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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載83-阿津賀志山の合戦(後編)

阿津賀志山の合戦(後編)

 文治5年(1189)8月7日。鎌倉から進撃してきた源頼朝は、約2万の軍勢で源宗山(国見町)に着陣。目の前には奥州藤原氏が築いた阿津賀志山の防塁がある。守るのは藤原国衡が率いる約3000の兵。兵力で優位な頼朝は「このまま一気に攻める」と宣言。ところが直後に〝青天の霹靂〟が発生。晴れた空に雷鳴が響きわたったのだ。迷信深い当時は、これを不吉と判断。結果、7日の総攻撃は中止された。とはいえ頼朝は無為に過ごしていたわけではない。夜になると兵に「暗闇に乗じて防塁に接近せよ」と指令。秘かに堀の一部を埋め立てさせた。いくら闇夜とはいえ、この行為は平泉軍のほうで察知できたはず。だが国衡は何故か黙殺した。「堀がなくても負けない」とでも思っていたのだろうか。

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 翌8月8日。いよいよ朝から鎌倉軍が攻撃を開始した。埋め立てた堀を難なく越え、平泉の兵に襲いかかる。それでも平泉軍は残された堀と土塁を盾にして、懸命に防戦。この日は防塁の突破を許さなかった。

 夕方になり、いったん兵を引いた鎌倉軍。「防塁を破るのは容易ではない。新たな策を練らなければ」と、頼朝を中心に軍議をひらく。すると翌9日の朝。石那坂(福島市平石)で討ち取った信夫佐藤氏の将兵の首が、頼朝のもとに届けられた。「今度は心理的ゆさぶりだ」と思いついた頼朝。この日は攻撃を控え、国衡の本陣から見える場所に信夫佐藤氏の首をさらした。「お前ら唯一の味方は全滅した。いずれお前らもこうなるぞ」と、無言の圧力をかけてきたのである。これは平泉の兵たちに多少なりの動揺を与えたに違いない。さらに鎌倉軍は別の一手も打つ。阿津賀志山の西につらなる山々に別動隊を向かわせ、防塁の後方にある国衡の本陣へ奇襲をかけることにしたのだ。さっそく夜明け前、山越えに出発した別動隊。一方、鎌倉本隊は10日の朝から、再び防塁へ総攻撃を開始した。――一進一退の攻防が続く中、ついに別動隊が山越えに成功。平泉軍の虚を衝き、側面から突撃した。これで平泉軍は総崩れとなってしまう。大将の国衡は討死し、阿津賀志山の防塁は陥落した。

 阿津賀志山の戦い――。勝敗を分けたのは、やはり〝経験の差〟だろう。4年前まで平家と死闘を繰り広げていた鎌倉軍は戦に慣れており、次から次へと策を繰り出した。特筆すべきは〝山越え迂回作戦〟だ。これは源義経が得意とした戦法。仲違いしたとはいえ頼朝は、義経から学ぶべきところは学んでいた。対して平泉軍は、あまりにも無策すぎた。俗に黄金文化と呼ばれる平和な時代が長く続いたため、大規模な合戦を経験していなかったためである。

 ちなみに「経験の浅い奥羽勢が敗北する戦い」が、阿津賀志山から約600年後にも起こる。戊辰戦争だ。残念なことに諺どおり、歴史は繰り返されてしまったのである。  (了)


おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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