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結城親朝の離反|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載117

 南北朝時代の興国元年(1340)7月、奥州の南朝大将として北畠顕信が石巻(宮城県)に入城した。

 顕信は南朝勢力を結集し、北朝大将・石塔義房を陸奥国府の多賀城から追い出そうとする。しかし白河の結城氏や守山(郡山市)の田村氏など福島県勢の参戦を得られないまま2年が経過。しびれを切らした顕信は興国3年(1342)10月、石巻の領主・葛西氏の軍勢のみを率いて出陣。結果、大軍を擁する石塔義房に三迫(宮城県栗原市)の合戦で敗北した。この敗戦で葛西氏が北朝に降伏し、居場所を失った顕信は出羽三山(山形県)へ落ち延びていった。つまり奥州で南朝勢を指揮する者がいなくなってしまったわけだ。

 この状況にもっとも危機感を募らせたのは白河の搦目城主・結城親朝である。

 親朝の亡父・宗広は南朝の重鎮として奥州では一目置かれた存在であった。親朝も延元3年(1338)秋に結城家を相続した直後から南朝の権威回復に努めてきた。

 だが白河という地理的問題が親朝を悩ませることになる――。すぐ南の関東・常陸国(茨城県)では顕信の父・北畠親房が戦っており、興国元年(1340)夏あたりからしきりに親朝へ援軍を催促してきたのだ。時期はちょうど顕信が陸奥国府奪還作戦を発令した頃。親朝は北畠父子の間で板ばさみになったわけだ。


 そして親房の要請を断り切れなくなった親朝は、興国2年(1341)に常陸へ援軍を派遣。逆に顕信の作戦には加われず、翌年秋に顕信は石塔義房に敗北してしまった。

 興国4年(1343)正月。「自分の判断は正しかったのか」と、親朝に自問している暇はなかった。再び常陸の親房が執拗に援軍を求めてきたのだ。

 このとき親房は親朝に対し「正統な天皇である南朝に尽くすのは当然」だの「勝利した暁には官位を与える」だのと権威についてばかり述べてきた。武士が最も大切にしているのは〝自分の領地を守り増やすこと〟だということを、まったく理解していなかったのである。

 一方の親朝は「このまま南朝に従っていたら先祖代々の土地を北朝に奪われてしまう」と、現実的なことを考えるようになる――。

 そこで親朝は同年6月、ついに決断を下した。陸奥国府の北朝へ書状を送り「奥州南部8つの地域(白河、高野、石川、岩瀬、安積、田村、小野、依上)での検断職(警察権)を与えてくれるのならば寝返ってもよい」と伝えたのだ。

 石塔らにとって白河結城家が味方となってくれるのは何よりの朗報だ。すぐに石塔を通じて北朝の総大将・足利尊氏から「条件をのむ」との返答が白河に届く――。

 こうして結城親朝は「守るべきは家と領地だ」と、南朝から離反したのである。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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