生きづらさについて
早くに寝たので早くに目が覚めて、snsを眺めていた時、とあるツイートに目が止まりリプライを返した。
早速イイねとリプライをいただいたので、その方の固定されたツイートに添付されたブログを読み、少し深掘りしてリプライの内容について書いてみることにした。
まず、そのやりとりを示す。
「SOSを出そう」とは良く言われるけれども、本当に困った時には、SOSを出してもロクな結果には繋がらないと身に沁みている。
私自身が生きづらさを自覚したのは思春期と共にだったので、今ならば思春期鬱というところだったかと思われる。
とは言えその当時は何がどのように生き辛いか説明する術も無く「消えたい」「死にたい」と思う気持ちを秘めて、表面上は日々をやり過ごしていた。
keep passing the open windows
と唱えながら。
今、思えば、私が10歳の時に亡くなった実母と、その後父が再婚した義理の母と、それぞれの規範から逃れられず、目指すべき方向を見失っていたと思う。
その規範に従いつつ、そこから逃れる為に、望んでくれる人と結婚して子供が産まれた。
生きづらさは変わらなかったが、子供達を育て上げるというミッションには全精力を使った。
娘として生き、母として生きて、その経験は得たけれども、満たされない何かに追われるようにして、子供達の成人を待って「ひとり」になり、個人として生き直し自分自身を育て直し、今更だけどわかってきた事がある。
あまりにも過去に縛られて、身動きが取れなかったのだと。
亡くなった実母が自死だったと知った時には更にいろんな事が腑に落ちた。
母親に捨てられた子供として育ち、その母親を反面教師としての子育てを経て、それらの体験を通して身に沁みたのは、助けられて育てられた子供は適切な時に適切な相手にSOSを出せるけれども、その経験が無ければ、もう誰も助けようが無い状況にならなければSOSを出せないという事。そこまで行ってしまったら、もう自分自身で這い上がって来るしか無いという事。
そして誰にもその力はあるにもかかわらず、何かを頼り身を預けていては、その力を発揮できないという事。
誰も本当の意味で誰か他の人を助ける事などできない。
ただ、自分自身の命を精一杯生きることだけが他の誰かへの励ましになる事はあると思っている。
私が伝えたいのは、今、まさに生きづらさを抱えて道に迷っていても、生き延びさえすれば、その意味がわかってくる時が必ず来るという事。
それを実母に伝えることはもうできないけれど、今、同じ思いをしている誰かに伝えられたらと思い言葉にしてみた。
あなたにはその力がある!
生きづらさを読み解くには生きてみるしか無いけれども、ひとりひとりにその力が備わっていると信じてる。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。