言葉は上澄み✨(言葉と文章 その2)
言葉は上澄みだと思っています。
オギャアと生まれ落ちた時から、生きる事は身体を使う事と不可分だけど、長ずるにつれ言葉を使う事を覚えて考える事を身につけてゆくと、身体や心で感じ取る事から分離されてゆきがちになります。私の時代には思春期鬱などという言葉はありませんでしたが、多感な時期だけに痛みを恐れて身動きが取れず、それでも知識ばかりが増えて頭デッカチになり、尚更身動きが取れなくて生きるのが辛かったのは、まさしく思春期鬱そのものだったと思います。
そんな私が、子育てをしながら、転んでも転んでも立ち上がりながら歩む事を覚えていく幼な子達の生きる意欲に何度励まされてきたことか。
より良く生きようとすればするほど負荷がかかり迷い悩みながらも、与えられた状況の中で自分自身を見つめ直しながら最善を尽くす。そのエネルギーが尽きる事は無いという事を子供達と一緒に育ち直しながら学んできたように思います。
その言葉の下にどれだけの経験があって、そこから抽出されたものなのか?
真剣に生きて全力で泣いて笑って苦しんで喜んで怒って許して傷ついて傷つけて、たくさんの経験が重なって醸されて滲み出た上澄みであればこそ、味わい深くそう何かを伝える力があるのだと思います。
後ろに暗闇を抱えていてこそ白い花がよりくっきりと輝くように。
踏みつけられた草がより深く根を伸ばして立ち上がって来るように。
命は常にその先へと伸びてゆく。
光の方へ明日の方へ。
この世に生を受けた命の使命が尽きるところまで目指してゆきたい。
今ここにある命を喜びながら。
今を共に過ごす誰かとそれを分かち合いながら。
何かを求めて言葉を探す誰かに伝われと祈りながら。
そう、これは私の祈り。
命を与えられた喜びを分かち合いたいという祈りの言葉。
読んでいただいてありがとうございました。