超低空飛行
こんな言葉を探していた。
2022年10月1日(土)朝日新聞朝刊 「読書」の欄に大島真寿美さんの「たとえば、葡萄」という本の紹介がされていました。
その記事のタイトルは「普通じゃない人たちの、普通の話」。その「普通じゃない」というところに惹かれて読み始めました。なぜなら私はいつも自分のことを「普通じゃない」と思ってきたから。「普通」という言葉になぜか敏感になっている自分がちょっとおかしいのではないかと思うほどです。
普通ではいたくない。私は特別なんだ。「普通の主婦」ではない。私はちょっと変わってるんだ。
と、常に思っています。これは皮肉とか謙遜とか自己肯定感が低いとかとは正反対で、「変わってる」「普通じゃない」ことに誇りを持っているという意味です。
しかし見た目はいたって普通。暮らしもいたって普通。ただ、頭の中にだけちょっと突飛な自分がいるのです。と自覚しています。そしてそれは、「特別である」ことを信じたがっている私の弱い部分なのかもしれません。
その紹介文の中で、さらに引き込まれた箇所があります。
というくだり。
私はこの物語の中にエキストラとして参加しているのかも、と錯覚するほど「超低空飛行を続ける自営業者」という言葉のピースがピタッと私の心に収まりました。
かつての私、「超低空飛行を続ける自営業者」はガス欠により飛行も不可能になり、砂漠にズブズブと不時着。それでも超低空だったために、さほど衝撃もなく生き残りました。そのまま砂漠を右往左往とさまよい歩くひとりの人間になりました。
そんな過去の自分を表すのにぴったりの言葉に出会ったのです。
超低空飛行の自営業者
自分を「型」にはめるのは好きじゃない。と思いながらも、そういう「型」を見つけるとなぜか安心する、人間の特性でしょうか。「自分はこんな状態だった」というあやふやな記憶に、ピッタリな言葉が当てはまりスッキリした。こんな経験が何度かあります。
言葉に敏感過ぎ、と我ながら思います。
そういう言葉が存在する、本の中でも使われるということは、私以外にもたくさんの人々がその状態であった、今もそうであるという証拠で、それが自分に安心感をもたらすのかもしれない。
普通じゃない、変わってる。と言われるのが好きといっても、所詮人間である以上「同じである」感覚はやはり安心なんだな。
当時はその「超低空飛行の自営業者」である自分を情けない、なんとかしたい、と必死だったけれど、この新聞に出てきた言葉を読んだときには、自らすすんでその状態であることを楽しんでいる、そういう呼び名に愛着さえ感じます。
そう感じるのは、自分がもうその過去をネガティブに捉えていないという証拠ですね(人によってはもちろんマイナスにとらえる人も多いだろうけど)。
うまくいかなかったことは、いつか「人生のネタ」になる。あらためてそれに気づかされました。自分もそういう年になってきたということです。そしてまだまだネタづくりは続きます。
祖母が先日、95歳で亡くなりました。会ったのは人生で数回。話すときは敬語でした。どんなふうに生きてきたのか、ほとんど知りません。それでも95年という長い年月にどんなことがあっただろう、たくさんの苦労も幸せもあっただろうなと想像すると、涙が出てきます。
もっと会いに行けばよかった。もっと曾孫たちの写真を送ってあげればよかった。自分のことばかりに忙しくて、相手の気持ちを考える余裕がないなんて。
子育てに仕事に忙しい時期だから。なんて一言で片付けてよいわけがない。これを教訓にもっと母に連絡をしようと思います。
新聞記事にあった、「人生の折り返しを過ぎた人々」になりつつある自分ですが、これからはそうやって自分を呼ぶのもいいなと思ったりして。
意外と型にはめるのが大好きなことに気づきました。普通でいいんだ。変わってなくてもいいんだ。どうでもいいんだ。