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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載84-鎌倉幕府とふくしま

 文治5年(1189)9月、奥州藤原氏が滅亡。みちのくの支配権は源頼朝と鎌倉幕府の手に移る。この時から東北地方での鎌倉時代がスタートしたと言っていい。平泉を占領した頼朝は論功行賞を行い、戦功のあった御家人(幕府に属する武士)たちに奥州の土地を分け与えた。配分は次のとおりである。


・常陸国(茨城県)の中村念西
 →伊達郡(伊達市周辺)

・相模国(神奈川県)の二階堂行政
 →信夫郡(福島市)と岩瀬郡(須賀川市)

・伊豆国(静岡県)の工藤祐経
 →安積郡(郡山市)

・下野国(栃木県)の小山朝光
 →白河郡

・小山朝光の一族・宗政
 →会津郡田島(南会津)

・小山朝光の一族・盛光
 →会津郡伊南(南会津)

・小山朝光の家臣・山ノ内経俊
 →大沼郡横田(金山町)

・相模国(神奈川県)の佐原義連
 →会津郡と耶麻郡

・下総国(千葉県)の千葉常胤
 →行方郡(南相馬市)

 一方、田村地方(田村庄)は熊野神社の荘園(私有地)とされ、引き続き〝田村庄司〟なる代官が治めた。また石川氏(石川町)や、岩城氏(いわき市)と標葉氏(双葉郡)は源頼朝に従ったため領地を保障されている。そして奥州藤原氏とともに最後まで戦った信夫佐藤氏。彼らは滅んだわけではなく、飯坂(福島市)での存続を許されている。

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 このように一部の地域では例外があるものの、当時の福島県には関東の御家人たちが大挙して移住してくることになった。のちに中村氏は伊達、工藤氏は伊東、小山氏は結城、小山宗政は長沼、小山盛光は河原田、佐原義連の子孫は芦名、千葉常胤の子孫は相馬とそれぞれ姓を改め、戦国時代まで血脈を保っている。ただ、鎌倉時代が幕を開けた直後のポイントは「どの家も、すぐに故郷を離れて新天地に移り住んだわけではない」ということ。ほとんどの御家人が、一族の中から代官を選んで奥州に派遣している。つまり奥州は〝関東の飛び地領〟として扱われたのである。関東の本家に対して奥州の代官は分家と位置づけられ、本家から強い制約を受けた。自由に土地を支配できたのではなく、開墾や年貢など細かいことまで本家の指示に従わなければならなかったのである。そのせいで鎌倉時代では〝奥州は関東より格下〟という風潮が生まれてしまい、次にきたる南北朝時代において奥州武士たちは、まずは〝関東からの脱却〟を目指していくことになる。

 ちなみに一族こぞって移住した御家人も、いることはいた。中村念西が興した伊達氏だ。のちの戦国時代、伊達政宗が奥州のチャンピオンになれたのは、先祖が真っ先に新天地に根ざしたことが遠因だったのかもしれない。           

(了)


おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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