさつきの瞳には、ヒコさんとウーさんの笑顔が映り、涙で少しにじんでいた。
大輔が時々、山に登るようになったのは、就職して数カ月たった頃からだった。毎日が初めて経験する業務と患者さんとのやりとりは、若い大輔にとって緊張の連続だった。理学療法の専門教育を受け、国家試験に合格したとはいえ、治療については経験が浅く、当然知識も薄い。帰宅しても夜遅くまで勉強する日々が続いていた。
ふと、ある休日、家の庭から聞こえてきた小鳥のさえずる声にひかれて、家を出ていた。この吉備の中山周辺は、広葉樹の森が広がり、多くの鳥が生息している。樹種も豊富で、視線を上部に移動させると、薄い黄緑色から深い緑色のグラデーションの中に、木漏れ日がひかり、思わず足を止めて見入ってしまう。
中山での散歩を終えて帰宅した大輔は、心の疲れがとれて、スッキリとした清々しい気持ちになっていた。帰宅して、庭から広がる田園地帯や遥か先に見える岡山の市街地を遠望した時、自分たちが悩んだり、苦しんだりしていることが、いかにちいさなことであったのかを悟った。
それ以来、時間を見つけては、近隣の山に登ることを楽しみとするようになった。
今日も、さつきと二人で心地よい自然の道を歩いていると、なんとも幸せな気持ちになるのだった。
横を見ると、さつきは大輔の腕を軽く持って、足元に注意しながら歩いている。以前のように、ザックの紐を持つほどではないが、転倒には、十分な注意は欠かせない。
吉備の中山は低山である上に、山の稜線部も広くなだらかなので、この登山道も、遊歩道といった感じの、心地よい土の自然道が続いている。
茶臼山古墳から二百メートルほど歩くと、鏡石、環状石籬、八畳岩、ダイボーの足跡等、巨石が集まっている。
分岐を右に折れ、なだらかな道を七百メートル程進むと、山頂への分岐点の標識が現れる。
元宮磐座、八大龍王 三百メートル、天柱岩 五百メートルと記されている。
「ここから左に登ると山頂だよ」
「あっ! 山頂への登り口に、ちゃんとしめ縄が張られているよ、大ちゃん! 気が付いてた?」
「僕も、子供の頃は気が付いてなかったと思う。友達とそこらじゅう走り回っていたからね」
二人は黙礼をして、左の中山山頂への道を進む。約三百メートルほど緩やかで整備された坂を歩く、山頂への登り坂だが、途中、やや降りてから登り返す。
登りきると急に視界が開けてくる。そこには背丈ほどの巨石が祭られていた。元宮磐座である。磐座には、しめ縄が締められ、周囲には木の柵が設けられロープが張られている。
二人は、元宮磐座の前に立ち、手を合わせた。
「ヒコさんやウーさんの頃から、ずっとこの元宮磐座を御神体としてお祀りしてきたのよね。ずーっと、この吉備の人々の願いを聞いてくれて来たのよね」
「そうだね、現代では、神社やお寺の建物や、仏像に手を合わせているけど、大昔は、このように巨石や山そのものを神様として信仰してきた歴史があるんだな。日本独特の信仰や考え方なんだね。自然の中にある石や木、そして、やおよろずの神様がいらっしゃるという日本の考え方、僕は好きだな」
「私も同感。いろいろな神様がいらっしゃると思えば、他の宗教を信仰している人々と争いにはならないもんね」
「そうだね。世界中の人々が、そのような考え方になれば、戦争も起こらないかもしれないね」
元宮磐座 吉備の中山山頂
神社の社殿が無かった古い時代、人々は自然の大きな岩や崖に神様が鎮座されていると考え、これを「磐座(いわくら)」として崇め奉っていた。
吉備の中山には、各地に巨石があり、それぞれ命名されているが、この中山頂上近くにある大きな岩は、元宮磐座として現在は、吉備津彦神社が祀っている。
元宮とは、社殿が建てられる以前の神社の姿のことで、古代においては人々は、中山のこの磐座に向かって手を合わせていたのだろう。
磐座から少し坂を登ると吉備中山龍王山の山頂(一七〇メートルに到着する。
山頂周辺には、経塚、八大龍王が祀られている。
経塚
「経塚というのは、後世に伝えるために経文を書写して地中に納めた塚のことよ。経典は、筒や箱に入れて埋めたんだけど、仏具や鏡、刀などを一緒に添えることが多かったみたい」
経塚は、聖なる山につくられ、岡山県ではこの場所と倉敷市浅原にある安養寺のものが有名
経塚は八大龍王の両側に鎮座していて、各々から青銅製の経筒が出土しており、雨乞い祈祷に用いられていたが、明治時代に一つは盗まれてしまった。残った経筒は岡山県立博物館で大切に保管されている。
八大龍王
中山山頂にある祠で、龍神は、雲をあやつり、雨を降らせる力を持つとされている。
雨の少ない岡山南部の農耕社会では重要。
八大龍王の祠は、一七八一年からの七年間、大干ばつが起きた時、岡山の商人常磐屋が奉献したもので、豊島石製で八個の穴があいた祠である。
大輔たちは、山頂に立ち、前方に広がる景色を見ていた。東と南方向には樹木がなく、視界が開け、眼下が一望できる。さつきは、前方を指でさし示しながら言った。
「あの新幹線の高架あたりまで、ずっと海だったよね。あのあたりから河口がずっとこの辺まで入り込んできていて、海がキラキラと輝いて、空も真っ青でとってもきれいだったなぁ」
「海も空も、今の色とは全然違っていたよな。あ~あ、景色も写真に撮っておくんだったなぁ」
大輔も目を細めて、残念そうにつぶやいた。
「そうだね。でも写真では、あの美しさは再現できなかったかもしれないよ」
「そういえば、山で感動して写真に写して帰っても、ほとんどの場合、その写真を見ながら、違うんだよな……と思ってしまうよな」
「網膜に残しておく、あっ、違った、網膜から入力した信号を脳に伝達して、視覚中枢で……
あら、私、何を言いたかったんだっけ、ハハハ」
「要するに写真より、記憶に残しておいた方がいいって言いたかったんだよね。僕も同感!!」
しばらく遠くを眺めていたが、ふと思い出したように大輔は、ザックから何やら取り出した。
「はい、ちょこっと行動食を食べよう」
「あっ! チョコチップスクッキー、私も大好きよ。ありがとう」
二人は、口をモゴモゴさせながら、足守川や松島の方向を眺めている。この吉備地方の景色は、どこを切り取っても絵になる。高い建物がなく、広々とした田畑を足守川が曲線を描きながら通っている景色は、時間を忘れさせてくれるようだ。
休憩をとった後、二人は、分岐点まで戻り、吉備津彦神社への下り坂へ進む。道の幅は広く、整備されてはいるが、やや急な斜面も点在していて、下山時は滑りやすい。やはり、軽登山靴を準備した方が無難だろう。
道は、左右に蛇行しながら下っている。吉備津彦神社に続いており、迷うことはない。足元に注意しながら約二十分、坂を下ると、吉備津彦神社境内に到着。
三つの末社と共に、隣に鎮座する温羅神社が出迎えてくれる。二人は、温羅神社の前に並んで手を合わせた。いくつも並んだ小さな赤い鳥居をくぐりながら大輔が言った。
「この吉備津彦神社は、吉備の国が四つに分割された時に、備前の一の宮として、お祀りされたんだよね」
「そうよ。吉備津彦命さんが、住んでいた吉備津野宮は、今の吉備津神社の所だったという説が有力なのよね。昔は、吉備津神社を吉備津彦神社と呼んでいたみたいだし。でも、温羅さんは、こちらの神社でもお祀りしてくれていてよかったね」
大輔たちは、左の拝殿の方に向かった。
吉備津彦神社
夏至の日出には、太陽が鳥居の真正面から昇り、神殿の御鏡に入ることから「朝日の宮」とも称されている。夏至というのは、一年で最も昼の時間が長い日で、太陽の力が最も強い日とされている。
本殿は、一六九七年に約三十年の歳月をかけて、岡山藩主の池田光政公ら二代かけて造営したもの。屋根の造りは、切妻、平入で流造りである。
奥から、本殿、渡殿(わたりでん)、祭文殿、拝殿が一直線に配置されている。
拝殿で、参拝を終えた二人は、右横にある平安杉を見上げた。この杉は、樹齢千年以上といわれ、御神木である。
鳥居の方向に歩くと、左右には、大きな燈籠がならんでいる。この大燈籠は、高さ一一.五メートル、笠石八畳の日本一大きな燈籠といわれている。一八五九年に天下泰平を祈願して建立されたとのこと。
一六九七年に池田綱政が造営した随神門(ずいじんもん)を出ると、松並木が道の両脇を飾っている。
参道をそのまま前方に見える鳥居に向かって歩くと、車道に出る。右は「妹尾御津線」、真っすぐ進み、線路を渡って左折するとJR吉備線の「吉備一の宮駅」
大輔たちは、随神門を出ると左に参道を進む。正面の鳥居をくぐると、左には「吉備中山のみち」が続いている。吉備津神社までは、約二キロ、ゆっくり、緑の木々の中を鳥の声を聴きながら歩く。
さつきは、歩きながらたずねる。
「大ちゃん、今日はお弁当を作ってきていないんだけど、お昼ご飯どうする?」
大輔は、待ってましたとばかり、笑顔がこぼれる。
「実は、久しぶりにピザを焼こうかなと思って準備しておいたんだ。今朝、早く起きて、ピザの生地にピザソースを塗ったり、具材を置いてチーズをのせたりして、下ごしらえをしておいたんだ。生地は市販のものだけどね」
「すごい! その計画、大賛成! 久しぶりに、お父さんと作ったピザ窯が活躍できるね」
「帰ってから、薪に火をつけて、釜を温めないといけないからすぐには食べれないけど、ゆっくり、用意しようか。タクアンとチーズの燻製でも先に作って、缶酎ハイでも、ちびりちびりやりながら用意しようよ」
「いいねぇー! そうと聞いたら早く帰らないと……」
二人の今日の散歩はここまで。消費したカロリーより、この後摂取するカロリーの方が多いような気がするが……
吉備路を散歩する際に役立つ情報を以下にまとめました。
吉備津神社
吉備津神社公式サイト
https://www.kibitujinja.com/
概要 吉備津神社は、古代から伝わる歴史的な神社で、桃太郎伝説ゆかりの地として知られています。
岡山県古代吉備文化財センター
岡山県古代吉備文化財センター公式サイトhttps://www.pref.okayama.jp/site/kodai
概要 一階の展示室には、古代吉備に関連する貴重な収蔵品が展示されています。また、デジタル図書室もあり、古代吉備に関する資料を閲覧することができます。遺跡探訪マップや桃太郎伝説に関する情報も充実しています。
桃太郎伝説 日本遺産
桃太郎伝説の生まれたまち おかやま公式サイト
https://momotaro-ura.jp/
概要 日本遺産に登録されている「桃太郎伝説の生まれたまちおかやま」では、古代吉備の遺産と桃太郎伝説が関連付けられた物語を紹介しています。鬼退治の伝説が生まれた地を訪れる際のガイドとしても活用できます。
吉備の中山ウォーキングマップ
吉備の中山ウォーキングマップダウンロードページ
https://momotaro-ura.jp/download/list/
概要 吉備の中山を散策する際のウォーキングマップがダウンロードできます。古墳や遺跡、景色を楽しみながら歩くためのガイドとして便利です。
吉備の中山を守る会
吉備の中山を守る会公式サイトhttps://kibinonakayama.com/
概要 吉備の中山を守る会は、地域の自然や歴史を守る活動をしています。吉備の中山の保護活動に関心のある方は、こちらのサイトで情報を得ることができます。
これらのリソースを活用して、吉備路の散策を楽しんでください。
大輔とさつきの吉備路散歩
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