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【歴史】伊達氏の発祥―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載86

 平安時代の貴族・藤原実宗は常陸国(茨城県)の役人となり、同国伊佐郡(茨城県筑西市)に土着。その子孫は〝伊佐氏〟と称するようになる。やがて伊佐氏は下野国中村(栃木県真岡市)にも勢力を拡大。中村に入植した分家は〝中村氏〟を名乗った。

 源平合戦が激化した西暦1180年代に、この伊佐一族から〝伊佐朝宗〟という武将があらわれる。朝宗は、本家当主の座を長男の為宗に譲って隠退。出家して〝念西〟と号した。そして中村に移り、分家を直接指導するようになる。そのため周囲からは「常陸で入道した中村に住む念西」と認識され〝常陸入道中村念西〟と呼ばれた。

 文治5年(1189)8月、中村念西(伊佐朝宗)は鎌倉幕府の御家人(幕府に属する武士)として、奥州藤原氏との戦に参加。信夫佐藤氏を打ち破る最大の功労者となった。その褒賞として与えられたのが、陸奥国伊達郡である。すると念西は「伊佐や中村の周辺には多くの御家人が割拠している。これ以上の領地拡大は望めない。ならば奥州で勢力をひろげよう」と考えたらしい。すぐさま一族を率いて新天地を目指そうとした。とはいえ本拠地を完全に放棄したわけではない。伊佐は引きつづき長男・伊佐為宗に任せ、中村には四男・中村資綱を残した。そのうえで次男・伊佐宗村を引き連れて伊達郡に赴いたのである。

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 念西と宗村が伊達郡に腰を据えたのは西暦1190年代と推測されている。父子が館をかまえたのは高子岡(伊達市保原)であった。なぜ高子岡か? それはこの一帯で砂金が産出されていたからだ――。現在、阿武隈急行・高子駅の近くに〝高子沼〟なる水辺があるが、ここに西暦1590年まで金の精錬所があったと云われている。ひょっとしたら念西は、伊達郡で砂金が採れることを事前に知っていたのかもしれない。だから率先して移住した可能性もある。経緯はどうあれ念西と宗村が、新たな領地にちなんで姓を〝伊達〟と改めたことは間違いない。ここに〝伊達氏〟が誕生したのである。

 やがて伊達念西は、高子岡を伊達宗村に任せて自らは桑折に移る。阿武隈川の東岸だけでなく西岸にも領地が増えたためだろう。つまり念西は一族が伸張するたびに「伊佐→中村→高子岡→桑折」と、すすんで転居していったわけだ。このことから〝チャレンジ精神に溢れた武将〟という念西の人物像が垣間見える。

 正治元年(1199)10月、念西は72歳で病没。その墓は桑折町内にある。――ところで伊達家の家系図には諸説あり「伊達朝宗は念西ではない。宗村が念西である。さらに宗村の名は為重が正しい」とも言われている。しかし一般的には〝朝宗=念西〟と解されているため、本稿ではこれに従って伊達氏の発祥について考察させてもらった。    (了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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