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田村庄司の系譜|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載128
郡山市の東部から三春、田村市、小野にかけての旧田村郡は、かつて〝田村庄〟と呼ばれていた。庄とは荘園のことで、有力貴族や大寺社の私有地をさす。もともと田村は安積郡に属していたが、平安時代の西暦900年代に安積より分立し田村庄となった。
荘園ということは地主がいたわけで、田村の荘園領主は紀州の熊野神社(和歌山県)であった。熊野神社がどのような理由で安積から田村を割いたかは不明だが、紀州から奥州の田村を直接支配するのは不可能である。そこで熊野神社は〝庄司〟という管理人を雇うことにした。
鎌倉時代の西暦1190年代から藤原氏の流れをくむ武士が田村庄司となり、田村を姓とした。田村庄司は本拠を守山城(郡山市田村町)に定め、実質的に田村庄を支配していく――。なお三春にも田村を名乗る武士がいたが、こちらは平家の血筋。三春田村氏が勢力を拡大するのは西暦1400年代からで、それ以前まで田村の武士と言ったら守山の田村氏すなわち田村庄司であった。
元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅び、やがて南北朝の争乱が始まると田村庄司は終始一貫して南朝を支持。これは地主が熊野神社だったからと推測される。熊野神社は南朝と固い絆で結ばれていたのである。しかし1353年(南朝・正平8/北朝・文和2)5月、田村庄司が守っていた宇津峰(郡山市/須賀川市)が陥落し、奥州南朝は壊滅。田村庄司は北朝の足利氏に降伏、滅亡は免れたものの衰退を余儀なくされる。
一方、田村と並んで一時は奥州南朝の大黒柱だった白河の結城氏は、宇津峰陥落の10年前に北朝へ寝返っており、勢力の温存に成功していた。それどころか足利氏から8つの地域(白河、石川、岩瀬、安積、高野、田村、小野、依上)の検断職に任じられていた。検断とは先述8地域での警察権と軍事動員権を行使できる役職。つまり白河結城氏は田村庄司にあれこれ指図できるようになったのである。さらに結城氏は、足利氏が関東地方支配のため設置した鎌倉公方とも結びつきを深め、地盤を確固たるものとした。こうなると田村庄司は面白くない。かつて南朝のために戦っていた戦友が旧敵のもとで出世したどころか、いきなり上司面してきたのだ。
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白河と田村の対立は応永元年(1394)に表面化する。鎌倉公方の足利氏満が関東と奥州の武士に対し「鶴岡八幡宮を改築するので費用を出せ」と命令。すると時の白河領主の結城満朝が、田村庄司へ「我らの分も負担しろ」と一方的に押しつけてきたのだ。田村の当主・田村則義は当然激怒。さらに田村庄司は同じころ鎌倉公方に追われ下野国(栃木県)から守山城に逃れてきた小山若犬丸を匿っていたこともあり、ついに白河と鎌倉を相手に一戦交える覚悟を決めたのである。(了)
おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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