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鎌倉時代の遺産問題―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載94

(2021年10月号)

 武士の遺産相続というと一般的に「父親の領地を長男が総取りする」と思いがちだ。間違いではないのだが、これは江戸時代(17世紀以降)からの話。それより約400年前の鎌倉時代は異なっていた。

 鎌倉時代の財産といったら土地。鎌倉時代の武士は、子ども全員に領地を分与しなければならなかった。そして、そこには女子も含まれていたのである――。例えば福島太郎さんという武士がいたとしよう。太郎さんには次郎、三郎、花子という二男一女がいた。すると太郎さんは三人すべてに遺産を譲与することになっていた。娘の花子も対象なのだ。これは明文化された法律ではなく、いわば慣習。鎌倉時代は、女性も土地の所有者になる権利が保障されていたのである。ただし配分は父親の一存で、平等に土地が分け与えられたわけではない。そのため父の死後に子どもが、しばしば争っている。じつは、遺産をめぐる争いを明確に示す史料が、桑折町に残されているので紹介したい。

 当時の桑折町は、伊達氏の分家である桑折氏が治めていた。弘安6年(1283)頃の当主は、桑折親長という武士。親長には八男六女の計14人の子どもがいた。親長は慣習に従い、それぞれの子にどの土地を分与するかを生前に取り決めている。相続内容を詳細に記して証明するのは〝譲状〟という書類。譲状を子ども全員に渡し、親長は世を去った。

 ところが直後から騒動が勃発する。藤原氏女という娘が、鎌倉幕府に訴えを起こしているのだ。この女性は本名を明かさず「私は桑折氏の遠祖・藤原氏の末裔にあたる女です」と名乗ったことから〝藤原氏女〟と呼ばれている――。それはともかく氏女は「父の親長が私に譲ってくれた土地を、兄の桑折時長が横領しました」と、腹違いの兄・時長を訴えたのであった。要するに、父の遺言どおりに遺産相続が行われなかったと怒っているのだ。

ふくしま歴史イラスト001 (1)

 訴状を受理した幕府は、さっそく調査に乗り出す――。まず氏女と時長の双方に、言い分を文面にして提出させる。これを吟味した後、さらに当事者を鎌倉に呼び出し、それぞれの意見を奉行が聞き取り調査。そして裁判が結審したのは永仁5年(1297)のこと。なんと提訴から14年後である。

 判決は〝氏女の敗訴〟と下された。幕府の調査によって彼女が持っていた譲状が、偽物であると断定されたのだ。結果、氏女は偽造の罪で処罰され、自分のものと主張していた土地は、兄のものとして認められたのである。

 この逸話のポイントは「鎌倉時代の女性は男性と法廷で争えるくらい対等な立場にあった」ということ。桑折の藤原氏女は敗訴してしまったが、他の地方には訴え出たおかげで、逆に自分の土地を取り戻せた女性もいたことだろう。      

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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