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ラーヤと龍の王国はディズニー版ドラゴンボール

悪者に石にされた父と人々を救うため、時に闘い、時に仲間と協力し、バラバラになって世界中に散った龍の石を集めて願いを叶える。
……もちろん、ドラゴンボールのことではない。

ラーヤと龍の王国|映画|ディズニー公式

ざっくりあらすじ(ネタバレ注意)

川を中心に人と龍が共存する平和な王国「クマンドラ」。
人々が争い出す→魔物出現→全員石化→龍の石で魔物撃退&人復活
→人また争う→5つの国に分断(ここまで前置き)
ハート国族長、5国仲直りパーティー開催→ハート族長の娘ラーヤ、ファング族長の娘ナマーリと友達に→即裏切られ龍の石が割れ魔物復活→欠片を4国(テイル・タロン・スパイン・ファング)族長が持ち逃げ→欠片をラーヤに託し父石化
ラーヤ思春期冒険編スタート→最後の龍シスー復活→ テイル・タロン・スパインで龍の石の欠片をゲット、仲間を増やして次の国へ→ファングでナマーリと再会→シスー死す!→ライバル対決→友情→龍の石の力で人も龍も復活→みんな仲良し大団円

アナ雪から続く親問題

アナと雪の女王との共通点にして微妙に進化したのが「親の教育&呪いの遺言」。
アナ雪では娘エルサに「魔法を隠せ」と言い残し、物語早々海の藻屑となって退場した両親。
ラーヤでは「人を信じること」を教え、物語早々石になって退場した父。
アナ雪では親の教えを守ったせいでエルサが闇堕ちするわけだが、今作では父の教えを守った娘ラーヤが友だちに騙され、成長後逆に強烈な人間不信となる。
アナ雪は単純に救えない両親だったが、ラーヤでは最終的に父の教えは正しかったということになっている。
しかし、主人公の性格を捻じ曲げたのはそもそも親の「教えを守った」せいだ。
とりあえずやってみて失敗から学ぶのが世の常だが、時には「教えを守ること」とは別に、考え方の前提を再認識する為の教育も必要なのでは、と思わずにはいられない。もしくは裏切られたときのメンタルの保ち方もセットで教えとけと。
子どもにとってダメをやらないが安全だが、考え方の片面だけ教えてその他ノータッチというの は、ある意味"良い"ことだけ教えたい親の典型とも言える。
また、物事の二極化はエンタメとしてわかりやすく商業的にも正しいし、そもそも子供向けの映画だからこうなるのもわかる。が、もうちょっと他にないのかと、この展開を見るたびに思ってしまう。
教訓めいた童話を映像にするのがディズニーの手法であり、問題がなければ物語の推進力がなくなるのもわかる。
しかし、子ども向けのようで親を気持ちよくさせる構造は純粋にこの映画の不全感に繋がっているように思える。アナ雪のような人気がこの映画にないのは、物語の教訓が、苦労の末主人公が掴み取ったものではなく、父親の教えそのものに帰結してしまうという点が大きな要因の一つな気がする。

テーマについて

ラーヤのテーマは「信じること」。過去を水に流し、相手を信じて一歩を踏み出す。
政治・貧富・知識など、あらゆる格差や違いが分断を生んでいる現代。そんな世相をタイムリーに反映したテーマと言える。
ツケという信用経済も取り扱っていて、子どもの教育にも事欠かない。
とは言え、「何でもかんでも信じる」親の教えが正しかったという雰囲気で終わっていることが、ここでも引っかかってくる。
実際問題、現実は詐欺やデマが気軽に横行しているし、信じたいものだけ信じていたら陰謀論者にでもなりそうなものだ。
それに、親うんぬん以前に国のトップがひょいひょい敵対国の人間を自国に集めてパーティーをするというのは、いきなり野生の狼を撫でようとするようなもので、信用の土台や手順をもっと考えろよとツッコミたくなる。
偉大なる信用の一歩を踏み出すのは素晴らしい。失敗は誰にでもある。
しかし、核スイッチに警備も置かず全体の意識統一もせず危機管理のできない国のトップは単純に信用できないと思うのは自分だけだろうか。
トップについて行ってみんなで仲良く崖から落ちてくのはいかがなものかと。来世に生き返ると信じて集団自殺するみたい。実際生き返ったけど。

信用は分断を繋げるのか

分断を"信じる心(believe&trust)"で繋ごうというのがディズニーの頭の良い人たちが導き出した回答なわけだが、実際それは可能なのだろうか。
そもそも"信じる"とは何か。
ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」によれば、人類は共通の神話(虚構)を信じることによって厖大な数の見知らぬ人どうしが協力できるようになった、というようなことが書いてある。
簡単な例でいうと、会社は"会社"という存在を信じる人たちの共通認識によって成立し、店の商品棚は信用を前提として手に取って見ることができる。
この信用が成立しなければ、人々は狩猟民族時代に戻ってしまう。狩猟民族といえば、役に立たない仲間を後ろから鈍器で殴り殺すとか、そんな感じ。まさに世紀末、北斗の拳のような世界とも言える。
ラーヤで言う"信じる"ことで分断を繋げるとは、人間同士の信頼と、龍を信仰するという意味だ。
クマンドラの宗教は龍と水を基本としたアニミズムに近い。そしてその宗教が人類統合の基盤となる。
つまり、信用とは『共通認識』を基盤とし、それを守ることと言える。
現代は思想の多様化によって認識の基本がバラバラになっている。
そういう意味では、宗教を中心とした思想の統合は分断をつなげるとも言える。
もちろん、その分犠牲も多い。宗教に入りたくない人に理由を聞けばだいたい答えは出るだろう。YouTube教の人々にタブーを聞いてみるのもいいかもしれない。
ということで、ラーヤの結論はまさに規制にうるさいディズニーらしいアンサーと言えるだろう。

龍と魔物が象徴するもの、石化ポーズの謎

そもそも龍とは架空の生物で、人々が共通の物語を信じることで生まれた生物であり、信じることの象徴のような存在だ。
そして魔物は疑いの象徴だ。互いを疑うことによって魔物は増える。
“信じる”は”疑う”とセットだ。”善”があるから”悪”があるのと同様、どちらかがなければもう片方もありえない。
魔物に魂を奪われた者は、一直線に立って手で水をすくうポーズで石になる。
石化した人々のポーズは宗教的な見た目の通り、信じることを意味している。
ラーヤたちが石化した際はその特有のポーズにならない。
これは単なる主人公補正だけでなく、ラーヤたちはポーズを取らなくてもすでに"信じている状態"で石になったので、わざわざ宗教っぽいポーズにならなかったのだと推測できる。
では、なぜ魔物に襲われると信じるポーズになるのか。
それは恐らく、疑いの化身である魔物は魂を奪うが、信じる心だけは奪えなかった、という感じだろう。
そして、すべての人が信者ポーズになるのは、すべての人の中には信じる心がある、という性善説的な構造だ。
ちなみに、なぜあのポーズなのかについては、
・信仰ベースが川と龍なので、「水をすくう」、「龍の石(信心)を捧げる、掲げる、支える」という意味
・宗教的ポーズ(特に祈りを捧げる際)のイメージといえば、両手の指を組む、両手の平を合わせる、両手で印を結ぶなど、世界的に両手を合わせるものが多いので、パッと見の印象でわかりやすい
・顔の近くに手があるとバストアップのカメラ視点で映える(かなり重要)
…等といった理由が考えられる。

なぜ龍の石は最後に創られたのか

どう考えても「最初からやれ」案件である。
それでも、龍たちはギリギリ追い詰められるまで龍の石を作らなかった。
これは、龍も魔物を生み出した人間を最後まで信じるこができなかったからかもしれない。
しかし、ラーヤたちが最後に裏切り者ナマーリを許し心の底から信じたのと同様、最後の龍たちは人間を許し信じることにした。そして奇跡が起きた。
龍だけが石化から戻らなかったのは、人間が信じることを忘れたままだからだろう。龍は信じる心の化身だから、人々の信心なしに復活できなかった。
”信じる”と”疑う”は表裏一体だから基本片方しか存在できない。だから魔物は龍の力が強くなれば退散するし、その逆もしかり、という仕組みなのかもしれない。
この理屈は、シスーが射られてしまった状況とも一致する。
シスーは龍を信じるラーヤの心により現世に戻った。しかし、ラーヤの心が疑いに染まった時、シスーは物語からの退場を余儀なくされてしまったのだ。

短編映画『あの頃をもう一度』

本編前に流れるショートムービー。
まず、街で踊り回る人々の映像を見て「わぁ、みんなマスクしてねぇ!」とか思ってしまうコロナの弊害。
それは置いといて、外に出たがらない偏屈ジジイとその妻の短編物語。
雨に濡れたときだけ若返る逆デススト現象の中、妻と街を踊り回るも雨は去り、歳を取った今の生き方を見つめ直す。
雨、濡れる物体、水たまりのできる道路、反射する光。CGによる水の表現を極めた技術の塊。モアナでも水が凄かったが、その表現力は磨かれていく一方で、もはやCGによる不気味さは欠片もない。一方その頃、日本では気味の悪いCGアニメが…。
それも置いといて、掴むこともできずただ去っていく雨は若さのようであり、しかし若くなくても人生を楽しむことはできる。過ぎ去ったものを追うのはやめ今を謳歌しよう。
そんな美しいストーリーが言葉もなく音楽と映像で表現される。じんわり心を潤す見ごたえのある短編だ。

総評・感想

奇跡を起こす龍の石、増える特殊能力、強力な絶対敵、5つの国とそこで仲間になる個性的なキャラクターたち、そしてライバルとの死闘の末、協力して悪を滅ぼし、最終的に全員生き返る…。少年漫画の王道をディズニーが全力で作ったらこうなりましたなストーリーでオラわくわくすっぞ!な展開がてんこ盛り。
しかも必要な要素を超圧縮し整理整頓する手腕は流石天下のディズニー。このまま漫画になってジャンプに載ってても不思議じゃない。王道ストーリーを学びたい人はとりあえずラーヤを構造分析すると良い勉強になりそうだ。
それに特筆すべきはキャラクターの表情。シスーに訴えかけるナマーリの表情は目は口ほどに物を言うという言葉ピッタリに、相手の感情が手にとるように伝わる。
映像はどこをとっても美しく、CGにおける画面整理や空気感、リアルと簡略の絶妙なラインを保っている。リアルなだけなら実写でいいが、CGで美しくキャラクターと背景を馴染ませる表現力は流石である。
もしディズニーに対抗するなら、シェーダーを工夫して3Dを2D表現に落とし込み、アートに寄った映像美に徹するのが妥当だし、今の日本のアニメ業界はそっちにシフトしていて、それも流石だなと思ったりする。
ストーリー、構成、ヴィジュアル、テーマ、世界観、キャラクター。どれをとっても完璧に整理されているが、一点気になるところが。
それは、信じる=善、疑う=悪という二極化。ディズニーは小さい頃からずっと見ていて大好きだが、このアメリカンな二極化思想だけは昔からどうしてもついていけない。
前提を疑わないからこそ、社会の中で身を滅ぼす人が後をたたず、時代遅れな悪習や法律が維持され続ける…。このように、信じることで悪が栄えることもあるのだから、疑う=悪という思考は単純にいかがなものか、と思う元ブラック企業勤めの自分であった。

ラーヤと龍の王国、総評は『完璧』!けど微妙に気になる!…だがそこがいい!
死ぬほど王道なのに万人受けしないのがなんかオモロいです。どこがドラゴンボールと違うか(特に思想面)比べるとエンタメへの造詣が深まりそう。
そういった意味で比較や考え方の教材としても優秀なので、非常に興味深い映画だと思います。

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